子供の語る昔語り10
不規則な振動が近づいて来る事を感じた娘は振り返る。
すごい剣幕で駆けてくる男に身体を向け、待った。
男が息を切らし、真っ赤な顔でいるのは走ったことが原因だけではない。
大きく息を吸い込み、深く息を吐き出すという動作を何度か繰り返し、心を落ち着けてからようやく言葉を吐き出す。
「ベッドで寝てろ」
幾分か冷静になったのか、小さな声で命令する。
「必要ないわ。もう体に異常はないもの」
男の配慮は娘のことを心配しているからであるのだが、少々行き過ぎてもいた。
「あれから、もう一月。これ以上穀潰しになるのは嫌よ」
娘は山を降り、村で過ごしていた。
足を滑らせて岩山から落ちた後、娘は見慣れた部屋で目覚めた。
柔らかな炎の光が床を照らす中、ひんやりと冷たく素足を押し返す感覚。
視線を上げれば、揺れる揺り椅子とそこに腰掛ける誰か。
立ち止ろうとする足を叱咤し、歩みを進める。
幸せな夢を見ている、娘はそう思った。
立ち止ってしまえばその姿は霧に紛れ、消えてしまうように思えてならなかった。
フラフラと、揺り椅子の正面に辿り着き、いつかのように座り込む。
肘掛に掛けられた腕に手を伸ばし、温もりを確かめていく。
どうやら、男は深く眠っているようで肩を揺らしたくらいでは目覚めない。
不安に駆られた娘が頬に触れた所で男は瞼をあけた。
淡い空の瞳が娘を見返し、虚空をさまよい、再び娘へ戻って来る。
瞳に光が灯り、見開かれ、口が開く。
「 」
引き寄せられた身体に、娘が感じたのは吐息だけだった。
肩を押し返し、娘は男を見つめる。
その間も男の口から空気が漏れるばかりで、娘はようやく理解した。
自分の耳には男の声を拾う力がないのだと。
緩く首を振り、男の口を掌でふさいだ。
「聞こえないの」
それからの男の行動は早かった。
今まで山から下りようとしなかった娘を担ぎあげ、麓の村へ駆け下りたのである。
それ以来、娘は宛がわれた小屋を抜け出し、男に連れ戻されるという日々が続いていた。
今日も、手は草の汁で真っ青である。
どんなに泥や草まみれになろうとも男は必ず娘の手を取った。
「俺は、君に村に居て欲しいと思っているよ」
俯いたまま、手を引かれる娘は男の穏やかな声に耳を澄ませた。
娘は村にやってきて、医者の前に連れていかれた事を思い出す。
暴れるのを抑えつけられ、誰とも知らない者に手を伸ばされる恐怖は理由が分かった今でも拭えないままだ。
銅鑼の音を近くで聞きすぎた為にコマクとやらが破けたせいであるという。
苦い煎じ薬を飲み続け一月。
ようやく娘に音が戻り始めた。
男は回復し始めた耳を気遣い、家事どころか外に出る事も許さない。
「だから、話を聞いてほしい」
そういって足を止めた場所は、いつもの小屋ではなかった。
意志疎通ができるようになり、医者が近づくことを許しても、人の視線から逃げようと山の入り口に通い続けた。
遠巻きに見ている村人をどうしても好きなれなかったのである。
幸せそうに笑っていた家族を犠牲などという『不幸』にしてはならない。
そう思い続けているにもかかわらず、恨みを捨てる事が出来ず、穏やかな村を見ては犠牲になっている自身を哀れだと感じずにはいられなかった。
扉の先に見えたのは、そんな村人たちだった。
「どういうこと?」
いつの間にか立ち位置が変わり、背を押されるようにして娘は中に足を踏み入れた。