16 血まみれの牙(1)
リリィはゆっくりと手を動かし、ルシナの頬に触れた。指に触れたその肌はひんやりとしている。
ルシナの赤い双眸は、不安定に揺らめく光を宿しながら、リリィを見つめている。
その瞳からは、今にも涙が溢れそうな――そんな気がした。
「ルシナ……」
この短い日々の間で、何度その名を呼んだだろう。
今と同じ、夜の森で初めて彼に出会ったその時から、リリィの心の中に決して消えることのなかった名前。
風が吹き抜けた。
ルシナの黒髪が揺れて、長い前髪にかかった白い額が露わになる。
何という――冷たくて、空虚で、妖しい美貌なのだろう。初めてあった時から、怒りも悲しみもないその顔に、リリィは強く魅せられたのだ。
両手を彼の背に回し、金色の頭を強く彼の胸に押し付けた。
人間と同じ、命ある鼓動が聞こえる。この瞬間も、力強い息吹を刻んでいる。
離れないように――消えてしまわないように、リリィはルシナを強く抱きしめた。
人を惹きつけずにはいられぬ存在感を放ちながらも、ひどく虚ろなその体を、リリィはどうしても繋ぎ留めておきたいと強く願った。
「おぞましいなんて……思わないよ」
くぐもった声でリリィは静かに言った。
「あたしたちも、動物を食べる。その命を糧にして生きてる。それと……人間を食べる魔人が同じって言ったら、すぐ頷けはしないけど……でも、命を奪って生きてるってことは同じ。あなたが、あたしたちが動物を殺して食べるのと同じように、人間を殺して生きる生き物だっていうなら……あたしはそれを受け入れる」
「…………」
「人間が全ての基準だなんて思わない。それぞれがそれぞれの生き方を全うしているんだもの」
「…………」
「だから……」
リリィはルシナの背中に回した腕に、力を込めた。
「傍にいて。まだ初めて会って間もないけど……あたしは、ルシナにいてほしい。あたしはルシナが……」
リリィが言葉を紡ごうとした時、ルシナの手がゆっくりとリリィの背中に回された。何かを探し求めるようなその動作を、リリィは愛おしく思った。
「……ありがとう」
ルシナは右手でリリィの金髪を優しく撫でた。
「俺は昔の俺を知らないけど……そんな風に言われたこと、きっとなかったと思う。――嬉しいよ」
その言葉を受け止め、しばらくして、リリィはルシナの胸から少し離れ、顔を上げた。
すぐそこにルシナの顔がある。リリィを見つめている。
ルシナのしなやかな指が、少女の顔にかかった髪をそっと彼女の耳にかけた。薔薇色の頬が夜の空気にさらされる。
リリィは自然と眼を閉じた。
ルシナはリリィの頬を両手で包み込み、ゆっくりと顔を近付けた。時が止まってしまったかのように、リリィは感じた。
ルシナの吐息が唇にかかる。
「……っ」
突然ルシナはびくんと体を震わせ、顔を背けた。
リリィの顔から両手を離し、彼女の肩をぐいと押した。
「……ルシナ?」
「ごめん……」
ルシナの肩が上下している。荒い呼吸がその唇から漏れていた。
「どうしたの!?」
「何でもない……俺から離れてくれ」
「どうして――」
「血の匂いが……くそ、今の今まで平気だったのに……」
リリィははっとして自分の膝を見た。出血はほとんど止まっているものの、その傷口はまだ乾いていない。
「あたしの血……?」
「悪いけど……しばらく離れて。今君の顔、まともに見たら……どうにかなりそうだ」
今まで聞いたことのないルシナの苦しげな声に、リリィは動揺した。
彼は戦っている。自分の中に潜む狂気と。血に飢えたその魔性と。
「ルシナ……」
リリィは離れることができず、彼の背中をさすった。
こんなことをしても何にもならないことはわかっている。しかし、遠くからルシナが苦しむ姿をただ眺めているのは、どうしてもしたくなかった。
「離れろって言ってるだろ……」
語気が強まったルシナの声に苛立ちが混じった。
リリィは強く首を振る。
「いや」
「何で……」
後ろからルシナの体を抱きしめた。
「食べてもいいよ」
「何……言ってるんだ」
どのような表情なのかはわからないが、ルシナが動揺しているのははっきりわかった。
その背中に額を当ててリリィは言う。
「母さんに会うまで死にたくないけど……ルシナが苦しむくらいなら……いい」
「そんなこと言ったら……今までの道のりが全部無駄になるじゃないか」
「うん……でも、あたしそれでもいいかなって思ってる。少しでもルシナの助けになるなら……」
「正気か?」
「……わからない」
ルシナは正面に回ったリリィの腕を握った。彼の掌はじっとりと汗ばんでいる。
「今の俺は……いつもの俺じゃない。君の世迷言を受け流せるほど冷静でもない……本当に、君を……」
「いいよ……何をしても……ルシナなら」
リリィがそう言った後、ルシナの中で音がした。恐らく、理性の箍が外れる音が。