10 魔人
翌日、リリィはルシナと共に街にある図書館へ向かった。
イグリス中央図書館は、国内最大級の蔵書量を誇る図書館である。特に歴史資料の数が多く、アステニア史のみならず、セルドナ大陸全土から、諸外国、暗黒大陸まで豊富な資料が揃っており、歴史を調べるにはもってこいの場所だ。
これほどの規模ともなると利用者数も半端ではないが、館内はとても静かだった。
リリィは亜人関係の資料が置いてあるコーナーで、本を物色していた。
傍らにルシナはいない。別の場所で、彼は国家関連の資料を見ているのだ。様々な国名を見ていれば何か思い出すかもしれないし、アステニアについての情報も知りたいということだった。
リリィは公共の図書館に来たことはほとんどないが、この本の多さには感服した。
亜人や暗黒大陸関連の資料だけでも、資料館ができそうだった。
亜人の起源や彼らの文化――。こうして詳しい資料を見ていると、今まで興味を持っていなかった事柄にも強く惹かれた。
一口に亜人と言っても、様々な種族が存在している。
獣と人が混じったような姿をした獣人族、大きな翼を持って空を飛ぶことができる翼人族、水中を自由に泳ぎ回る水人族――。この他にもまだまだたくさんの種族があるという。
そのことは知っていたが、あまり詳しいことは学校の授業では習わなかった。
それぞれが違った生活様式を持ち、独自の文化を発展させている。彼らが実際にどんな生活をしているのか、リリィは非常に興味を持った。
夢中で資料を読み漁っていると、ふと、一冊の本が目に入った。
本棚の一番隅にあるその本は、背表紙しか見えないもののかなり古いようだった。明らかに他の本から浮いている。
リリィはそれを手に取ってみた。
思った以上にそれは古ぼけていた。装丁はぼろぼろで、紙も茶色に変色している。表紙にどんな文字が書いてあるのかさえわからない。
これほどぼろぼろの本なら、撤去されてもおかしくなさそうなものだが――。
興味をそそられ、適当なページを開いてみる。むわっと埃が上がり、思わず咳込んだ。
おまけに何が書いてあるのかわからない。ただ汚くて文字が読めないというわけではなく、文字そのものが何を意味しているのかわからないのだ。
(これ、何語かしら……見たこともない言葉だわ)
「『とこしえの闇が現世を覆いつくしたとき。
暗黒神ディラスは、その血肉からある命を創りだし、己の力と刃を与えて、現世につかわした。
名もなき闇の申し子は、終わりなき混沌に終焉をもたらすべく、かの地に降臨したのだった。
かれは、身にまとう暗黒をひるがえし、風よりもはやく、赤い大地をかけた。
かれは、邪なる刃をふるい、かなしみとにくしみと、死をもたらした。
かれは、黒い炎と化し、その漆黒のいなをもって、かたちあるものすべてを焼き尽くした。
昏き空の影にかれの姿を見るたび、ひとびとはみな、恐れおののいた』
背後から突然声がした。
弾かれたように振り向くと、そこには――。
「っ!」
すぐそこにあった顔には、細い瞳孔が走った金色の眼が輝いている。
リリィの顔の二倍近くもありそうなそれは、人懐っこい笑みを浮かべていた。
髪は茶がかかった金色。いや、雄々しく生えているそれは、鬣のように見える。
その鬣の間からは、動物の丸い耳が生えていた。
「お嬢ちゃん、獣人は初めてかい?」
「あ、亜人……?」
屈みこんでいた『彼』がすっと背筋を伸ばす。比喩ではなく見上げるほどに背が高い。余裕で二メートルは超えているだろう。
「そうだよ」
低く豊かな声で彼は答えた。口の間からは太い牙が零れている。
突然現れた獣人は、図書館の職員と同じ制服を着ている。その胸には『ジルバ』と書かれた名札があった。
「ここの職員の方ですか?」
「ああ。お嬢ちゃん、どこから来たの?」
彼は滑らかに話しているが、その言葉にはなまりがあった。
「ラグディールです」
「それなら、俺みたいな亜人を見慣れていなくてもおかしくないな。王都に亜人は滅多に寄り付かないし」
亜人を見たのは初めてではないが、このように公共施設で働いている者は生まれて初めて見た。
母と一緒に暮らしていた時に目にした亜人は――亜人に限らないが――大抵ろくな仕事をしていなかった。
「そこまで数は多くないけど、俺みたいに普通の人間と同じように働く亜人も結構いるのさ。亜人にしかできない仕事ってのもあるし、最近は割と人間も寛容だしね」
彼――ジルバは好意的な笑顔でそう言う。
獣人は粗暴と聞いたことがあるが、彼は違うようだった。
「そういえば――この本、何なんですか? あたしには全然言葉もわからないし……」
「それはエーゼスガルダじゃ有名な叙事詩だよ」
「エーゼスガルダ?」
「暗黒大陸のことさ。エーゼスガルダっていうのは、俺たち亜人が故郷を『大いなるエーゼ神の地』という意味を込めてそう言っているんだ。エーゼっていうのは命と創造を司る神様さ。元々暗黒大陸はセルドナの人間が付けた蔑称だからね」
「そうなんだ……」
そんなことも初めて聞いた。やはり、現代のセルドナには暗黒大陸に関して伝えられていないことが多すぎる。
「まあ、この本の言葉がわからないのは当然だ。暗黒大陸の古い言葉で書かれているからね」
「叙事詩?」
「暗黒戦争のね。その本、ものすごく古いだろ? 当時の原本なんだよ」
「当時の――!」
リリィは手にしている本をまじまじと見つめた。
「いいんですか? そんな貴重なものを閲覧禁止にしなくて」
「本は読まれるためにあるからね」
「この本に書かれている『かれ』って――」
「ああ、今時の子は知らないのかな。暗黒戦争末期に登場した、ある戦士のことさ」
ジルバの口ぶりからして相当有名なようだったが、リリィは聞いたことがなかった。
「彼がいなければ戦争はもっと長引いていたかもしれないってくらい、有名な人だよ。暗黒大陸じゃあ、彼を知らない者はいないね」
「でも……ここに書いてあるの、かなり物騒じゃないですか? 人間側の本ならわかるけど、これが暗黒大陸のものなら、とても英雄視されているようには見えないんですけど」
ジルバは頷く。
「俺は暗黒戦争を直接知るわけじゃないけどね。『暗黒神ディラス』って書いてあるだろう? ディラスはエーゼと対をなす死と破壊を司る神で、その戦士は彼の現身と呼ばれていたんだよ。まさにそこに書いてある通りの戦いぶりだったそうだ」
リリィは想像してみた。
数多の屍が横たわる戦場でただ一人立っている男。その体は返り血に濡れ――。
「……何だか、怖いですね」
ジルバは朗らかに笑った。
「正直なお嬢ちゃんだ」
リリィはこの親切な獣人に好意を抱いた。初めて言葉を交わした亜人が彼で良かったと思った。
「あたしが通っていた学校では、亜人のことを正しく教えてくれていませんでした。暗黒戦争の正しい歴史も、人間の中では伝わっていないのかもしれませんね」
「悲しいことだが、そうかもしれないね。亜人は蛮族などと言われているし、特に俺たち獣人はこんな見た目をしているから凶暴に見られがちだが」
「あたしも今までそう思ってました。でも、それって恥ずかしいですね。こんな優しい人がいたなんて」
ふと、ジルバの顔が曇った。
「確かに多くの亜人は争いを好まない。だが、そうじゃない亜人もいるんだ」
「――?」
「奴らは『魔人族』と呼ばれている。実を言うと、この叙事詩に書かれている戦士――彼もその一員なのさ」
魔人族――聞いたことがなかった。だが、その名からして温厚な種族ではなさそうだ。
「とんでもなく凶暴で戦闘好きの種族でね。奴らは肉とあらば何でも食うのさ。動物でも、亜人でも、人間でも」
「亜人や人間も!?」
そんな話は聞いたこともなかった。そんな恐ろしい亜人が存在しているなんて――。
「奴らはとんでもなく強い。しかも不死身ときたもんだ」
「不死身……!? 死なないんですか?」
「全く死なないというわけではないがね。普通なら死ぬような傷でもすぐに治っちまう。寿命も果てしなく長い。その代わり、生殖能力はとても低くてごく少数しかいないんだ。まあ、あんな連中が大量にいたら、暗黒大陸はとうに滅んでいるだろうがね」
驚愕しているリリィにジルバは更に続ける。
「だが、奴らに助けられたのも事実だ。暗黒戦争では、その高い戦闘能力を生かして常に最前線で戦っていた。魔人がいなければ、暗黒大陸は人間に征服されていただろう。――君からしたら、複雑かもしれんが」
「……いえ。ジルバさんは、魔人に会ったことがあるんですか?」
いや、とジルバは首を振る。
「俺も話を聞いただけなのさ。奴らは決まった住処を持たず常にあちこちを渡り歩いているから、出会う確率も低いんだよ」
「そうなんですか……」
もし、兄に雇われた刺客が魔人だったら――考えただけでも恐ろしい。
ただ、ジルバの話によれば、その可能性は非常に低そうだ。
リリィはほっと胸を撫で下ろした。
* * *
ルシナは館内の椅子に座って本を読んでいた。
この国の歴史や政治形態から社会での礼儀や常識――新鮮なものもあれば、既に知っているものもあった。
文字も問題なく読めるし、どうやら、あらゆる記憶を全て失っているわけではないらしい。
自分自身に関する記憶はほとんど抜け落ちているが。
最後のページをめくり、本を閉じる。少々難解な言葉も出てきたが、大体の内容は理解できた。
本を戻そうと立ち上がって本棚の前に立ったその時だった。
背後に気配を感じた。
息がかかるほどの真後ろに。
「……何か用かな?」
次いで、背中の中心に固い感触が当てられる。それが銃だと、ルシナは瞬時に理解した。
「人前で、物騒だな」
「一緒に来てもらおうか」
男の声が低く囁く。
「行くから、銃を引っ込めてくれないか。誰かに見られたら面倒だろ」
少しも慌てず、ルシナは言った。背中に押し当てられていた銃の感触が消え、ルシナは振り向いた。
男の顔には見覚えがあった。
「君は……」
「覚えててくれたとは光栄だな」
あの馬車に乗っていた刺客の一人――馭者のジャンだった。
ジャンは皮肉な笑みを浮かべている。
「とにかく、ここでは面倒だ。外に出ようか」
ルシナは簡単にジャンに背後を見せ、すたすたと入口に向かって歩いて行った。