15 真実と選択
夜の世界に光を与える銀盤は、今は空の黒に沈んでしまったかのように消えてしまっている。
リリィはルシナに手を引かれ、彼の行くままに走った。
彼がどこを目指しているのかわからない。恐らくそれはルシナ自身にもわからないのだろう。
街を抜け、舗装された道を駆け抜ける。イグリスの街に灯っていた灯りはやがて遠くなり、真の夜が支配する闇の中に出た。
道の両側にあるのは、ルシナと出会った時と同じような森だ。
「ルシナ……」
息も絶え絶えに、リリィは彼の名を呼んだ。
聞こえているのかいないのか、ルシナは何も言わず走り続ける。
リリィの体力は既に限界に近かった。
リリィも同世代の女子と比べて体力がある方だが、亜人たちから逃げてきた時から少しも速度を緩めず走り続けているのだ。
ルシナの手を握っていた右手が滑り落ち、バランスを崩して前のめりに転んだ。
「リリィ!」
ようやくルシナは立ち止まり、リリィに駆け寄る。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
両膝に痛みを感じて手をやると、ぬるりと生温かいものが触れた。転んだ時地面にぶつけた両腕もひりひりする。
「ちょ、ちょっと……すりむい、ちゃった、みたい……」
必死に呼吸を整えながら何とか鼓動を抑えようとする。しかし、リリィの心臓は激しく脈を打ち続けていた。
全身を虚脱感に襲われ、地面と一体化してしまったかのように体が動かない。
「動ける?」
「ごめ……む、むり……」
すると、突然リリィの体がふわりと浮き上がった。
「!?」
「しっかり捕まってて」
ルシナに抱き上げられたのだと思った時には、彼は既に走り出していた。
しかし先程と同じように道をまっすぐ行くのではなく、横に逸れて森の中に入る。
「ルシナ……? どこに行くの?」
「わからない」
さらりと答えて、ルシナは走り出す。人一人抱えているとは思えない足取りだ。
走っている間、リリィはルシナの首に腕を回していた。
今までで一番、彼の体温を近くに感じている。
そっと押し付けた左胸からは、ゆっくりリズムを刻む心臓の鼓動が聞こえてきた。
「…………」
少しでもルシナの負担にならないように体に力を入れていたが、あまりに心地良くて眠気が襲ってきた。
重くなる瞼に耐え切れず、遂に眼を閉じる。
遠くなる意識の中、ルシナの足取りが段々と遅くなっていくのを感じた。
「リリィ、下ろしてもいい?」
「あ、うん」
慌てて眼を開け、地面に足を付ける。柔らかい土の感触があった。
暗くてよく見えないが、川の流れる音が聞こえる。どうやらここは水辺のようだった。
ルシナは服の端を切って、川の水で濡らし、リリィの傷に当てた。
「足、大丈夫か?」
「うん。そんなに痛くないから……」
しばらく沈黙した後、リリィの隣に座ったルシナが口を開いた。
「ごめん。俺のせいでこんなことになって……」
「……ううん。でも、お金も荷物も置いてきちゃった」
「大丈夫だよ」
ルシナは呟くように言った。
リリィは心の中にずっとあったものを口にする。
「何があったの? どうして急にいなくなったりしたの?」
「うん……」
ルシナは少しの間黙り、やがて顔を上げてリリィをじっと見つめた。
「君には、黙ってようと思ったんだけど……言うことにするよ。もう隠すこともできないし……」
その言葉に、リリィは急に不安になった。
彼が今言おうとしていること――それがとてつもなく不吉なことなのではないか、そんな思いが彼女の心を支配した。
「リリィ、よく聞いてくれ。そしてよく考えて。俺が今から言うことを聞いても、俺と一緒にいるのか……」
「言って……」
少し間を置いて、ルシナは言った。
「俺は人間じゃない。君が前に言ったよな。俺が亜人かもしれないって……そうだったんだ」
「……思い出したの?」
ルシナはその質問には答えなかった。
「リリィ――俺をおぞましい化け物と軽蔑してくれて構わない。イグリスで、心臓の無い死体が見つかっただろ。あれをやったのは――俺なんだ」
心臓を握りしめられるような思いがした。
ルシナが、目の前にいるこの人が――リリィの傷の手当をしてくれた手で、人間の心臓を抜き取ったというのか。
そんなこと――。
「本当――なの?」
ルシナは頷いた。
「馬車で俺たちを襲ってきた殺し屋の一人だった。図書館で会ったんだ。仲間の復讐のために、俺たちをつけていたらしい。彼は俺を殺そうとした。銃で俺を撃ったんだ。弾丸は、俺の頭を撃ち抜いた」
「…………」
「でも、俺は死ななかった。痛かったけど、傷もすぐに消えたんだ。そしたら、俺の中で何かが弾けた」
「…………」
「気付いたら、俺の手は彼の胸を貫いて、心臓を引きずり出していた。そして……俺はそれを……食べたんだ」
リリィは凍りついたように動けなくなった。視線も何もかも、目の前の青年に捉えられた。
「何が何だかよくわからなくて……でも、俺は確かに、それをうまいと感じた。血の香りに酔いながら、夢中で食べてた」
ルシナはリリィの肩を掴んだ。指が食い込むほど力強く。そしてその手はかすかに震えているような気がした。
「その後に……ある光景が広がったんだ」
「え……?」
「死体がたくさん転がっていた。数えきれないほど。そこに、俺は一人で立っていたんだ。手は血塗れだった」
その瞬間、リリィの脳裏にある言葉が浮かんだ。それに呼び起こされるように、鮮明な光景も。
暗雲が立ち込める空。赤く血に濡れた大地。その上を埋め尽くす屍。
その中に、ただ一人立ち尽くす血塗れの青年。
かれは、身にまとう暗黒をひるがえし、風よりもはやく、赤い大地をかけた。
かれは、邪なる刃をふるい、かなしみとにくしみと、死をもたらした。
かれは、黒い炎と化し、その漆黒のかいなをもって、かたちあるものすべてを焼き尽くした。
伝説と恐れられた、魔人族の戦士。
(魔戦士――魔戦士ルシナ――)
まさか。有り得ない。
今目の前にいるこの人が、かつて破壊の限りを尽くした戦士だなんて。
それでも、頭の中に浮かんだ景色が離れなかった。
「きっとあれは、記憶の断片なんだ。血に濡れた自分の手を見て、引き出されたのかもしれない」
「記憶が、戻ったの……?」
ルシナは首を振る。
「戻ったわけじゃない。ほんの少し垣間見ただけだ」
ルシナは今まで自分に関することは名前以外に、全く覚えていなかった。
ほんの少しだけでも、記憶が戻ったと喜ぶべきなのか。リリィの頭にはぐるぐると色々な思いが巡っている。
「自分でも処理しきれないくらい、いっぱいいっぱいになりそうだったから、少し一人になりたかったんだ。そして街に出たら、あの二人組に会った」
「…………」
「彼らが言ってたよ。俺のこの赤い眼は、魔人という種族の特徴らしい。図書館で、君は亜人について調べていただろう? 魔人のことも知ったんじゃないのか」
非常に高い戦闘能力を持ち、人や亜人をも食らう種族。
だが、魔人が赤い眼を持っているということは知らなかった。
あの図書館の資料に魔人に関する記述は極端に少なく、彼らの特徴までは書かれていなかったのだ。
「俺はいつか、君を殺してしまうかもしれないよ。俺が殺した多くの人たちのように。君を殺して、その亡骸を食べてしまうかもしれない」
リリィは自分の肩を掴むルシナの手を見た。
白くしなやかな美しい手。かつて多くの人の血肉で汚れたかもしれない手。
「……あたしは……」