プロローグ 来訪
とこしえの闇が現世を覆いつくしたとき。
暗黒神ディラスは、その血肉からある命をつくりだし、己の力と刃を与えて、現世につかわした。
名もなき闇の申し子は、終わりなき混沌に終焉をもたらすべく、かの地に降臨したのだった。
かれは、身にまとう暗黒をひるがえし、風よりもはやく、赤い大地をかけた。
かれは、邪なる刃をふるい、かなしみとにくしみと、死をもたらした。
かれは、黒い炎と化し、その漆黒のかいなをもって、かたちあるものすべてを焼き尽くした。
みな、昏き空の影にかれの姿を見るたび、恐れおののいた。
人々はかれを恐れ、かれをこう呼んだ。
暗黒神ディラスの愛子、魔戦士ルシナと――。
* * *
夜風が梢を揺らす音が聴こえる。虫の鳴き声も風に乗って、静かな音楽のように部屋の中へ流れ込んでいた。
深い闇に包まれた部屋の中に、開け放たれた窓から吹き込む柔らかな風。それが吹くたび揺れる蝋燭の灯りがぼんやりと浮かび、机の上に開かれた本の文字を照らす。
一定の間を置いて聴こえる、紙をめくるかすかな音。この空間にある人為的な音はそれだけだ。
視線と片手のみを動かしていたレイハは、ページをめくりかけて、突然その動きを止めた。
「…………」
何かに気付いたかのように顔を上げ、部屋のドアの方を見る。
それまで本の文字を追っていた琥珀色の瞳がすっと細まり、その眼に映る闇が揺れる。
静かな足音。それと共に濃い闇の中から、姿を現したものがあった。
若い男だった。
背後の闇と同化しているかのような黒髪。正面から見るとわからないが、後ろ髪は風になびくほど長く、後頭部で一つに束ねられている。
その肌は闇色の髪と対応する、抜けるような白だ。
まさに、この世のものとは思えぬ美貌である。あまりに完璧すぎるその姿は、命あるものというより動く彫刻のようだった。
その彫像にはめ込まれているのは、宝石のごとく煌めく紅い二つの瞳。
鮮血のような美しく残酷な色をしたそれは、同じように自分を見ているレイハを見据えていた。
「久しぶりだね」
かすかな微笑を浮かべ、彼はそう言った。大きな声ではないのに、二人の間の空間を貫いて聞こえてくる不思議な音色。
レイハは彼の背後にあるドアに視線をずらした。
開けた気配はない。そんな音も全く聞こえなかった。
真夜中の来訪者は、ドアを開けず突如としてこの部屋の中に出現したのだった。
しかしレイハは驚かず、久しく口にしない彼の名を呼んだ。
「ルシナ……」
すると青年はにっこりと笑った。
見惚れるほど美しい。しかし、身の毛がよだつような、何とも言えぬ禍々しさをも感じる笑みだ。
「覚えていてくれたとは、嬉しいな」
「……忘れるものか」
「それもそうだな」
「なぜ、私の元へ来た?」
ルシナは数歩レイハとの距離を詰めた。
「君に会っておきたいと思ったのさ。旅立つ前に」
すると、レイハの両眼は更に細まった。
「何をするつもりだ?」
「わかってるくせに――」
ルシナは試すような視線をレイハに向ける。
「まさか――」
「まさか、だって? 白々しい言い方をするなよ」
「……本気なのか」
「もう決めたことだ」
しばらくの沈黙。
やがて青年が口を開いた。
「俺を殺すか?」
レイハは少し間を置いてから首を振った。
「私に、そんな権利はない。君が何をしようと、それを止めることもできない」
青年は皮肉っぽく笑う。
「矛盾してるな。一族を捨てたはずなのに、『掟』はまだ守っているのか。それとも償いのつもりか?」
「…………」
青年はレイハに背を向けた。
「決意は変わらないのか」
レイハは彼の背中に言葉を投げかけた。目に見える距離よりも、遥か遠くにあるその背中に。
「愚問だな。今更揺るぐ程度のものなら、最初からこんなことはしない」
「……最後に、教えてくれ」
青年は振り向いた。感情のない赤い双眸が刺すようにレイハを見つめている。
「あの時から、今まで過ごした時の中で――大切なものはできなかったのか。君はまだ何もかも失ったままなのか……守るべきものも、愛するものも」
少し間を置いて、自嘲の色を含んだ青年の独り言のような声が聞こえた。
「一つだけわかったことならあるよ」
青年は再び闇の方を向く。
「そんなものは、俺が生きるためには邪魔なものでしかないとね」
最後のイラストは第二章から登場する人物なので、このプロローグの登場人物には関連していません。