2話 裸足の乙女
さて、イベリスは、
「この先、どうなるのだ!?」と思ったのだけれど、案外、上手くいっている。
そしてアリアとフロースの試験は無事に終わり、授業は試験の結果が分かるまで休みになった。
普段の仕事に戻ったイベリスは、短期間でも緊張から解かれ、ほっとする。
彼は、アクィラがアリアを戴冠式まで留めたのは、単なる気まぐれだと思っていた。
そして、アリアはフロースの弟を好きだし、二人の間に何の恋愛感情がないのも明らかで心配していない。
また、フロースが婚約しているのも聞かされていた。
フロースが婚約していることは、イベリスを楽にさせている。
それは、もしフロースと事を起こせば帝国との問題に発展しかねないからで、
彼が王の助言者でいる限り、そんな不祥事は許されないのだ。
心配するのは自分の方かもしれないと思ったのだけれど、
これは自分だけの問題なので、「解決しやすい」と高を括っていた。
とにかくイベリスは、フロースに一目ぼれしたことなど誰にも知られたくない。
ましてや、アクィラに知られたら、とんでもないことになる。
アリアが会話を独占しているので、フロースは黙っていることが多く、素っ気無い素振りだ。
それは、彼に与えられた仕事を終了させ、二人を無事に帝国へ送り返す助けになっている。
イベリスは、自分のフロースへの思いは、風邪を引いたようなものだと思っていた。
そして陽が傾き始めた頃、イベリスは、執務室での仕事を終え、石の渡り廊下を歩いていた。
そこへ風が吹き、庭の散水機の水が、さーっと彼の前の石畳を濡らす。
イベリスは、その水の音に混じり、人の声を聞いたような気がして振り向いた。
すると、緑の木々の手前、小高く開けた芝生の上に、まるで二頭の白い蝶のようなものが、ひらひらと舞いながら、追いかけ追い越すように通り過ぎていく。
「フロースだ」とイベリスは思った。
次の瞬間、彼の中に強い衝動が起き、着ていたローブをベンチの上に脱ぎ捨て、それを追いかける。
二頭の蝶たちは、庭の奥、王妃の庭の方に向かっていた。
「試験の結果はどうでしょうね」
フロースは息を切らしながら立ち止まり、振り返ると言った。
彼女に追いついたアリアも息を弾ませ、
「せっかくいい気分なのに、勉強のことなんて思い出させないでよ」と文句を言う。
「まあ、姫様は『いい点が取れそう』とおっしゃっていたのに、結果が楽しみではないのですか?」
「それはそうね」とアリアは言って、ふふふっと笑った。
そして二人は、別の庭への門のようなものを見つける。
中を覗くと、それは巧みに計算された庭とは違い、木々が自由に枝を伸ばし、まるで秘境の森のようなのだ。
フロースは、自分が幼いころ走り回った森を思い出した。
ディフォーレスト家の森も良く管理されている。
この庭も、自然のまま、野放しにされているようなのに、きちんと管理されているのが分かる。
二人はその門から中を覗き、この不思議な庭に入るのを躊躇していた。
「案内しましょうか?」
二人は、後ろから聞こえたその声に振り返る。そこに立っていたのはイベリスだった。
「まあ、イベリス。驚いたわ。
どうしたの? こんなところで」
「お二人が、この庭の方に向かっているのを見かけたのです」
「では、お願いします」とアリアが嬉しそうに答える。
フロースは、しばらくイベリスに会っていなかったので、どうしているのだろうと思っていた。
ところが、実際に、彼がこうして目の前に現れると、胸の動機を感じ、顔が熱り始める。
それで、うつむいてアリアの後ろ隠れ、二人の後に続いて歩き、イベリスの説明を聞くことにした。
「とても素敵な庭ね。かなり雰囲気が違うようだけれど」とアリアが言った。
木々や植物がうっそうと茂っているようなのに密集しておらず、空間は開いて、風がよく通っている。
「これは亡くなられたシャルム王が、ハダサ様のために特別に作らせたもので、王妃の庭と呼ばれています」
とイベリスが答える。
奥へ進むと、木々の間から、大小の石で囲まれた小さな池が見えてきた。
それは、小川から流れてきた水を留め、再び小川へと流れいき、石の間には様々な種類の植物が植えられている。
アリアとフロースは平たい石の上に乗ると、その美しさに敬意を示すかのように跪き、水面に垂れた細い葉をかき分けて池の中を覗いた。
池の水は、きれいに澄んだ青から深い青緑へと変わっていき、底が見えない。
静かに眺めていると、周りの音は止まり、時間までが止まったかのようで、ふっと吸い込まれそうになる。
二人は、水面を触ってみる。
その水は冷たく、二つの波紋が交じり合い、ゆっくりと広がっていく。
風が吹いてその波紋を打ち、さざなみが立ち、周りの草花をも揺らすと、急に音が戻り、現実に戻されたような気がした。
アリアが立とうとすると、彼女の靴が岩と岩の間に挟まり、かかとが取れてしまった。
それで靴を脱ぎ、芝生の上へと歩き出し、振り返って言った。
「フロースも靴を脱いでごらんなさいよ。とても気持ちがいいわ」
フロースも裸足になって駆け出す。
スカートの下で、彼女の白い足が伸び、かかとはピンク色をしている。
それが、ふっとイベリスの前を横切り、緑の草の中へと消えていった。
裸足の乙女たちは、笑い声を立て、ひとしきり草の感触を味わう。
それからフロースは、息を切らしながら戻ってくると、そこにしゃがんだ。
彼女の軽いスカートが、ふわりと広がり、咲いている花々の中に埋もれて行く。
フロースは、細い二の腕からその先に伸びた両手で、小さな花の束をまるく包み込んだ。
アリアが彼女に近付き、覗き込んで何かを言っている。
イベリスには彼女らの会話は聞こえず、自分はそこにいるのに、同じ空間を共有しているようには思えない。
彼は、フロースがいつも目をそらしたりうつむいたりするので、
自分のことなど気にしていないと思っていた。
夕日が緑の芝生を金色に照らし、長くなった木々の影が模様を作り出している。
その中を、アリアは靴を持ち、三人は並んで歩き、自分たちの影を追うように戻り始める。
「お后様は、悲しんでおいででしょうね。どうしておられるのかしら」
アリアが、王妃の庭を思いながら言った。
「ハダサ様は喪に服しておられて、この先の棟にいらっしゃいます」
イベリスが、その方へ顔を向けると、アリアの隣にいるフロースと目が合った。
「お会い出来るかしら」
アリアが言うと、イベリスはアリアを見て答える。
「女性でしたら大丈夫です。面会を取り計らいましょう」
アリアは、イベリスの心に秘められたような静けさがあるのを感じ、それに誘われるかのように聞いた。
「イベリス、あなたは、国王に忠実に仕えてらしたのね。
賢者の仕事は自分で選んだのですか?」
「わたしは、生まれた時から賢者の仕事をするように定められていました」
「生まれた時から? あなたのご両親がそのように定めたのですか?」
「そうです」
「そのことを疑問に思ったことはありませんか?」
「疑問ですか?」
イベリスは聞き返す。
「自分で生き方を選ぶ自由についてです」
するとイベリスは、少し躊躇した後、
「もちろん、わたしには自由があります」と答えた。
「賢者に制約はないので、続けるのも止めるのも自由です。
王の助言者は、どちらかが死ぬまで続きますが、わたしは、喜んでシャルム王に仕えることを選びました。
今、国王は亡くなられたので、再び、私にはその選択の自由があります」
「では、あなたは、アクィラ殿下が国王となられた時に、やはり彼の助言者として仕えるのでしょう?」
「いいえ」と、イベリスは即座に答えた。
その時、フロースの足は止まり、彼を見る。
「戴冠式の後、わたしは、この地を去ることにしています」
イベリスもフロースを見て、彼女に答えるかのように言った。