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アナテマ  作者: はるた
第四章
117/124

44 涙

「良かったのか」


 一定の距離を置いてルシナとネオスは向き合っている。

 星空の下は、静かだった。


「最後の別れというのは、あんなもので終わりなのか? もっと劇的な別れをしたがると思っていたが……」

「最後じゃない。必ず戻ると約束した」

「私を殺して、か?」


 徐々にネオスの表情には、いつもの余裕が戻りつつあった。


「どうやらセスは、本気でお前を憎めなかったようだな。それだけの傷で、未だに力尽きていないということは……あいつは、己の憎しみが果たして真実かどうか確かめたかったのか。……奴のことは割と知ったつもりだったが、最後に死を選ぶとは……やはりヒトというものは理解できぬ」


 そして横たわるセスの体を一瞥する。昏い瞳に、少年の亡骸はどのように映っているのか。それを窺い知ることはできない。


「お前こそ良かったのか」


 と、ルシナは問い返す。


「お前にとって“聖地を穢した人間”は排除すべき存在のはずだ。それなのに俺の要求を呑んでリリィを逃がした。以前のお前なら、聞き入れてなどいなかっただろう」

「逃がしてなどいない。心配せずとも、お前の後にまとめて消す」

「どうして俺とリリィを、あの場で殺さなかったんだ。こんなに回りくどい真似をしなくても、お前になら簡単なはず」


 しばらくネオスは沈黙した後、唇に嘲笑を浮かべて低く声を吐き出す。


「……それほど殺されたいのなら、すぐに叶えてやる」


 黒刃の切っ先をルシナに向けた後、振り下ろして虚空を裂く。

 次の瞬間に漆黒の短剣は、波打つ刀身を持つ長剣へと変化していた。


「セスにお前を殺させる策は失敗に終わったが……この剣で止めを刺し、魂を取り出してやろう」

「…………」


 ルシナは動こうとしない。ただその場に立っているだけだ。


 銀髪が揺らめき、紫の瞳が輝く。

 その姿が消えた次の瞬間には、ネオスの影は遥か高くに飛来している。真下に向けられた剣の切っ先は寸分違わずルシナを捉え、凄まじい速さでネオスの体と共に落下した。


 ルシナは草を蹴って後退し、ぎりぎりのところでそれをかわす。

 黒刃は地面に突き刺さり草を散らしたが、一瞬と間を空けずにネオスは剣を引き抜き、素早く突きを繰り出す。

 今度もルシナは確実にそれをかわした――はずだった。


 ネオスが不敵に笑うと、刃の切っ先がぐにゃりと曲がったのだ。

 ルシナがそれに気付いた時には、曲がった刃は蛇のようにうねってルシナの首に巻き付いた。


「……っ!!」

「やはり視力も感応速度も格段に落ちているらしい。こうもあっさり終わるとは」


 しかしネオスはすぐに勝利の笑みを消し、低い声で尋ねた。


「――なぜ私を庇った?」


 ルシナは苦しげに、しかし力を振り絞って声を出す。


「……約束……したからだ」

「約束?」

「セスが……お前を、助けろと、言った」


 それを聞いた端正な顔が歪む。今まで見せたことのない、怒りを剥き出しにした表情だった。


「助ける、だと……!?」


 ネオスの怒りに呼応するかのように、ルシナの首を絞めつけている剣が動く。

 一瞬でルシナの首から離れると、一人でに動いたそれはルシナが反応する間もなくその右肩を貫いた。


「――!!」

「助けられる必要などない。この私が、ヒトなどに――!!」


 ぐん、と剣が持ち上がり、ルシナのつま先が宙に浮いた。

 刃から広がる苦痛に顔を歪めながらも、ルシナはネオスを見つめて声を絞り出す。


「お前は、苦しんでる。自分自身を苦しめてる……」

「黙れ!!」


 ネオスが剣を横なぎに振ると、まるで玩具のようにルシナの体は宙に舞い、壁に叩きつけられた。

 呼吸ができない。体勢を立て直すことなどできるはずもなく、ただ傷口を抑えることしかできなかった。


 肩からも新たに溢れ出る血。胸からの出血も止まらない。意識は朦朧とし、ついにはまともな痛みさえ感じられなくなっていた。


 今までにないほどの激しい感情をたぎらせている、ネオスの瞳。ルシナの視界で、ただそれだけが鮮やか過ぎるほどにその存在を主張している。


「哀れむつもりか……この私を、貴様が!」


 ネオスの剣が、ルシナの頬を裂いて壁に突き付けられる。


「哀れんでるわけじゃない……俺も、お前と同じ……孤独を持て余す、小さな存在だ」

「貴様と一緒にするな! 私は違う――私はエーゼの力を最も色濃く受け継いだ、ただ一つの存在だ! この力、エーゼの申し子たるこの力が、私の全てを証明している。ディラスの化身を倒すことによって、私の存在はより確固たるものになる。ヴェルディカさえ凌駕する、正統なエーゼの継承者として――」

「ただの、口実だ――そんなもの……」


 ネオスの熱っぽい言葉を、ルシナは弱々しくもきっぱりとさえぎった。


「お前は、自分の存在価値は……その力でしかないと思ってる。生まれた時から恐れられ、敬遠され……お前を心から大切に想い、抱きしめる者はいなかった。本当は誰かに愛されたい。そうだろ……?」


 強く唇を噛んだ後、ネオスは引きつった笑みを浮かべる。怒りによるものか、ルシナの言葉が心の奥底を突いていたからなのか――。


「いらぬ――生まれてこの方、そんなくだらない感情を欲したことなどない。私が欲しいのは、お前の魂だけだ!」

「こんなものが欲しいのなら、くれてやりたいが……生憎、そうはいかない。帰ると約束したからな」


 顔のすぐ横にある黒刃を、握り締めた。


「!!」


 顔を上げたルシナの双眸が強い光を帯びる。


 ルシナの手から、黒い刀身へ。“力”によって操作されたルシナ自身の血が、ネオスを捕える。


「くっ――」


 咄嗟に手を離そうとしたネオスだったが、既に手遅れだった。右手が柄を握ったまま、凍ってしまったかのように動かない。そこから細い触手と化した赤い血が、ネオスの白い腕を侵食していく。


「貴様――何を!!」

「お前がやろうとしていことだ、ネオス」


 ネオスは全てを悟った。生まれて初めて、恐怖と焦燥による汗が彼の体から噴き出す。


 魂を取り込もうとしている。

 ネオスがルシナに対して、そうしようとしていたように。剣を介して力を宿した血をネオスの体内へ送り、魂ごと己の(なか)へ引き込もうとしているのだ。


 まずい――ネオスは徐々に体内へ入って来るルシナの血を、逆に引き寄せようとしたが、無理だった。ネオスの力より、ルシナが引く(・・)力の方が遥かに強かったのだ。

 絶対的な自信があった。元々の力は互角。けれど、死にかけてぼろぼろのルシナより、自分の力の方が勝っていると。

 それなのに、これはどうしたことだ。エーゼの愛子と称されたこの自分が対抗することもできず、今まさにディラスの体へ取り込まれようとしているではないか。


「くそっ――離せ!!」


 本来のネオスなら一笑に付すような陳腐な台詞だったが、叫ばずにはいられなかった。

 死。

 死が目前に迫っている。


「私を、取り込むつもりか。だが貴様も無事では済まんぞ!! それだけの力を出し切って、胸の傷が大人しくしているはずがない。もし魂の吸収に成功したとしても、私が貴様の体を喰い尽くしてやる! たとえ力を失い私という存在が認識できなくなったとしても――必ず! 暗黒の彼方へ道連れに――」


 憎悪のこもるネオスの声は、遮られた。いや、ネオス自身がその続きを声に出すことを、思わず止めたのだ。


 剣を握るルシナの右手が、強く引かれた。それにつられてネオスの体もルシナの方へ引き寄せられる。そして、左手はネオスの背後へ回され――。


「……すまない……」


 ネオスは初めて感じていた。

 苦しげに絞り出される声の響きを。とめどなく溢れる血の匂いを。頬に触れる生身の温もりを。


 ルシナの左手は震えながら、しかし確かにネオスの体を抱きしめている。


「自分のことでいっぱいいっぱいで、本当のお前を見ようとしてなかった。セスに気付かされるまで、お前を心の無い聖霊としか思えていなかった。でも……本当は、こんなに温かかったんだな。魂に直に触れて、はっきりわかった。悲しむ心も、苦悩する心も、慈しむ心も……お前の中にはちゃんとある。人間と変わらない心が」


 二つの体――いや、魂が触れ合う場所の境が、段々と虚ろになっていく。

 ネオスはルシナの胸に顔を埋めたままだった。徐々に力を失いつつあるその体を、ルシナは残された力の全てで以て支えている。


 見開かれていたネオスの瞳が、次第に細まった。

 抵抗の色はない。諦めともつかない、あらゆるしがらみから解放されたような――全て受け入れたような眼。


「……これが消滅か」


 さらさらと、ネオスの手に握られていた黒い剣が砂と化す。切っ先から形を失い、やがてそれは煌めく黒い砂となって草の上に降りかかった。

 少しずつ、魂の輪郭があやふやになっていくのがわかる。自分を抱きしめる青年の、底知れぬ魂の奥底へ引き込まれていく。


「お前は消えないよ」


 強く、ルシナは言った。

 ネオスは何も言わない。けれど、ルシナにはわかった。ネオスの魂と共に、想いが、感情が、流れ込んでくる。最後の彼の強い望みが、ルシナの体を動かした。


 よろめきながらも、ルシナはネオスの体を抱き上げる。もうネオスの体にから、核となる魂はほとんど分離してしまっている。心臓を失った体は、もうただの器になりつつあった。


 一歩一歩を踏みしめながら、ルシナは横たわるセスの傍らで止まった。そしてネオスの体を、セスのすぐ傍に横たえる。そして冷たいセスの手と、淡い光を帯びるネオスの手を重ねた。


 ネオスは首を動かし、固く瞼を閉じたままのセスを見る。

 闇色の瞳には(もや)がかかっていた。闇の底から透明な光が溢れ出す。


「……冷たい」


 乾いた唇がかすかに動いた。


「本当に、もう……その眼が開くことは、ないのだな……」


 双眸から溢れた光は、確かに涙だった。


「……泣いているのか、私は……? 悲しんでいるのか、お前の死を……」


 過ごした時間はあまりに短かった。

 荒野を彷徨うセスを見出したのは、なぜだったのだろう。果てしなく広い大地の上で彼を見付けたその理由は……


「……居場所を求めたのか。私と似ている、お前の中に」


 決して動かない手を、握る。


「もし、もう一度……この命が、生まれ変わるなら……」


 ネオスを包む淡い光が、徐々に消えて行く。体の輪郭を保っていたものが、ぼやけて消えて行く。


「その時は……」


 声は光と共に溶けて行った。魂と共に、ルシナの中へ。


 残された静寂が、ルシナを包む。


「……確かに、聞こえたよ」


 星空を仰いでルシナは呟いた。


 音となることはなかった、ネオスの最期の言葉。

 短くも永い生の中で、彼が強く望んでいた願い。他の誰も、想像しなかった儚い願い。彼自身、ずっと隠して認めようとしなかった願い。

 しかしそれは魂を与えられた者なら誰もが望むことだった。


 ――ただ愛されたい、と。


 心の中で反芻した後、ルシナはゆっくりと倒れ込んだ。


 ――ああ、だめだ。ここで終わることはできない。


 けれどうつ伏せに倒れた体は、全く動かなかった。


「……リリィ……」


 閉じかけた眼は、鮮明な景色を映し出すことさえできない。沈む意識の中で浮かび上がったのは、幻のような景色だった。


 笑っている。彼女が……笑いかけている。


「……ありがとう」

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