46 降臨
何が起こったのか、すぐに理解した者はいなかった。
頭上には星空、足元には草地が広がっていたはずだった。なのに一瞬にしてその景色は一変している。
眩いばかりの白亜の空間。ルシナを抱きかかえるリリィ、それを取り巻く二人の亜人と三人の聖霊――そしてシーヴィスは手をかざしたままの姿で、そこにいる。ただ周囲の景色だけが、変わってしまっている。
この景色には、見覚えがあった。一番最初に来た場所――ヴェルディカがいるはずの、玉座の間。
ただあの時と違うのは、どこか死んだようだった白い壁、床、天井――そのどれもが内側から光を放つように輝き、生き生きとさえ感じられる。
リリィが自分の手を握るものに気付いたのは、状況が変わってどれほど経った後だろうか。
「ありがとう、リリィ」
優しく、響く声。
何度も聞いた。けれど、これほど近くに感じられたことはなかった。
「あなた……は」
彼はいつものように光に包まれている。けれどはっきりとした輪郭を持ち、それが幻像でないことを伝えていた。
「君のお陰で、私は自分の使命を全うできる」
そして彼は立ち上がった。
風が吹いているかのように彼の長い光の髪はなびいている。その先端からは、なびくたびに光の粒が散るかのようだ。
その顔立ちはどこまでも精巧な彫刻のごとく――だが、ルシナの顔とは違う。どこが、と言われても具体的には答え難いが、幻としてリリィの前に現れていた時とは何かが違った。
何より不思議なのはその瞳だ。赤ではない。緑でも、青でも。しかし、あらゆる色がその中に揺らめくような虹色。
まるでこの世に存在しているのが信じられないほど、神秘的なその姿。もし神が人間の前に現れるとしたら、このような姿をしているのだろう。
その場にいた誰もが言葉を失って彼を見つめた。
やがて、紺碧の瞳を驚愕と歓喜に震わせながら喘ぐようにイレイデルが口にする。唯一無二の、至高の名を。
「ヴェルディカ――」
聖霊王は黒狼へ視線を向け――かすかに、笑みのような表情を見せる。
「……今更、何をしようと言うのだ……」
引きつった笑みを浮かべながら、唸るようにシーヴィスは言った。
ヴェルディカのまとう光に押されるかのようにじりじりと後退する。
「この混乱は、あなたの招いた結果だ。それを今更どうすると?」
「私の使命は歪みを修正すること」
ヴェルディカはルシナを見る。
「魔人の身でありながら、聖霊の力を持つ――それは本来有り得ぬこと。しかし歪みは生まれるべくして生まれるものだ。エーゼの意志でもあり、それは我々が計りし得ぬ神の領域でなされる業。だがその歪みが、他者の運命をも巻き込む巨大な渦となった時――私にはそれを修正することが許される。そしてその修正を願う、第三者の存在によって」
虹色の瞳が、ルシナを取り囲む者たちを見つめる。
「“隔絶の地”だけではない。“生命の原野”、“果ての世”……三つの世界、そしてそこに生きる者を強く巻き込んだ。そして彼の死はより深い、更なる歪みをもたらす」
「……まさか」
シーヴィスは低く言った。
「死者を呼び戻す――とでも?」
「彼は死んでいない。今は、まだ」
リリィははっとしてヴェルディカを見上げた。
この冷たい体、青白い肌。これでもまだ、生きているというのか。
「ネオスの魂を取り込んで、そのまま深い眠りについている。彼の体は限界まで傷付いて、ネオスの魂まで内側に抱く余裕がなかった。元から負っていた精神と肉体の損傷、そして新たにネオスの力を宿した剣でつけられた傷……魔人の再生力も、聖霊の癒しの力も追いつかぬほど深い。それによって肉体と魂が剥離しかけている」
ルシナの死を否定するヴェルディカの言葉に安堵にしたのも束の間だった。彼は決して無事なわけではない。限りなく死に近い状態なのだ。
「私なら、呼び戻すことができる」
「許されぬ! そのような――」
叫んだシーヴィスに先程までの余裕は微塵もなく、握り締めた拳を震わせてヴェルディカを睨む。
「族長といえど、独断でそのような決定が許されるはずはない! その男には相応しい罰だ。ネオスまでも道連れにしたのだからな!」
「シーヴィス、やめろ!」
イレイデルが鋭く返すが、聖霊王はどこまでも静かだった。
「シーヴィス」
厳かに、名を呼ぶ。そして告げた。
「我が名を答えよ」
それは確かに、絶対者の声だった。
圧倒的な存在感、本能が逆らえぬ存在であると叫んでいる。
精悍な顔は激しい動揺に揺れた。どれほどの逡巡があっただろうか――やがてシーヴィスは歯を食いしばりながらもどこか諦めたかのような表情で、膝を付く。
「……ヴェルディカ……我らが長にして、聖地の守護者」
「我が務めは秩序を保つこと。その目的のためならば、我が力を行使することが許される」
ヴェルディカは天井を仰いで耳を澄ませる。
「この混乱で宮殿中の聖霊がざわめきたっている。シーヴィス、君には彼らをおさめに行って欲しい。間もなく全て終わると、そう伝えよ」
シーヴィスは頭を垂れると、その場から姿を消した。
再びヴェルディカはリリィの正面に膝を付き、微笑みかける。
「君は私に願ったね。この運命を変えて欲しいと――未来を与えて欲しい、と」
リリィはゆっくりと頷く。
「もう一度願ってくれ。私の体に触れて、強く。君の想いが私の力になる」
「ルシナが、戻って来るの……?」
「君が望めば、あるいは」
差し出された光の手。リリィは自らの手を重ね合わせた。
「私の願い……」
握る手の温かさに、涙が零れそうになる。
「ヴェルディカ……私の願いを叶えてくれるなら。ルシナを元の体に……彼の苦しみと痛みを、取り去ってください。そしてもう一度、彼に会いたい……」
リリィがそう言った時、重ねた手の中から淡い光が漏れだした。
「……君の想いは、確かに受け取った」
ヴェルディカは大切そうに手の中の光を持ち上げ、口元へ両手を近付けた。
こくり、とヴェルディカの喉が動く。そして床に手を付き、ルシナの額へ口付けた。
「――……」
ヴェルディカの唇が触れた場所から、波紋のように淡い光がルシナの体中へ広がる。
「!」
ルシナに触れる腕に、段々と温かさが伝わってくるのがわかる。
誰もがその奇跡の顛末を見守っていた。
「ルシナ……起きて」
どれほどの時間、張りつめた空気が支配していただろうか。
白い肌の下に血の巡りが感じられる。心臓の鼓動、かすかな呼吸の音が静寂の中で聴こえる。彼の体は覚醒へ向けて動き始めている。
そのはずだった。
「ルシナ――!」
呼んでも彼は応えない。瞼はぴくりとも動かず、ずっと閉じたままだ。
「心が閉じている」
そう言ったヴェルディカに、レムが詰め寄った。
「ど、どういうことだよっ!? もう治ったんじゃないのか!?」
「体は、いつでも覚醒できる状態にある。ただ心だけが浮上してこない。自分は死んだと思い込んでいるのか、戻りたくない理由があるのか、あるいは意識の深淵に囚われているのか……」
思い当たることはある。けれど、リリィはその考えをすぐさま否定した。
あれだけ生きたいと願っていた。必ず戻ると、約束した。
「……ヴェルディカ。どうすれば助けられるの」
「直接彼の意識へ潜り込んで、共に浮上するしかない。その場合、彼と親しい存在であるほど連れ戻せる確率は高くなる」
即座にリリィが答える。
「ヴェルディカ、お願い。あたしの意識をルシナの中へ送って」
「待て、リリィ」
そう言ったのはレイハだ。
「君がルシナの意識の底へ囚われて戻って来れなくなる可能性もある。私が行く」
そしてヴェルディカへ切実な視線を向けた。
「人間よりも聖霊の方が思念体で動くことには、遥かに長けているはず。それにリリィはセルドナの民です。家族も、友人も……ここで未来を閉ざされるようなことがあれば――」
「レイハ。それはあなただって同じだよ。あなたにもしものことがあったらルシナだって、あたしたちだって……悲しい」
「しかし」
「大丈夫。絶対に戻って来る。ルシナを連れて」
強く頷くリリィの表情はたくましく、頼もしい。
何の根拠もない。しかしこれほどまでに、彼女の言葉が心を打つのはなぜだろう。
「リリィ。レイハの言った通り、これは危険な行為だ。可能性は五分と言っていい」
ヴェルディカの虹色の瞳の奥が揺らめく。少女の決意を試すかのように。
リリィは笑顔を見せた。
「前にあたしに聞いたわよね。命と引き換えだとしてもルシナを助ける覚悟はあるか、って。あたしの気持ちは変わらない。あなたに導かれて、ここまで来れたんだもの。今更迷うことなんてない」
「――わかった」
ヴェルディカも微笑み返す。
「リリィっ……!」
レムは不安げにリリィを見た。
「絶対に、絶対に戻ってこいよ!」
「うん。もちろんよ」
「リリエル」
低い声でリュカが呼ぶ。
「今更言うことはないが……必ず、戻って来てくれ。俺たちのためにも」
「ありがとう、リュカ。大丈夫、あたしは絶対に約束を破ったりしないから」
大切な友人たちと言葉を交わした後、差し出されたヴェルディカの手を握る。
「ルシナの意識の中へ潜ったら、彼を連れてなるべく早く浮上するんだ。意識が目覚めかける段階まで来たら、私が引き上げる。時間がかかればかかるほど、帰って来られなくなる可能性が高くなるということを忘れないで」
「わかったわ」
「覚悟はいいね」
その問いに、リリィは微笑を返してみせる。
ふわりとヴェルディカも笑うと、優しく声をかける。
「眼を閉じて。沈んでいく感覚に逆らわずに、そのまま落ちて……」
そう言うヴェルディカの言葉が段々と遠く、小さくなっていく。
(ルシナ……今行くわ。待ってて……)
鼓動が逸る。
確かな決意と覚悟だけを抱き、リリィの意識は遠のいた。