42 暗闇のその先
間違いなく剣を突き出し、そしてその切っ先は不敵な聖霊の体を貫いた。
そのはずだった。
「……!!」
リリィの手に伝わったのは、肉を貫く生々しい感触ではない。
空気を刺す、あまりにも軽い感触。
「だめだ……リリィ……」
呻くような声が、足元から聞こえた。
「ルシナ――!」
リリィの剣がネオスに触れるその瞬間。
手負いの魔人の身体能力は、躊躇いを捨てきれなかった殺意がもたらした一瞬のうちに二人の間へ肉薄し、少女の剣から聖霊を救ったのだった。
思わぬ相手に突き飛ばされたネオスは、草の上に倒されて両肘をついた。自らを庇ったルシナの背中を、驚愕と動揺に見開かれた眼で凝視している。
荒い呼吸を整えながら、ルシナは言った。
「こんなこと、君はしちゃいけない。セスだって、望んでない……!」
「どいて……」
震える剣の切っ先が、ルシナの喉元につきつけられる。
「そこをどいて! どうして庇うの!? ずっと……ずっとあなたを苦しめてきたのに!! 許せるの……!? そいつのせいで、セスは死んだのよ!!」
「違う!!」
ルシナは右手で刃を掴んだ。
はっとしてリリィは剣を引こうとしたが、できなかった。ルシナを傷付ける、辛うじて残った理性がそれを知らせただけではない。刃を握る力が、あまりに強かったのだ。
「セスが、死んだのは……ネオスのせいじゃない……きっかけは、確かにネオスかもしれない。でも、それでも……決断したのはセス自身で、その原因を作ったのは……」
「…………」
「……俺なんだ……」
刃を握り締めた掌から血が滴り落ちる。
「だから、殺すなら……俺を殺してくれ……」
そう言ってうつむくルシナを見つめる少女の双眸から、再び大粒の涙が零れ落ちた。
リリィの手から力が抜けたのを感じ、ルシナも手を離す。
少女にはあまりに重い剣が、音もなく落ちた。美しい刃の先には血が付いている。
「どうして……どうしてよ」
リリィの膝から力が抜け、草の上にうずくまる。
「あたしにはできない……どうすればいいのかもわからない。今更、今までのことを全部忘れて……助ける、なんて……そんなの無理だよ……」
震える体を、ルシナは抱きしめた。
かける言葉もなく、ただ温かい体に触れる――リリィの涙が胸の傷を濡らすのがわかった。
首筋にひんやりとした感触が当たる。
「……恩でも売ったつもりか」
地の底から響くような、冷たい声。それにいつもの余裕や面白がるような響きはない。
背を向けているルシナに、黒い刃を突き付けているネオスの表情を窺い知ることはできない。しかし彼の顔は、表面的には冷淡なもののはっきりとした動揺が表れていた。
ネオスの剣が持つのは冷たい感触だけではない。まだ乾き切っていない血の、ぬめるような温かさもある。
「その傷は塞がらぬ。魔人の再生能力を以てしても、私の力で鍛えた特殊な剣によってもたらされた傷だ。毒のようにお前の体を侵し、そう長くないうちに死を与えるだろう」
それを聞いたリリィがはっと顔を上げる。
ネオスは口角を上げるが、それはいつも彼が見せる微笑ではなく、引きつってさえいた。
「……ネオス。リリィを、レイハたちのところへ帰させてくれ」
「! ルシナ!」
リリィは強くルシナの腕にしがみついた。ルシナは優しく微笑みかける。
「君はレイハたちと一緒に待っててくれ」
「いや! だったらあなたも一緒に来て。離れたくない……!」
「大丈夫。俺もすぐに戻るよ」
頑として首を振るリリィの耳元にささやいた。
「多分、シャナンが造ったここへの“扉”はもう閉じられてる。レイハたちも他の聖霊に捕まっているかもしれない」
落ちている剣を拾ってリリィに持たせる。
「レイハ、リュカ、レム……皆を守ってくれ」
「…………」
「これは傷付けるためのものじゃない。守るために、レイハが君にあげたものだ」
剣を受け取ったリリィは、ルシナの顔を見上げた。
優しく笑う赤い瞳がそこにある。
「ルシナ、あたし……」
かすれた声で言いかけたリリィの唇に、ルシナは自らのそれを重ねた。
触れ合っていたのはあまりにも短い時間。唇が離れる瞬間、ルシナは小さく呟いた。
「愛してるよ」
リリィが言葉を返す前に、ルシナは後ろを振り返る。
「ネオス、頼む」
剣を持つ腕を下ろしたネオスは、リリィの背後の壁を見つめた。
星空の一部が歪んで、“扉”が現れる。
「その“扉”は一方通行だ。ここへ戻ることはできんぞ」
ルシナは頷いて立ち上がった。
「ああ、わかってる。――リリィ」
リリィの腕を支えながら、立たせる。
「行ってくれ」
逡巡の後、ゆっくりとリリィは頷いた。
再び上げた顔にはいつもの力強さが戻りつつある。
「必ず戻ってきて」
握った手が、ゆっくりと離れていく。
指先がすり抜けた直後、リリィは走り出した。
* * *
来た時と同じように、そこは暗黒の空間が広がっていた。
「はあっ、はあ……」
体が重い。自分以外の血で濡れた体が、ひどく痛い。
どれほどの時間が経ったのだろう。どれほどのことが起こったのだろう。
今までのことを一つ一つ思い出す余裕もなかった。ただもつれそうになる脚を、必死に動かす。
ただ確かにある感触は、抜き身で握ったままの剣だった。
(もう、わからないよ……何も……)
どこへ向かっているのかもわからない。
ずっと変わらぬ真っ黒な景色。やがて足取りは更に重くなり、走ることさえ困難になる。
「……だめだよ、もう……」
膝に両手をついて息を吐く。
絶対に諦めないと思っていた。目的を果たすまでは、決して立ち止まらないと。
けれど――。
思い描いた未来は、訪れない。セスを助け、皆で帰る。もう既に、それは叶わない願いとなってしまった。
あの瞬間――リリィの目の前でセスが己の体に剣を突き立てた瞬間が、何度も瞼の裏で繰り返される。
ああするしかなかったのか。セスは、それを望んでいたのか。
『僕自身を証明するために』
セスはそう言った。あの言葉の意味も、今となってはわからない。
――もう疲れた。
ここで座り込んだら楽になるだろうか。このまま寒さも温かさも感じない空間で、眠ったら。
「リリィ」
声が、聞こえた。
「ルシナっ……!?」
顔を上げると、そこにはルシナがいた。
いや――光に包まれた、ルシナの姿をした聖霊が。
一瞬の期待が消え去り、リリィは力なく笑う。
「……今更……どうしろっていうの。もうあたしには何もできない。セスを助けることも、ルシナの傍にいることも、できなかった……」
「まだ終わっていない」
「…………」
「まだその時は来ていない」
そして彼はリリィの右手に握られている剣を指差した。
「その剣は、諦めていない。君の想いに応えている。まだ諦めたくないという君の気持ちに」
リリィの手に重ねるようにして剣を握った彼の手は、優しかった。
「望むなら、私は君を導く。その時まで――」
「……本当に、まだ間に合うの? 道は閉ざされてないの……?」
彼は微笑んだ。ルシナとは違う、けれど全てを抱擁するような優しい微笑み。
リリィは強く剣を握る。
「――お願い。私に力を貸して。まだ、走り続けたい。ここが終わりじゃないのなら……」
彼は頷くと、一層眩い光に包まれた。
輪郭を形作っていた光が剣に吸い込まれる。ほのかな光を帯び続ける、白銀の刃。美しく、そして力強い。
眼を閉じて剣に願いをかける。
「どうか、私と、私の大切な人たちを……守ってください」