38 光が堕ちる時(1)
「リリィ、大丈夫か?」
「うん。平気」
ルシナに手を引かれ、リリィは真っ暗な空間を走っていた。
音の無い世界――互いの息遣いがよく聞こえる。リリィよりかなり荒いルシナの吐息が、残酷なほどはっきりと耳に届いてくる。
強く手を握った。ルシナも応える。
言葉で体調を気遣いはしなかった。気遣った所でヴェルディカに会えなければ結果は同じ。ルシナは確実に死ぬのだから。
「すぐには着かないのね」
「もしかしたら他の聖霊に干渉されてるのかもしれない。ネオスの罠かも……」
シャナンが開いた“扉”の向こうは、すぐにネオスの空間へ繋がっているわけではなかった。上下左右も確かでない、どこまでも真っ暗な空間が広がっていたのだ。
一人だったらどこへ進めばいいのか、自分がどこに立っているのかさえわからなかっただろう。けれど自分の右手を握るルシナの左手が、しっかりと方向を指し示してくれる。恐怖や不安は感じなかった。
「良かったのか、レイハたちと待ってなくて」
「……私も、セスとちゃんと話したいから」
セスがいつからネオスへ心を傾けていたのかはわからない。もしかしたら最初から裏切るつもりでついてきたのか――そう疑ったこともあった。
しかし真摯な瞳でリリィへ想いを伝えたセスは、嘘をついているとは思えなかったのだ。
聞きたい。あの時の言葉は嘘だったのか、それとも……
その時だった。
ルシナがふと立ち止まる。
「どうしたの?」
「いや……」
手を握るルシナの体温が、先程よりも冷たくなった気がした。
「……?」
ルシナはリリィと向かい合い頬に触れる。
指先でなぞるような感触に、無意識に寒気を感じた。
「っ!」
「怖いの?」
暗闇の中、深紅の双眸がやけに光って見える。時折それは紫にゆらめいて……
「!! そんなっ……いつから」
「全く学習しないね、君は。そろそろこの手法にも飽きが来ないか?」
ルシナの顔のまま、唇が不敵な笑みを形作る。その瞳ははっきりとした闇色に変化していた。
「ネオス――!!」
「この姿で会うのは二度目だな。恋人の見分けもつかないのか」
「ルシナはどこなの!?」
「心配しなくても、この空間に入ったルシナは本物だ。途中でちょっと意識をいじって私がすり替わったがな」
強い力でリリィの手首を握る。
何度同じことを繰り返すのだろう――情けなくて、悔しくて涙が出てきそうだった。
どうやってもネオスのこの力に対抗することはできない。危険を覚悟で飛び込んだが、まんまと罠にはまった。
自分に対する怒りが、ふつふつと沸き立つ。
「…………」
「抵抗しないのか? あの時はあんなに泣きわめいていたのに」
「丁度いいわ」
低く、リリィは言った。
「あたしを人質にでもなんでもすればいい。とにかくセスの所へ連れて行って」
「……ほう。今私はお前を殺すこともできるぞ。それに、ルシナの心配はいいのか?」
「ルシナを苦しめたいなら、目の前であたしを殺すのが一番良い方法でしょ。あなたの性格上、こんなつまらない終わらせ方はしないはずだわ」
「はっ、つまらないと来たか! なるほど、よくわかっているじゃないか」
片手でリリィの顎を掴み、上を向かせる。
「余興は終わった。これから始まるのは、喜劇か、悲劇か……じっくり見るがいい」
急に視界が開けた。
暗黒の空間が一瞬にして消えて、頭上には美しい星空、足元には柔らかい草地が広がる。
「ここは……」
外ではなかった。夜空は半球の形をしていて、円形の部屋の壁と天井の役割を果たしているのだ。涼やかな空気が漂っているが、やはり屋外の風とは少し違う。
ここが部屋の中であるということはにわかには信じ難いが、ここも聖霊の力で造られた空間なのだろう。
「!!」
部屋の中にはルシナがいた。青白い顔を汗で濡らし、辺りを見回している。
(ルシナ! あたしはここに――)
叫ぼうとしたが、声が出ない。
「無駄だ。動くこともできない」
と、ネオスがリリィの背後から囁く。
「どういうこと!?」
「私の力で、お前の存在を認識できないように隠している。確かにお前は生身のままこの空間にいるが、奴らからは見えないわけさ。声を出しても、届かない」
「奴ら――?」
微笑を浮かべるネオスが部屋の中のある一点を指差す。
その先には――。
「セス!!」
セスは草の上に横たわっているようだ。ここからでは意識があるのかないのか判断できないが――。
「何をする気なの!?」
「黙って見ていろ」
不敵に唇を吊り上げ、ネオスは消えてしまった。
「何――? 一体……」
ネオスの言われた通り、体は全く動かない。
ただ心臓が不吉な鼓動を刻んでいる。
* * *
唐突に暗黒の空間を抜けたかと思うと、頭上に広がったのは星空。そして足が踏みしめているのも、柔らかな草だった。
「リリィ、抜けたぞ――」
ルシナは荒い息をつきながら振り向く。
「――リリィ?」
背後には誰もいなかった。
そんな馬鹿な。
今の今まで手を繋いでいたはずだ。左手には彼女の体温が残っている。それなのに星空の下へ出た途端、リリィの体は幻のように消えてしまったのだ。
「リリィ!」
呼ぶが、答えはない。
(くそっ!! 気付かないなんて……ネオスの仕業か)
日を経るごと、いや、わずかな時間を経るごとにあらゆる能力が落ちているのがわかる。確実に終わりが近づいているのが、嫌と言うほど実感できる。
鼓動と動揺を抑えながら、辺りの風景を見渡す。
見惚れるほど美しい空間だった。半球形の夜空に、さわさわと揺れる丈の短い草地。涼やかな風も吹いている。
「――!!」
ルシナの視線が留まった。草の上に横たわる人影を認めたからだ。
「セス!!」
確かにそれは、セスだった。走り寄ってそのすぐ傍にしゃがみこむ。
「セス、しっかりしろ」
仰向けに横たわるセスは、固く瞼を閉じている。唇も顔色にも血の気が失せていた。
癒しの力を使おうと、セスの額に手を当たる。――すると。
「! 気付いたか」
わずかにセスは瞼を開けたのだ。何度か瞬きをして、その瞳がルシナに焦点を合わせる。
「ルシナ……」
声は掠れている。
顔色が悪いだけでなく、かなり痩せたようだった。長い間何も口にしていないのだろう。
「……あんたを待ってたんだ」
セスはゆっくりと起き上がった。




