31 優しい光に包まれて(1)
リリィはレイハの小屋から少し離れたところにある、泉の畔に座っていた。
よく星が見える。青い闇を彩る無数の光。それらはあまりに眩しく、リリィの眼には滲んで見えた。
あまりに多くのことが起こり過ぎて、現実味がないというのが正直な気持ちだった。
ルシナに出会ってからの時間――彼と過ごした全てのことが夢だったのではないかという気にもなる。
ゆっくりと思い返す。
追手から逃亡していたリリィは、森の中で倒れていた美青年に出会った。彼は記憶を失っていたのだった。
彼と行動を共にすることとなり、それから色々なことが起きた。
初めて触れた死、鮮やかな血の色と匂い、レムとリュカとの出会い――当初リリィを殺そうとしていた二人に、これほど深い友情を感じるようになるなど、あの時どうやって想像できただろう。
一度はルシナと別れ、そしてもう一度彼に会った。今度は偶然ではなく、リリィが探し出したのだ。
あの時リリィがルシナを婚約者役に選ばなければ、ネオスと会うことはもっと先の出来事だったかもしれない。
ルシナの記憶喪失の原因となった聖霊ネオスは、ルシナと因縁を持つセスを連れてリリィの目の前に現れた。
それからネオスによって危機に陥ったリリィを、ルシナは力と記憶を取り戻すことによって助けたのだ。
その後、彼は姿を消してしまった。
追ってやって来たエーゼスガルダで再会した時は、ルシナはすっかり変わっていた。
どこか虚ろで優しかった青年の姿は、全てを拒絶する魔戦士へ変貌していたのだ。いや、元に戻ったというべきか――。
もう、あの時のルシナは消えてしまったと思った。リリィが出会い、強く惹かれた彼は――。
しかしルシナは、再びネオスによって危険にさらされたリリィを助けた。自分の身を犠牲にして力を使って、レイハの元へ逃げたのだ。
(ルシナは……残酷なディラスの化身なんかじゃない。本当は優しくて……とても寂しい人。自分以外の全てのものが怖くて仕方ないんだわ……)
だから自分が支える。彼の心の拠り所になって、傍にいる。
以前ならそう思うことができた。
しかし今は――。
(あたしがいることで、ルシナは傷付くのかもしれない。今日だって、あんなに苦しめた。前に彼が言っていた通り、私はいらない存在なんだろうか。……あたしは……ルシナがこれ以上傷付くのは見たくない。あたしが消えることで少しでも楽になるのなら……)
その時、近寄ってくる足音が聞こえた。
レイハはルシナの意識が戻ったら知らせに来ると言っていた。彼が目覚めたのかもしれない。
「レイハ?」
振り向いた先にいたのは、レイハではなかった。
長い黒髪は星空のようで、やはりひどく眩しい。翳った表情も、深い血色の眼も、なぜか星のように眩しく見えて、惹きつけられずにはいられなかった。
彼の姿を認めたリリィは、一瞬何を言うべきか迷ったが、安堵して笑った。
「……目が覚めたんだね。良かった」
今のルシナに、以前会った時のような刺々しい空気はなかった。
座る気配もなくそこに佇んでいるルシナと向い合せになるようにしてリリィは立ち上がる。
「……死んじゃうかと思った。――ごめんなさい。あたしのせいで……」
「君が……謝るようなことは、何もない。謝るのは……俺だ」
ルシナは呟くように言った。
「何度も危ない目に合わせた。それに、あんな……ひどいことを言ったりして、すまなかった」
途切れ途切れに吐き出される言葉は、今まで聞いた彼のどんな声より弱く儚い。
低く重い声は、リリィの胸の奥に深く沈んでいく。
リリィは浅く呼吸をした。
「ルシナと会えて本当に良かったと思ったよ。こんなに誰かを好きになれるんだって……初めて知ることばかりだった。でも……あたしと会わなかったら、あなたは記憶を失ったままでいられたかもしれない。苦しみの中に引き戻したのは、あたし――エーゼスガルダで会った時だって……苦しませてたのは自分なのに、あたしは自分の気持ちばっかり……だから……もう……」
青い瞳からは、透明な涙が流れ落ちていた。
ルシナは草の上に視線を漂わせたまま、動きはしない。その冷たい美貌からは何の感情も窺うことはできない。
長い沈黙の後、涙を拭ってリリィは笑いかけた。
「でも……やっぱりルシナが好きだよ。あなたがどれだけ変わっても、それは変わらない。迷惑なだけかもしれないけど……それだけは、なかったことにできそうにないわ」
「…………」
「聞きたいことが、あるの。あたしは……ルシナにとってあたしは……」
それ以上、言葉を続けることはできなかった。
静けさの壁が、そこにはある。見えないけれど確かにそこにあるのだ。二人を隔てる確かな壁が。
リリィは続きを話すことを諦め、小さく息を吐くとゆっくりと歩き出した。
彫像のように動かないでいるルシナの横を通り過ぎ、
「そろそろ、戻ろうか。レイハが心配してるよ」
彼の顔を見ないでそう言った。
ルシナは何も答えない。動こうともしない。
そのまま立ち去ろうとした時、腕を引く力の感触があった。
驚いて振り向くと、ルシナが去ろうとしたリリィの腕を掴んでいた。今にも離れてしまいそうなほど、弱く。
* * *
「ん……」
ゆっくりと意識が浮上する。曖昧だった景色がゆっくりと輪郭を保ち始める。
「起きたか」
「うえっ!?」
レムの顔を真上から見ていたのは、金色の双眸だった。
「リュ、リュカ! あれ、オレたち……」
「どうやら俺はネオスに操られていたらしいな。記憶がはっきりしないが……ルシナが助けてくれたらしい」
「お前、大丈夫なのかよ!? どっかおかしくないか?」
「大丈夫だ。それよりお前は?」
「オレは平気――っていうか、ここは……」
体を起こして見回すと、見覚えのある部屋の中のようだった。
リュカの他に、近くの椅子に腰を掛けて本を読んでいる少年の姿がある。
「あっ、あんた、レイハ!」
「あまり体を急に動かさない方が良いぞ」
「ってことは……ここはセルドナなのか?」
レイハは本に目を落としたまま答えた。
「そうだ。ルシナがお前たちを連れて来た」
「じゃ、ルシナはどこにいるんだよ? リリィも!」
「今はいない」
「……セスは?」
「いない。ネオスの所にいるんだろう」
レムは思い切り表情を歪めた。
「あいつ――仲間みたいな顔をしといて、裏切りやがった! オレたちを騙して、リリィやルシナを傷付けて……! 復讐なんて興味ないとか言っておいて、やっぱりルシナを恨んでるんだ」
「……仕方のないことだ」
ぽつりとリュカが呟く。
きっとレムは幼馴染を睨んだ。
「あいつの肩持つのかよ!」
「そういうわけではない。だが、セスを否定することもできないということだ。……肉親を殺されたんだぞ。簡単に割り切れるわけがないだろう」
言葉に詰まったレムの脳裏には、遠い過去に失った家族のことがよぎっていた。家族を殺される痛み。それは誰よりも彼女自身が知っている。
「そりゃ……そうだけど。でも、当時のルシナは精神が侵されてたんだろ!?」
「だが、セスの姉を殺したことは事実だ」
言い切るリュカ自身も、戸惑っていた。いくら現実的な彼でも、仲間であったセスの突然の『裏切り』を受け止めきれてはいない。
「――!」
ふと、本を読んでいたはずのレイハが顔を上げた。
「? どうかしたのか」
虚空のある一点を凝視するレイハ。何の変哲もない部屋の、レイハが見つめる空間に淡い光が漂う。
「なっ……!」
座っていたレムも飛び跳ねて身構える。
やがてその光は人の形を取り始める――レムとリュカも、本能で感づいていた。これは、聖霊の力だ。幾度も目にしたことのある――。
「――お前!」
部屋に現れた人物に、レムとリュカ――そしてレイハでさえも、思わず眼を見開いていた。
「――セス」
「……やあ、レイハ。久しぶり」
紅い眼の少年は、にっと笑う。
「セス! てめえっ、よくものこのこと!」
今にも襲い掛かりそうな勢いのレムを、リュカが制止する。それでもレムは牙を剥き出しにして唸った。
「そう怖い顔するなよ。何も、争いに来たわけじゃない」
「何の用だ」
レムとリュカを背後に庇いながら、レイハはセスの正面に立つ。
見た目だけならセスの方が年上だが、レイハのまとう空気は少しも気圧されていない。
「ネオスから言伝と――預かり物だよ」
そう言って差し出したセスの掌にあったのは、妖しく輝く紫の玉。
「……どういうつもりだ?」
「これと、ルシナが持っている三つの宝玉。これでアル・カミアへの道は開かれるだろう?」
「アル・カミアへルシナをおびき寄せるというのか」
「ルシナだけじゃなく、お仲間も歓迎するそうだよ。もちろん、あんたもね」
「罠だ!」
レムは凄絶な視線をセスに送りながら叫んだ。
「あのネオスが正面から堂々と戦うはずがねえ。また悪趣味な罠を張ってやがるんだ!」
「僕は知らない。来るのか来ないのか、そっちの自由さ」
虚空に差し出されたままの宝玉を、レイハの細い手が取った。
「! レイハ!」
「これを使うかどうかは、ルシナ次第だ。私は彼の決断に従おう」
セスはそれを見てかすかに笑う。
「当のルシナはいないようだね。それに、リリィも」
「会いたいのか?」
「――まさか」
セスは腰に差していた短剣を引き抜いた。
「それは……ネオスに与えられたのか」
「ああ。あんただって、リリィに同じような物をやっただろ?」
黒い刃が深紫の光を帯び始める。それはレイハでさえ顔をしかめたくなるほどの、毒々しい気に満ちていた。
「じゃあ、僕はこれで失礼するよ。用は済んだことだし」
「待て、セス!」
引き留めたのは、リュカだった。
短剣の光がセスを包み込もうとしている。セスは振り返り、紅い眼をリュカに向けた。
「何もかも――嘘だったのか。俺たちに協力したことも、ルシナに拒否されたリリエルにかけた言葉も」
「…………」
「魔人に襲われたリリエルを、お前は命がけで助けた。あれは――」
「どうでもいいだろ? 今となっては……さ」
そう言って笑ったセスの表情は、ひどく歪んでいた。
「どうであれ、ここにいる僕が答えだよ」
何か言葉を返す前に、セスはその場から消え去っていた。
居心地の悪い静寂だけが残される。
「あいつ……本当に」
レイハは右手に握った宝玉を見つめた。
「……ルシナ……」