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アナテマ  作者: はるた
第四章
121/124

48 光

 視界は光に包まれていた。

 淡くも、優しい光。段々と意識がはっきりとしていき、それが流れる髪だと気付く。


「おかえり」


 温かい声だった。よく聞き慣れた――。


「! 俺は……」

「間に合って良かった」


 ルシナは仰向けに、頭を彼女の膝に置くかたちで横たわっていた。起き上がろうとすると、優しい手が胸に置かれる。

 微笑みを浮かべる顔はリリィのものに違いなかった。夏空を思わせる澄み渡った青い眼も、光のような髪も。

 けれど、何かが違う。何か――言葉では言い表せない、感覚的なものだった。


 リリィ、と名を呼べずに戸惑うルシナの心を見透かしたかのように、彼女は眼を細める。


「彼女は先に戻っているよ」

「あんたは……」

「私の名はヴェルディカ」


 どくん、とルシナの心臓が一際強く脈打った。

 そこから広がる命の感触に感じ入るのも忘れて、目の前の少女を凝視する。


「私は思念体として形をなす時、対峙する者の心の中に強くある姿をとる。この姿は、君の心の中に最も強くあるもの。私はその姿を借りただけ」

「……あんたがいるってことは……俺は……」

「生きている」


 確かにあの時、死を迎え入れた感触がした。これが終わりなのだと、確信していた。


「あんたが、助けたのか……」

「君を助けたのは彼女。私は手助けをしているだけだよ」

「リリィが……」

「彼女は君の生を望んだ。そして君も、生きたいと願った。それが最後の綱となって、辛うじて君の魂を現世へ手繰り寄せることができたのだ。――心配しなくていい。もう君の体は君だけのものだ。生きるのを邪魔する余計なものは、全て消した」


 愛しい少女の姿をした聖霊王は、戸惑う表情のままのルシナの手を握った。


「……君は、大切な人たちの傍に――彼女の傍にいたいと、そう望んだだろう?」

「…………」


 躊躇う気持ちを捨て切れてはいなかった。

 ヴェルディカの言う通り、生を求めたのは事実だ。けれど、自分は現世に留まって良いのだろうか。遠い昔から数多の命を奪い、数えきれぬ不幸を生み出した。強く生きたいと願っていたはずの命を、無感情に奪って来た。

 そんな罪を背負う自分が、願いを叶えられて良いのか――。


「生きて贖え」


 少女の声で紡ぎだされたその言葉は、幾星霜もの重みを帯びる響きを持ち、ルシナの心に刺さった。

 青い瞳の奥に、虹色の光が揺らめいている。


「何の罪も背負わずに生きている命など、存在しない。それぞれがそれぞれの罪を抱きながら生きている。――思い出して。君が持つ最初の記憶から、今までのこと。君は様々な人に愛されて、そして生かされてきた。君が幾度となく捨てたいと願った命は……たくさんの人に望まれて、まだここにある」


 そっとルシナの頬を撫でた。


「……言って。もう一度、君自身の言葉で、君の願いを。それが最後の……私の願いだ」


 全てを包み込む声。心地良い温かさに抱かれて、不思議と頬に光の軌跡が流れる。


「――生きたい」


     * * *


「――ルシナ!!」


 そう呼ぶ声は、先程まで聞いていた柔らかなそれと同じだった。しかし響きは全く違う。


「…………」


 何度か瞬きをするとはっきりと焦点が合う。

 今にも涙が零れ落ちそうな青い眼。懐かしい――。


「――リリィ」


 そう呼んだ瞬間、頬にぽたりと雫が零れ落ちた。


「……おかえり……!」


 震えながらも、深い安堵が滲む声で彼女はそう言った。眼からはとめどなく涙が溢れているが、表情は笑っている。


 体を起こすと、自分を取り囲む景色がはっきりと見えた。

 泣き笑いの顔をしているレム。心の底から安心したような、滅多に見せない笑顔を浮かべているリュカ。そして――。


「帰って、来てくれたんだな……」


 琥珀色の瞳に涙を湛えながらも、レイハは笑って言った。


「……良かった……」


 そう言ってうつむく少年を、イレイデルがじっと見つめる。

 心の底から涙を流している聖霊。愛情という感覚の薄い聖霊の中で、これほど感情に打ち震える者が他にいるだろうか。ルシナと出会う以前のレイハは、他の仲間と変わらない淡白な心の持ち主だった。それがいつの間にかヒトの親のように、育てた“子”を想って涙を流している……

 長い生の中でも、初めて見る光景だった。


「――心、か」


 小さな呟きは、聖霊王だけが聞いていた。

 ヴェルディカは微笑を湛えて古くからの同胞を一瞥した後、体を起こしたルシナに視線を向ける。


「君の“力”は、完全に封印した。体も力が目覚める前の状態に戻っている。君自身が過去の記憶に呑まれなければ、悪夢にうなされるような事もなくなるだろう……」

「……本当に……助けてくれたんだな」

「それが私の使命だった。歪みを直し、秩序を保つために」


 頭の中にかかっていた霧が、一気に消え去ったかのようだった。光が厚い雲を割り、青い空が現れる。そんな清々しい気持ちだ。


 しかしまだ、ルシナの心には消えない痛みがあった。いや、他の者たちの心の中にも――。


 すぐ傍に、横たわったままのセスがいる。もう二度と目覚めない、命を失った体。

 手を伸ばしてその手に触れる。硬い冷たさを宿す肌――自分の中に確かにある命の温かさと、死の冷たさを感じた。


「ヴェルディカ……」


 セスの顔を見つめて、ルシナは呟く。


「頼みが、ある」


 ルシナの願いをヴェルディカは知っていた。彼だけではない、リリィ、レイハ、リュカ、レム――彼と絆を持った者たち皆、ルシナと同じ願いを心に抱いていた。


「セスを……目覚めさせてくれ」


 ルシナと同じくセスの顔を見つめていたリリィの眼から、涙が流れ落ちた。

 どれほど願っただろう。皆で笑い合う瞬間――永久に失われてしまったその夢を再び見ることができるのなら……


「セスの死は俺が原因だ。俺の存在が歪みだったというのなら、セスが死んだのも歪みの一つ……修正されるべき運命のはずだ」


 誰もが呼吸すら忘れて、聖霊王の答えを待つ。

 虹色の瞳もまた、少年の顔を見ていた。


「それはできない」


 柔らかな声は、はっきりとした断定の響きを持っていた。


「いかなる理由があったとしても、死を選んだのは彼自身。私にはその望みを妨害することはできない。ルシナ――君は限りなく死に近い状態ではあったが、完全なる死を迎えたわけではなかった。そして何より、生きることを望んでいた。しかし彼はそうではない」


 ヴェルディカは膝を付き、光の帯びる手でセスの頬にそっと触れた。


「完全に失われた命を再び取り戻すことは……できない」


 セスは自らの手で、自分自身の体に剣を突き立てた。

 ルシナへの“復讐”を果たし、そして自らも――。


 けれどルシナを殺すことはできなかった。憎み続けることはできなかった。

 セスが死を選んだ理由は、言葉で導き出される単純なものではない。何百年もの間過去に囚われていた彼は、ずっと死によって解放される事を願っていたのだろうか。今となっては、わからない。


「ネオスは……」


 ルシナが次に口にしたのは、ずっと敵対していたはずの聖霊の名だった。


「セスに……頼まれたんだ。助けてくれって。俺はそれすら、できなかったのか……?」

「ネオスは今、私の中にいる。しかしこのままでは、いずれ消えてしまうだろう」


 リリィは思い出していた。以前キナという竜人として行動を共にしていた頃ネオスが言った、ずっと心の中に留まったままだった言葉。


『私には……本当に私を理解するものはいない。使命を帯びた戦士として、正義に従う……それだけが私の生きる意味だから』


 彼は心の底で何を思っていたのだろうか。

 愛して欲しいと、そう願っていたのではないだろうか――。


「ヴェルディカ」


 どこか震える声でそう言ったのは、沈黙を保っていたシャナンだった。

 聖霊王の前に歩み寄り、跪く。


「エーゼの一族として、許されぬ行為であることはわかっております。ですがどうか――私の願いを聞き入れて頂きたいのです」


 こみ上がるものを必死で抑えているような声。震えるその背中は痛々しいほどだ。


「ネオスの魂に新たな器を――新たな生を、お与えください」


 虹色の瞳が頭を下げたままの同胞を見つめる。


「身勝手な願いであることは承知しています。エーゼの教えに背くということも……ですが、思い知ったのです。ネオスを恐れ制御することしか考えなかった自分が、どれだけ愚かだったか。どうしてレイハやルシナのような絆を結ぶことができなかったのか――もっと早く気付いていれば、このようなことも起きなかったかもしれない。そして何よりも……ネオスは愛されることを知りませんでした。己の存在意義が、エーゼに与えられた力しかないと……我々が、ネオスにそうさせていた……!」


 白亜の床に、シャナンの双眸から雫が落ちた。


「孤独しか知らぬまま……消滅を迎えさせたくは、ありません。私の命と引き換えだというのなら、喜んで犠牲になりましょう。どうか……あの幼い命を、助けてください」


 ゆらゆらと光に包まれるヴェルディカの瞳からは、感情というものを窺い知ることはできない。涙を流し懇願する同胞の姿に何を思うのか――。

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