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アナテマ  作者: はるた
第四章
118/124

45 君が望む未来

 暗闇。何もない空間。


 何度駆け抜けたかわからない。いや、まだ抜けてなどいない。先の見えぬ暗闇は、エーゼスガルダへ旅立つと決めたあの時からずっと続いている。

 もうすぐ抜けることができるのか。それはわからない。光が見えたかと思うとそれは姿を消し、また同じ闇が広がっているだけ。


 けれど今は、一人ではない。

 リリィの後ろに続く仲間たち。そして、握り締める剣に宿るもの。


(ルシナ――無事でいて。どうか、間に合って……!)


 願うことはただそれだけだ。


(あなたがいなくなったら……もう、あたしは……)


 ただ走る。言葉もなく。

 行先ははっきりしていた。暗黒の空間の中でただ一つ確かな光を帯びるこの剣、それはリリィの手を引く導きでもあった。


 そしてまたも唐突に闇は霧散し、残酷なほど美しい星空が頭上に広がったのだった。


     * * *


「ルシナ!!」


 静けさの中に、リリィの叫びが響き渡る。


 半球形の空間の中心――草地の上に何かが横たわっていた。


「ルシナ……いるのか!?」


 レムたちは星空と草地で形作られたこの空間に息を呑んでいたが、リリィが真っ直ぐに駆け出したのを見てはっとする。


 レムは――望んだわけではなくても獣人族として生まれ持った嗅覚によって、不吉な気配をはっきりと感じていた。

 美しい空間に似合わぬ血の匂い。その濃厚さはむせかえるほどだった。何度も嗅いだことのある、良く知る二人の――。


 部屋の中心へ辿り着いたリリィは、無我夢中で横たわったままのルシナにしがみついた。


「ルシナ! 起きて、ルシナ!!」


 ルシナはうつ伏せに倒れていた。その隣にはセスもいる。仰向けで眼を閉じている彼の手の上に、ルシナの手が重ねられていた。

 ルシナの下の草は毒々しい深紅に染まっている。揺すり起こしても彼は反応しない。


 駆け寄ったリュカはルシナのものと思しき血の量に息を呑みつつも、彼の体を仰向けにさせた。


「ルシナ……」


 リリィの心臓が恐ろしい速さで脈打つ。不安? 恐れ? 後悔? そのどれでもある。だが言葉では表現できない――今まで感じたことのない何かが、リリィを襲っていた。


 薄暗い空間、頭上の星明りがルシナの顔を照らし出す。

 閉じられた瞼。血に濡れた口元。青白い肌。


 リリィの手は震えながら、生気のない頬に触れる。


「…………」


 その時だった。

 長い睫が震え、ゆっくりと――眼が開いたのだ。


「ルシナ!!」

「……リリィ……」


 薄く開かれた赤い眼が、ゆっくりと動き辺りを見回す。


「皆、いるのか……」


 安堵の涙を零すリリィは強く、何度も頷いた。


「いるよ、皆いる……!」

「……そうか……」

「ルシナっ!」


 そう言ってルシナの手を握ったのはレムだ。すぐ横にリュカも跪いている。


「レム、リュカ……無事、だったんだな」

「ああ。リリエルが助けてくれた」

「オレたちなら何ともないよ、ルシナ。お前も……もうちょっとしたら元気になるだろ!?」


 ルシナはかすかに笑い――しかしすがるようなレムの言葉に、答えはしなかった。


「レイハ、も……」


 ルシナから一歩距離を置いた所に、レイハは立っていた。

 言葉を失い、どのような表情を浮かべればいいいのかわからないような――どこか呆然とした顔で、ただ彫像のように涙を流しながら。


 ルシナは苦笑した。


「なんで、泣いてるんだよ」


 レイハは答えない。答えられなかった。


「ネオスは……ここにいるよ」


 そう言ってルシナは片腕を上げ、自らの胸に触れた。

 シャナンは思わず眼を見開く。


「それは……!」

「ネオスは、死んでない。俺の中に、魂を取り込んだんだ……まだ確かに存在してる。けど、俺が死んだら……ネオスの魂も、消えてしまう。すまない……シャナン。でもこれしか……助ける方法を、思いつかなかったんだ」


 苦しげに言い終わると、ルシナは咳込んだ。口元から新たに血が溢れ出す。


「ルシナ! もうしゃべらないで。お願い……」

「ごめん……リリィ。もう……」

「話さないで! 大丈夫、大丈夫だから……」


 リリィは涙を流しながらも、笑顔を見せた。ルシナと、そして自分自身を安心させようとするかのように。


「セス……」


 わずかに視線を動かすことさえ、できなくなっていた。

 隣で眠る少年の顔を見ることはできない。その冷たい寝顔を、見ることはできないのだ。


「助けられなかった……」

「……お前のせいじゃない」


 低く、震える声でレイハが言った。


「あの子は、本当は……お前を憎んでなんかいなかった」


 果てしなく遠い昔から、幼いセスがルシナの記憶へ顔を出す。

 無邪気に笑う少年。姉と良く似た顔で……


 ルシナを刺した黒い刃が宿したのは、憎しみだったのか、それとも――。

 だが、あの笑顔を歪ませたのもの。それは確かに自分だったのだ。


「……俺は……償いたい。けれど、その時間は……もう……」


 ルシナの瞳は、ぼやけた景色を映していた。

 目の前にいる――泣きながら笑う少女を。


「泣かないで……」


 まだ、ここにいたい。大切な人たちのいる、この場所に。


 けれど、願いは言葉に出なかった。

 かすれた意識と共に沈んでいく。


 ――温かい。

 ずっと昔から、死ぬ時は一人なのだろうと思っていた。生きていても死んでいても、どうせ自分は一人なのだろう、と。

 幾度も触れかけた、死という運命。生きようが死のうがどうでも良い。――そのはずだった。


 今、確かに感じている。


 ――死にたくないと。


 どれだけ疲れても、どれだけ辛くても、ただ生きたい。


 だが、その願いがもう叶わないことは、自分自身が一番よく知っていた。

 後悔はない。大切な仲間ができ、共に日々を過ごし、そして最期は彼らに見送られる。

 かつての自分が望んだ全てを、今手にしているのだから。


 あるとすれば――ただ一つ。


 声は、音として愛しい人に届いていたのか。それとも、ルシナの心の中で響いただけだったか。

 それはわからない。けれど、心からの想いだった。


「……君の傍に……いられ、ない……それだけ……が……」


 ただそれだけが――こんなにも、悲しい。


 閉じた瞳からまた一つ、光の雫が流れ落ちた。


     * * *


「……嘘よ。こんなの……」


 ルシナの体を抱き締めるリリィの横で、皆一様に言葉を失っていた。


 何かを言いかけたまま、眼を閉じたルシナ。穏やかな表情だった。口元にはかすかな笑みさえ……


 レムの灰色の眼から、ぽろりと涙が零れ落ちた。


「セ、ス……ルシナ……こんな、こんなこと……」


 がくりと膝を付いた。


「何でっ――!! まだ何も言ってないのに、どうしてだよ! セス……お前に文句も何も言ってねえぞ……ルシナだって、まだ……」


 言葉は途中で途切れ、涙をこらえる嗚咽に変わる。

 そんな相棒の華奢な肩を抱くリュカも、唇を噛み――金色の瞳には、光るものがあった。


 イレイデルは音もなく歩み寄り、ルシナの胸にある傷へ鼻先を寄せる。

 鼓動も体温も感じられない。


 その時、レイハが唐突に跪いて、だらりと垂れたルシナの片手を握り締めた。


「レイハ――!?」


 琥珀色の瞳の内側から、涙と共に光が揺れた。さわり、と地面の草がざわめき立つ。

 辺りの空気が陽炎のようにゆらめく。視認できるほどに強くルシナとレイハの周りを渦巻く、力。

 それは悲しみの気配に満ちていた。


「レイハ、やめろ」


 静かに、けれど強く制止したのはイレイデルだ。


「傷を治しても……もう戻らん」

「違う……っ、まだ時間は経ってない。まだ、間に合う……セスだって、何とか助けられるかもしれない! イレイデル、シャナン、力を貸してくれ。私一人では無理だ。でも、力を合わせたら――!!」


 イレイデルは首を振った。

 レイハは強く歯ぎしりをする。


「シャナン! このままではネオスも完全に死んでしまう! ネオスを助けると、そう言っただろう!? 今度こそ、やり直すと!」

「けれど――レイハ……!」


 シャナンの瞳は激しく揺れる。


 死者を呼び戻す。

 それは、最大の禁忌の一つだった。


 完全に消えた魂を現世へ蘇らせることは、聖霊の力でも不可能だ。しかし条件次第では、それに似たようなことも可能である。

 たとえば、死者とそっくりな(からだ)を創り出す。ただ、魂のない人形として――。

 その行為は命への冒涜、そして創造神エーゼへの反逆であるとして固く禁じられているのだ。

 また実行した者はいないが、魂が離れて間もない状態であれば、術者である聖霊の力次第で呼び戻すこともできる――そのような“噂”もどこからか流れていた。


 それが本当であるならば。三人の聖霊が力を合わせれば、あるいは――。


「シャナン」


 思考を読んだかのように、黒狼は言った。


「ですが……イレイデル……」


 ふらり、とシャナンは歩みを進める。


 ルシナは、ネオスの魂を取り込んだと言った。死んだわけではないと。


 限りなく、レイハへ気持ちが傾いていく。

 全てを見透かすようなイレイデルの眼が後ろ髪を引いても、望まずにはいられない。


「掟破りは、そちらの方だったな」


 地の底から響くような声が聞こえたのは、その時だった。


     * * *


 草の上へ、ゆっくりとゆらめく光が持ち上がる。


「先程は見事にしてやられたが……どうやら努力は無駄に終わったようだな」


 先程と変わらぬ姿で佇むシーヴィス。

 イレイデルは低く唸る。


「わざわざ()()()を排除するため自ら赴くとは、ご苦労なことだ」

「兄も、骨の折れる思いであろう。よもや兄が最大の禁忌に触れようとするとは」


 シーヴィスはリリィの腕に抱かれたままのルシナへ、視線を向ける。


「最後にとんでもない罪を犯してくれたようだ。ディラスの化身よ――やはりあの時……最初に始末しておくべきだった。ネオスが敗れるとは、思いもよらなかったが」


 淡々と言うシーヴィスの声に、悲しみなどと言った感情は一切表れていない。


「だがこれで、ようやく終わらせることができる。既にこの空間は、他の聖霊たちによって外から結界が張られている。いかなる方法でも突破することはできぬぞ」


 そう言って、悠然と歩き出す。


「ここにいる全員には、何等かの処罰を与える。下界人といえど、掟の範囲外ではないぞ――ここまで事を大きくしたのだからな」


 金色の眼が聖霊を睨む。リュカは立ち上がって拳を握り締めた。


「全てルシナと我々に罪をなすりつけて、収める気か。ネオスを利用し、彼を助けようとした同胞までも――」


 怒りの籠る声を聴いても、シーヴィスは鼻で笑うだけだ。


「ルシナの運命に巻き込まれたことは同情するがね――抵抗はしないことを薦める。必要以上に、傷付けたくはない」


 一歩ずつ、シーヴィスが近付いて来る。


 青白いルシナの顔を見ながら、リリィはまだ動けずにいた。迫る聖霊の声も、聞こえてすらいなかった。


 この瞳はもう開かない。涙を流すこともない。優しく笑いかけることもない――。

 愛を紡いだ声さえ、二度と聞くことはないのだ。


(これが……これが、運命なの? 最初から決まっていたっていうの……?)


 だとしたら、何の為にルシナは生きたのか。何の為に、足掻いたのか。

 彼は生きたいと願っていた。リリィと共に生きると、誓ったのだ。


 何もわからない。


『迷わずに進むことなんて簡単だよ。ただ自分の思う通りにすればいいんだから』


 ふと、そんな言葉が頭の中に現れた。

 そう、あれは――セスが言った言葉。あなたのように迷わず進めたら。セスの心の奥底を知らなかったあの時、リリィはそう言った。

 その時にセスが答えたのだった。


 そんな風に簡単に割り切れることなど、できはしなかった。恐らくセス自身も。


(私の思う通りに……迷わずに……)


 まだ願うこと。それは――。


(諦めたく、ない……!)


 腰にある剣が、どくんと脈打った気がした。


「終わってない……まだ……」


 低く呟くようなリリィの声。シーヴィスは歩みを止める。


『――全てが終わった後、君が運命の歪みの修正を願うなら。望んで――』

『時が来たら、必ず――君が望むならば……』


 そして蘇る、あの聖霊の言葉。


「今が……『その時』だわ」


 リリィは顔を上げた。


「この結果が、『歪み』なら――あたしは望む」


 どうか、未来を――。


「戯言を――」


 シーヴィスが手をかざす。彼の瞳が光るのと、リリィたちを捕えるべく細い光の筋が放たれたのはほぼ同時だった。


 誰もが反応するよりも速く――一瞬にして閃光が薄暗い空間を埋め尽くし、シーヴィスの光の縄は蒸発するかのように消え去る。

 その場にいた誰もが――シーヴィスでさえも――咄嗟のことに、驚愕を隠せなかった。


 ただ一人、リリィだけには見えたような気がした。


 辺りを覆う光の中――リリィに微笑みかける、ルシナの姿をした聖霊を。

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