33 優しい光に包まれて(3)
レイハの家に戻り、貸してもらった部屋に入ると、どっと疲れが押し寄せてきた。
レイハの力でレムとリュカはあまり疲労を感じてはいないが、体には尋常でない疲れが溜まっているはずである。話し合いは翌日にして、とりあえず今日は休んだ方がいいとレイハが言うので、四人は素直に従うことにしたのだ。
レイハの家は狭いので、リリィとルシナ、レムとリュカで――自然とそのような組み合わせになった――一つずつ部屋を共有することになった。
「レイハ、話がある」
他の三人が部屋に行った後、ルシナはレイハにそう言った。
琥珀の眼をした少年は家の外に出て、夜風に身を委ねているところだった。
「……どうかしたか?」
「ありがとう。俺たちを……助けてくれて」
レイハはじっとルシナを見つめた。
「本当に、アル・カミアへ行くのか。聖霊だけでなく、セスとも戦わなければならないかもしれない。……ヴェルディカがお前の体を治すという保証もないぞ。それでも、良いんだな?」
静かな瞳。前に会った時とは比べものにならないほど、まとう空気も穏やかだった。
「ああ。もし叶わなくても、できる限りのことをやっておきたいんだ。一緒にいてくれる人たちがいるから」
「……そうか」
ルシナは微笑んだ。
少し寂しげで儚い微笑――しかしそれはこれ以上ない優しさに満ちている。
「正直に言うと、まだ少し怖いよ。誰かを親しく感じたり、愛しく思うのは……多分、これからもずっとそうだと思う。でも――それも受け入れて生きていきたい。誰かの心に触れて傷付くことより、誰かの心に触れて幸せを感じる――たった一瞬だとしても、そっちの方がいい。今なら素直にそう思えるよ」
レイハも柔らかい笑みを返す。
「……あの子が、君を変えてくれたんだな。私では果たせなかったことを、彼女は叶えてくれた」
「あんたがいなきゃ、俺は今ここにいないよ。こんな時でもあんたを頼ってしまった」
何も考えていなかった。ただリリィと仲間を助けるため――ネオスから逃げるため――とにかく安全な所に。そう思って無意識のうちに向かったのが、ここだった。
「頼ってくれ――と言うのは、図々しいかな」
「…………」
「謝って許されることじゃないのはわかっている。ただ、それでも言わせて欲しい……すまなかった」
ルシナは力なく笑った。
「何が」
「私はお前を裏切った。お前を守ることもできず――いや、守ろうとさえしなかった。結局は、自分の立場を選んだのだ」
「あんたがその選択しかできなかったことくらい、わかってるよ。あの時仮にあんたが一族を敵に回して俺を庇ったとしても、どうせ二人まとめて消されただけなんだから」
「……私はお前との約束を破った。自分から、お前の傍を離れた」
「ま、少しは子離れしないとな……丁度良かったさ」
ルシナの声は淡々としてはいても、穏やかだった。
優しい、静かな声。そこに全てに怯えきっていた少年の影はない。
「……泣いてるのか?」
ルシナにそう言われ、レイハは初めて自分の眼が流しているものに気付いた。
レイハは微笑した。
「……つくづく、親失格だな。子供の前で涙を見せるなんて」
「俺だって、いつまでも子供のままじゃないよ」
「お前は、いつまでも私の子供だよ」
するとルシナは苦笑した。
「そんな可愛い顔して言われてもね……」
「お前はいつの間にか、私よりも大きくなってしまったな」
琥珀色の眼をした少年は、自分よりも遥かに背が高い相手を見つめる。
「今度は、私も行く」
「でも――」
そして真顔になって言った。
「以前、お前を守る責務を捨てたこと――後悔しなかった日はなかった。今度こそ、私は私の意志に従うよ」
* * *
小さな部屋の中は、穏やかな静けさに包まれている。
ルシナが部屋に戻ると、布を敷いた床の上にリリィが眠っていた。横向きに寝ている彼女の肩は、呼吸に合わせてゆっくりと動いている。
「……話は終わった?」
突然眠っていたはずのリリィがそう言ったのは、ルシナが隣に座った時だった。
「起きてたのか」
「うとうとしてた。ルシナが入って来て目が覚めたけど」
暗闇の中で、起き上がったリリィはかすかに笑った。
「良かった。レイハの願いが叶って。……ずっとルシナに会いたかったんだよ」
「……俺も会いたかったよ。レイハがいなかったら、何もわからないまま野垂れ死にをしてた」
過去を見ているかのような横顔を愛しげに見つめ、リリィはルシナの頬に軽く触れた。
「……夢じゃ、ないんだね……」
「何が?」
「あなたがここにいること。まだ実感がわかないみたい。……前みたいに、こうしていられることが……」
頬に触れる少女の手に、そっと自らの手を重ね合わせる。
「もう、永遠に君に触れられることはないと思ってた。また誰かを愛することも、愛されることも、ないと思ってた……」
そう言ってルシナは眼を伏せる。時々、自らの選択を後悔しているかのように、哀しげな表情を見せるのだった。
「それでも、君はいてくれるんだな。こんな、俺の傍に……」
「あたしだけじゃないわ。レムもリュカも、レイハも……セスだって」
「…………」
「あなたは愛されてる。皆、ここにいてほしいと思ってるんだよ」
不器用なだけ――愛し方がわからないだけ。
傷付くのを恐れるあまり、自ら拒絶する。ルシナが心に抱く闇は、恐らく誰もが抱えているものだ。
誰もが不安で仕方ない。愛されているのか、愛して良いのか、それさえもわからずに。
時には自分が存在する意味を求め、泣き叫ぶ。そして、自分自身を傷付けるのだ。
「……ありがとう」
ゆっくりと瞬きをして、ルシナはリリィの髪を撫でる。優しく、その感触と温もりを確かめながら。
「……ねえ、覚えてる? お母さんにもう会えないことがわかって、あたしが泣いてた夜……ルシナは傍にいてくれたよね。それだけで、あたしはすごく救われた。あなたが一緒にいてくれてただけで、不安と悲しみが嘘みたいに消えたんだよ。だから、あたしも……あなたが辛い時は傍にいて、寄り添っていたいの」
暗く静かな部屋の中で、リリィの柔らかい声だけが紡がれる。
優しいその音色に、深紅の瞳から透明な雫が流れ落ちた。
「……言葉じゃ足りないけど……本当に、ありがとう。君がいてくれて――良かった」
その声はかすかに震えていたが、優しく穏やかだった。
ルシナの涙を指先で拭い、リリィはくすりと笑う。
「意外と泣き虫なのね」
ルシナは困ったように微笑んだ。
「……これだけは、いつまで経っても変わらないな」
「ルシナが泣いてるところなんて、家出してた時だったら想像もできなかったな」
「そう思われたかった。弱さを見せるのが嫌だったから」
「でも、あたしは嬉しいよ。今まで、あたしばっかり弱いところを見せてきたもの」
そう言って、涙の筋に口付ける。
「これからは、弱さを隠さないでね。あたしも、隠さないから」
ルシナは頷くと、リリィの頬を優しい手つきで包み込み、キスをした。