39 光が堕ちる時(2)
「久しぶり……かな」
そう言う声にも表情にも生気が感じられない。
「よくここまで来たね」
「……助けに来た」
「助ける……?」
乾いた笑い声が静かな空間の中に伝わる。
「どうして? 僕は助けられる必要なんてない。自分の意志でここにいるんだから」
「ネオスに協力したのも、お前自身の意志なのか」
「そうだよ。理由を聞きたい?」
ルシナは黙っていた。けれどセスは独り言のように話しだす。
「あいつはある契約を僕に持ちかけた。協力の代価として……僕の願いを叶えてくれると言ったのさ」
「それは……」
「リーシャを蘇らせる」
見開かれたルシナの瞳が震えた。
「馬鹿、な……そんなこと」
「そうだよ。普通に考えれば不可能さ。聖霊の力でも、それこそヴェルディカ本人でさえそんな芸当はできない。けれどね……“蘇らせる”のは無理でも“創る”ことはできるそうだよ」
「つくる……?」
聞いたことがなかった。
いや、聖霊の力ならばあるいは可能なのかもしれない――しかし、自分にもそのようにおぞましいことができるとは思いたくない。命の真理を侵すような、忌むべき行為だ。
「禁忌とされているらしいけど……たとえば体だけをそっくりそのままに創るのさ。それにリーシャに似せた人格を与えれば、魂のないおもちゃのできあがり」
「そんな……そんなものリーシャじゃない!」
「そうさ。だけど、僕はそれでも良かった。創られた人形でも、もう一度会えるなら」
言葉を失うルシナを見て、セスはかすかに笑う。
「でも、そんなことは途中からどうでもよくなった」
「…………」
「あんたに……痛みを与えられれば、それでいいと……そう思うようになったんだ」
天井の星明りに照らされているセスの顔が、再び無表情に戻る。ただ瞳だけは強い光を宿してルシナを見つめていた。
ルシナは一つ呼吸をし、視線を合わせる。
「……彼女は俺が殺した。ずっと俺の傍にいて、支えてくれた人を、俺は殺した。お前の大切な人を」
「…………」
「そのことは俺自身だけじゃなく、お前の心にも濃い影を与えてしまった」
言葉にできる気持ちではなかった。今更謝罪の言葉を吐き出せるものでも。
ただずっと重く、ルシナとセスの中に沈んだ過去。時が経つうち、触れるのもためらわれる深い心の底の澱になっていた。
「忘れたくない。忘れるべきじゃない……けれど、このままじゃ過去に足をとられてばかりだ。俺も、お前も。憎しみは、忘れなくてもいい。でも、ネオスの力に頼ることはやめてくれ。ずっと闇の中に引き込まれて逃げられなくなる。……俺は、お前に……」
その続きを言うことは、躊躇った。自分が口にできる言葉ではない――それはよくわかっている。しかし避けていては、前と同じだ。
向き合わなければならない。
「幸せに、なってほしい」
セスはゆっくりと瞬きをした。そして、口を開く。
「僕はね、ルシナ……好きだったよ。リーシャも、あんたのことも。大好きだったから、許せなかった。リーシャは死ぬその瞬間まで、あんたを憎んでいなかった。全てを受け入れていた。その強すぎる絆が……僕には理解できなくて。悲しいのか、憎いのか、妬ましいのか……何もわからなくなった」
「セス……」
「戦争が終わって、あんたが消えて、どれだけ時が経っても僕は虚ろなままだった。そうしているうちに、あいつが現れて……後はあんたもよく知ってるだろ」
少しよろめきながらも、セスは立ち上がる。そして天井の星空を見上げた。
「ある意味、あいつは僕に居場所をくれたんだ。あんたを憎めば、僕は僕の存在を実感できる。そうしたら、すごく楽になった。でも……また苦しくなった。リリィを見て、あんまり真っ直ぐだったから。彼女みたいに生きたいと……そう思った」
ルシナも立ち上がる。
痛々しいほどの沈黙が訪れた。
まるで時間が止まったかのような空間に動きが訪れたのは、どれほど後だったか。
上を見上げたままだったセスの頬に、光の筋が現れた。
「でも、やっぱり無理だ」
自分と同じ色の瞳、彼女と同じ色の瞳――。
ああ、同じだ。あの時と。
赤い眼を悲しみの色に濡らして、美しい光の涙を零しながら。
『ごめんね、ルシナ。私は結局、君の心を埋められなかった。でも私……幸せだよ。昔も今も、君に会ってからずっと幸せだった。だって最後の時も、こうして好きな人と一緒にいられたんだもの……』
全てが紅く染まっていた。美しいほど鮮明な血で。
あの涙だけが透明に輝いていた。
ただあの時と違うのは、目の前にいる少年は彼女ではない。恐ろしいほど彼女と重なる姿をしていても、別人だ。
そしてその右手には、残酷な漆黒に煌めくものがある。
「僕はこうすることでしか、僕を証明できない。何をしても、どこにいても、あの時から抜け出せない。いつだって僕が想像する未来は……この瞬間だった――」
そう言って泣きながら儚く笑ったのだ。
『愛してるよ』
大切そうにその言葉を紡ぐのは、記憶の中の残像。
そしてその姿は、よく見慣れた愛しい人の笑顔に変わる。今まで生きてきた時間に比べれば、遥かに短い時を共にしただけの。けれどずっと心にある、忘れられない愛しさを感じさせてくれた。
「リ――……」
セスの手にあったものが、ルシナの胸に吸い込まれる。
そして滴り落ちるのは――あの時と同じ、美しい赤だった。
* * *
「ルシナ!!」
リリィの絶叫が静寂を貫く。
「――っ!」
セスの短剣に胸を貫かれてもどこか放心していたようだったルシナの表情が、はっと現実に戻る。
そして駆け寄るリリィの方を向いてかすかに唇を動かしたが、声は出ない。代わりに彼の唇から零れ落ちたのは、鮮やか過ぎる血だ。
時の流れが極端に遅くなったかのように見える。ルシナの元へ走っているのにちっとも近付かない。もつれる脚がもどかしい。
セスが短剣を引き抜くと同時に、ルシナは頽れた。
「ルシナ、ルシナ……! しっかりして!」
ようやく駆け寄って、柔らかい草の上に何とか膝を付いているルシナを支える。
胸に当てた手に伝わる生温かい感触に、背筋が凍った。眼で確認することはできない。きっとそれは、視界を貫くような痛々しい色をしているから。
「リ、リリィ……無事だったんだな。良かった……」
「大丈夫、あたしは大丈夫だから……お願い、しゃべらないで。しっかりして。大丈夫、すぐにレイハが来てくれる。すぐに治してくれるから……」
悪夢だ。
こんなの、現実じゃない。
ネオスが見せる悪夢に決まっている。
リリィは先程ネオスに捕らわれ、ここへ連れて来られた。既にルシナが辿り着いていて、二人は向き合いながら話していた。それをリリィは見させられていたのだ。
セスがルシナの胸に短剣を突き立てるその瞬間まで、声すら出すことはできなかった。
「セス――!!」
涙に濡れる瞳で見上げると、セスが無表情のままルシナとリリィを見下ろしていた。
ただ彼の両眼からも、とめどなく涙が溢れ出している。
「どうして……どうしてなの。こうするしか、道は無かったの――!?」
溢れる。記憶の中から、セスの姿が。
リリィをからかう時の悪戯っぽい眼。いつもどこか楽しそうだった声。嫌味な、けれど憎めない笑顔。
何もかも――。
「嘘……だったの? 一緒に旅した時の笑顔も……あたしを守ってくれたことも……あたしのこと、好きだって言ったのも……全部」
「…………」
「信じたくない……いやだよ……」
ゆっくりとセスは口を開いた。
「ごめんね、リリィ。僕にはこうするしかできなかった……」
そして下ろしていた右手を持ち上げる。
「やめろ、セス!!」
ルシナは鮮血と共に叫びを吐き出すが、セスの右手は止まることはない。
「これが僕の望んだ未来なんだ。……これでやっと――」
黒い軌跡を宙に描き、刃が振り下ろされた。