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アナテマ  作者: はるた
第一章
17/124

16 血まみれの牙(1)




 リリィはゆっくりと手を動かし、ルシナの頬に触れた。指に触れたその肌はひんやりとしている。

 ルシナの赤い双眸は、不安定に揺らめく光を宿しながら、リリィを見つめている。

 その瞳からは、今にも涙が溢れそうな――そんな気がした。


「ルシナ……」


 この短い日々の間で、何度その名を呼んだだろう。

 今と同じ、夜の森で初めて彼に出会ったその時から、リリィの心の中に決して消えることのなかった名前。


 風が吹き抜けた。

 ルシナの黒髪が揺れて、長い前髪にかかった白い額が露わになる。


 何という――冷たくて、空虚で、妖しい美貌なのだろう。初めてあった時から、怒りも悲しみもないその顔に、リリィは強く魅せられたのだ。


 両手を彼の背に回し、金色の頭を強く彼の胸に押し付けた。


 人間と同じ、命ある鼓動が聞こえる。この瞬間も、力強い息吹を刻んでいる。


 離れないように――消えてしまわないように、リリィはルシナを強く抱きしめた。

 人を惹きつけずにはいられぬ存在感を放ちながらも、ひどく虚ろなその体を、リリィはどうしても繋ぎ留めておきたいと強く願った。


「おぞましいなんて……思わないよ」


 くぐもった声でリリィは静かに言った。


「あたしたちも、動物を食べる。その命を糧にして生きてる。それと……人間を食べる魔人が同じって言ったら、すぐ頷けはしないけど……でも、命を奪って生きてるってことは同じ。あなたが、あたしたちが動物を殺して食べるのと同じように、人間を殺して生きる生き物だっていうなら……あたしはそれを受け入れる」

「…………」

「人間が全ての基準だなんて思わない。それぞれがそれぞれの生き方を全うしているんだもの」

「…………」

「だから……」


 リリィはルシナの背中に回した腕に、力を込めた。


「傍にいて。まだ初めて会って間もないけど……あたしは、ルシナにいてほしい。あたしはルシナが……」


 リリィが言葉を紡ごうとした時、ルシナの手がゆっくりとリリィの背中に回された。何かを探し求めるようなその動作を、リリィは愛おしく思った。


「……ありがとう」


 ルシナは右手でリリィの金髪を優しく撫でた。


「俺は昔の俺を知らないけど……そんな風に言われたこと、きっとなかったと思う。――嬉しいよ」


 その言葉を受け止め、しばらくして、リリィはルシナの胸から少し離れ、顔を上げた。

 すぐそこにルシナの顔がある。リリィを見つめている。


 ルシナのしなやかな指が、少女の顔にかかった髪をそっと彼女の耳にかけた。薔薇色の頬が夜の空気にさらされる。


 リリィは自然と眼を閉じた。


 ルシナはリリィの頬を両手で包み込み、ゆっくりと顔を近付けた。時が止まってしまったかのように、リリィは感じた。


 ルシナの吐息が唇にかかる。


「……っ」


 突然ルシナはびくんと体を震わせ、顔を背けた。

 リリィの顔から両手を離し、彼女の肩をぐいと押した。


「……ルシナ?」

「ごめん……」


 ルシナの肩が上下している。荒い呼吸がその唇から漏れていた。


「どうしたの!?」

「何でもない……俺から離れてくれ」

「どうして――」

「血の匂いが……くそ、今の今まで平気だったのに……」


 リリィははっとして自分の膝を見た。出血はほとんど止まっているものの、その傷口はまだ乾いていない。


「あたしの血……?」

「悪いけど……しばらく離れて。今君の顔、まともに見たら……どうにかなりそうだ」


 今まで聞いたことのないルシナの苦しげな声に、リリィは動揺した。

 彼は戦っている。自分の中に潜む狂気と。血に飢えたその魔性と。


「ルシナ……」


 リリィは離れることができず、彼の背中をさすった。

 こんなことをしても何にもならないことはわかっている。しかし、遠くからルシナが苦しむ姿をただ眺めているのは、どうしてもしたくなかった。


「離れろって言ってるだろ……」


 語気が強まったルシナの声に苛立ちが混じった。

 リリィは強く首を振る。


「いや」

「何で……」


 後ろからルシナの体を抱きしめた。


「食べてもいいよ」

「何……言ってるんだ」


 どのような表情なのかはわからないが、ルシナが動揺しているのははっきりわかった。

 その背中に額を当ててリリィは言う。


「母さんに会うまで死にたくないけど……ルシナが苦しむくらいなら……いい」

「そんなこと言ったら……今までの道のりが全部無駄になるじゃないか」

「うん……でも、あたしそれでもいいかなって思ってる。少しでもルシナの助けになるなら……」

「正気か?」

「……わからない」


 ルシナは正面に回ったリリィの腕を握った。彼の掌はじっとりと汗ばんでいる。


「今の俺は……いつもの俺じゃない。君の世迷言を受け流せるほど冷静でもない……本当に、君を……」

「いいよ……何をしても……ルシナなら」


 リリィがそう言った後、ルシナの中で音がした。恐らく、理性の箍が外れる音が。

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