第六十四話 返事が来るまで何度も画面を見そうになったので、待つ側にも待っている間の生活が必要だと分かりました
美咲へ最初のメッセージを送った翌朝、ノルンは目を覚ますと、昨日までとは違う動作をほとんど無意識にしていた。
寝台から起き上がり、身支度へ向かうより先に、机の上へ視線を向ける。
そこには地球で買ったばかりのスマートフォンが置いてある。昨夜は通知音を切り、睡眠の邪魔にならない場所へ置いたはずなのに、起きた瞬間から「何か来ているかもしれない」という意識だけはしっかり残っていたらしい。
「……確認するだけです」
誰にともなく言い訳をしてから、ノルンは端末を手に取った。
画面を点ける。
時刻。
天気表示。
初期設定関連の通知が二件。
そして、メッセージアプリの新着表示はない。
「まだですね」
ほんの少しだけ胸の奥が沈んだ。
その反応に自分で気づいた瞬間、ノルンはしばらく画面を見つめた。
美咲へ送ったのは昨夜である。
しかも久しぶりの連絡だった。
すぐ返事が来る保証など、最初からない。
美咲には美咲の生活がある。
寝ていたかもしれない。
仕事や家の用事があるかもしれない。
気づいていても、今返す気分ではないかもしれない。
それなのに、自分は起きた瞬間に返事を確認している。
「……なるほど」
小さく呟いた。
昨夜、自分は「待っていることを相手へ毎分送らない」と主様と笑った。
しかし、相手へ伝えなければそれで終わりではないらしい。
待つ側には、待つ側の時間がある。
そして、その時間をどう過ごすかも別の問題だった。
ノルンはスマートフォンを机へ戻した。
「朝食が先です」
わざわざ声に出してから部屋を出た。
◇◇◇
中央管理室へ着くと、主様はすでに朝の記録を開いていた。
「おはよう」
「おはようございます」
ノルンが自席へ向かうより先に、主様が少しだけ目を細める。
「返事来た?」
「なぜ最初にそれを聞くのですか!」
「顔に出てた」
「出ておりません」
「じゃあ来た?」
「……まだです」
主様は笑わなかった。
代わりに、自分の記録を開く。
「七時間五十二分。途中覚醒なし、朝食済み、体調問題なし」
「二十九日連続ですね」
「明日で三十日」
「気が早いです」
「ノルンは?」
「七時間三十八分。朝食済み、体調問題なしです」
「夜中にスマホ見た?」
「見ておりません」
「朝は?」
ノルンは少し黙る。
「……一度だけ」
「新着?」
「ありませんでした」
「残念だった?」
問い方は軽かった。
しかしノルンは、少し考えてから答える。
「少しだけ」
「うん」
「でも、それを美咲へ伝えようとは思いません」
「『まだ返事ないですね』って?」
「絶対に送りません!」
ノルンはむっとしながら管理卓を開いた。
主様は楽しそうに笑っている。
「でもさ」
「何ですか」
「昨日は、待ってる気持ちを相手に渡さないって話だったでしょ」
「はい」
「今日は、渡さない待ち時間を自分がどう過ごすかの話になりそうだね」
ノルンの手が止まった。
「……まだ朝です」
「うん」
「勝手に今日の結論を決めないでください」
「ノルンが言うようになった」
「誰のせいですか!」
いつものやり取りをしながらも、主様の言葉は胸の隅に残った。
待っていると伝えない。
それは相手を急かさないための選択になる。
でも、待つ側が四六時中相手の返事ばかり気にしていれば、その人自身の生活が止まる。
それも、本来望んでいる形ではない。
「まず通常観察です」
「うん」
「スマートフォンは昼まで見ません」
主様がすぐこちらを見る。
「ルール化?」
「自分用です!」
「昨日、自分にだけ細かいって言ったのに」
「必要なのです!」
◇◇◇
朝の通常観察は、ミレイアから始めた。
初回一言接続からすでに数日が経ち、接続直後に必要だった細かな状態確認は減っている。
エリスから届いた朝報告には、睡眠、食事、身体状態、日常活動の四項目が簡潔に記されていた。
『睡眠良好』
『朝食通常量』
『頭痛・めまい・呼吸苦・手指振戦なし』
『午前は屋敷内の通常予定を希望』
追加で、
『ルーク関連の自発発言なし』
とある。
ノルンはそこで止めた。
「今日は何も話してない」
主様が言う。
「はい」
「気持ちがなくなった?」
「分かりません」
「考えてない?」
「それも分かりません」
「じゃあ記録は?」
「自発発言なし、です」
以前なら、「安定した」「気にしなくなった」と解釈を足していたかもしれない。
でも、話さなかったことと、感じていないことは同じではない。
それ以上は書かない。
ルーク側も大きな異常はなかった。
名称接続状態安定。
怖さ二。
位置感覚なし。
世界側への接触要求なし。
「ごめん」を思い出すことはあるが、昨日と同じく急いで届けたい焦りは出ていない。
そして、昨日質問を出した保留者。
担当観察官からの記録はさらに短かった。
『睡眠・食事問題なし』
『本人、「今日は普通に過ごしたい」と申告』
『ルーク関連確認なし』
『面会意思:保留継続』
ノルンは少し微笑んだ。
「今日は普通に過ごしたい」
「うん」
「それを言えるのは大事ですね」
「進展?」
主様がまた少し意地悪そうに聞く。
「今日の希望です」
「覚えてた」
「昨日答えたばかりです!」
ノルンは記録を閉じる。
質問があった日。
答えを聞いた日。
何も考えたくない日。
同じ人でも、日によって違う。
その全部を一続きの「面会意思形成過程」として管理側が一本の線にしてしまうと、本人の普通の日が消えてしまう。
「今日も触れない?」
「本人がそう希望していますので」
「じゃあ触れない」
「はい」
◇◇◇
午前の通常観察が終わったあと、ノルンは予定表に確保していた一刻分を使い、旧管理領域最古層の記録へ戻った。
第六十三話で新しく立てた調査軸。
第一接続者が十三年近く待機した期間に、相手へ何を伝えていたのか。
管理側が「待つ」と決めたことと、「待っています」と本人へ伝えることは同じではない。
その区別を、古い記録でも確認する。
中央管理室の奥にある低照度の閲覧区画へ移動すると、周囲の光が少し落ちた。古い記録を読む際は、現在の管理表示と混同しないよう視界の情報量を減らしている。
薄い光板に、古い記録群が一つずつ浮かぶ。
『第一接続者経過記録』
『外在個体応答停止後・第一年』
『同・第三年』
『同・第七年』
『同・第十二年』
すべてが完全な形ではない。
欠落している部分もある。
複製時に文字が崩れた箇所も多い。
ノルンは検索語だけに頼らず、前後の文脈を一つずつ読む。
最初の一年。
『再接続要請を停止』
『観察のみ継続』
『名称呼びかけを禁ず』
『応答期待を示す文言を送らず』
ノルンの指が止まった。
「主様」
少し離れた席で別資料を読んでいた主様が顔を上げる。
「見つけた?」
「はい。ただしまだ一件です」
「何て?」
ノルンは該当箇所を共有する。
「『応答期待を示す文言を送らず』」
主様の表情が少し変わった。
「かなり近いね」
「はい」
「待ってるとは言わない」
「少なくとも、この時点では」
ノルンはすぐ結論へ飛ばない。
続きも読む。
第三年。
『外在個体からの自発接続なし』
『第一接続者、確認要求を提案せず』
『管理側、継続観察』
『次回接触時期を設定せず』
第七年。
『生活相当活動に変化なし』
『管理側からの再要請なし』
『第一接続者本人、接続再開希望を保持』
『当該希望、外在個体へ通知せず』
ノルンの呼吸が少し浅くなった。
「ありました」
「どれ?」
「『第一接続者本人、接続再開希望を保持。当該希望、外在個体へ通知せず』」
今度はかなり明確だった。
第一接続者は、再び接触したいと思っていた。
しかし、その気持ちを相手へ伝えなかった。
「理由は?」
「この記録にはありません」
「別資料かな」
「探します」
第十二年。
『待機継続』
『接続再開希望、変更なし』
『外在個体へ追加要求なし』
『自発応答がないことを拒否と同一視せず』
『ただし応答義務も設定せず』
ノルンはその一行一行を何度も読み返した。
待っていた。
会いたいとも思っていた。
でも、伝えなかった。
相手の沈黙を拒否と決めつけなかった。
同時に、「いつか返事をしなければならない」という義務も置かなかった。
「昨日までの話と」
「似てるね」
「はい」
主様が静かに言う。
「でも古い記録が正解だった、にはしない」
「もちろんです」
ノルンはすぐ頷いた。
第一接続者の相手が、今の保留者と同じ感じ方をしていたとは限らない。
状況も違う。
関係も違う。
十三年という時間も、現代の管理制度と同じ意味ではない。
ただ一つ。
古い制度の中にも、「接続したい気持ちを管理側が持っていても、それを相手へ渡さない」という考え方があった可能性はかなり高くなった。
「理由資料を探したいです」
「今日の一刻、もう終わるよ」
ノルンは時計を見る。
本当に、ほぼ時間だった。
「……あと少しだけ」
「昨日なんて言ってた?」
「一刻で終わらなくても続きは次回」
「うん」
「……」
ノルンは光板を見つめる。
今すぐ続けたい。
理由を知りたい。
なぜ第一接続者は伝えなかったのか。
相手を守るためだったのか。
単なる手続きだったのか。
過去に失敗があったのか。
「閉じます」
少し惜しそうに言い、記録を保存する。
「えらい」
「褒めないでください!」
「ルークならもっとって言うのに」
「私は言いません!」
閲覧区画を出ると、通常照明が少し眩しく感じた。
調査は途中。
分からないことも残った。
でも、予定した時間は使った。
続きはまたできる。
それでよい。
◇◇◇
昼食を終えたあと。
ノルンは休憩区画へ移動し、飲み物を手に取った。
机の端にはスマートフォンがある。
朝、自分で「昼までは見ない」と決めていた。
もう昼だ。
「見る?」
主様が少し離れた席から聞く。
「……見ます」
「緊張してる?」
「少しだけです」
端末を手に取る。
画面を点ける。
新しい通知が一件。
メッセージアプリ。
差出人。
『美咲』
ノルンの指が止まった。
「来た?」
「……来ました」
「読む?」
「当然です!」
声が少し大きくなってしまい、ノルンは軽く咳払いする。
メッセージを開く。
『久しぶり! ノルンから連絡来ると思ってなかったからびっくりした。私は元気だよ。スマホ持てたんだね。よかったじゃん!』
続けて、
『返事遅くなってごめん。昨日早く寝ちゃってて、朝もバタバタしてた』
ノルンはしばらく画面を見つめた。
返事は来た。
美咲は元気。
自分からの連絡に驚いた。
スマートフォンを持てたことを喜んでくれた。
そして、返事が遅くなったことを謝っている。
その最後の部分で、胸の中に別の感情が生まれた。
「……謝らなくていいのに」
小さく呟く。
主様がこちらを見る。
「何て?」
「返事が遅くなってごめん、と」
「ノルン、待ってたから?」
「でも、それは私側の事情です」
美咲は昨夜早く寝た。
朝は忙しかった。
それで今返した。
何も悪くない。
ノルンは返信欄を開き、少し考える。
『大丈夫です。返事はいつでも構いません』
そこまで打って、止まる。
なんとなく固い。
昨日の自分の最初のメッセージもかなり固かったが、返ってきた美咲の文面はずっと柔らかい。
「主様」
「うん?」
「『返信はいつでも構いません』は、仕事っぽいでしょうか」
「かなり」
「やはり」
「友達に業務連絡してるみたい」
「友達……」
その言葉に少しだけ照れたような感覚がある。
ノルンは一度消す。
今度は、
『全然大丈夫です。元気そうでよかったです。返事も急がなくて大丈夫ですよ』
と打った。
まだ少し固い。
でも最初よりはよい。
その下へ何を書くか。
今度会えるか。
何をしているか。
スマートフォンの使い方。
聞きたいことはいくつも浮かぶ。
ノルンはそこで一度指を止めた。
「全部送らない」
自分に言う。
「何聞く?」
主様が尋ねる。
「今日は」
少し考える。
「元気だと分かったので、それでいいかもしれません」
「会いたくない?」
「会いたいです」
「じゃあ言わない?」
「……」
ノルンは画面を見る。
昨日までなら、「今日は一つだけ」と決めて会う話まで出さなかったかもしれない。
けれど、今回は少し違う。
自分が伝えないことが、必ずしも相手の自由を広げるとは限らない。
美咲は自分からの連絡を喜んでくれた。
自分も会いたい。
それなら、「会いたい」という気持ちを隠す必要まではない。
問題は、それを予定の押しつけにしないことだ。
「会いたいことは、言ってもよいと思います」
「うん」
「でも日付候補を三つ送りません」
「ノルンならやりそう」
「しません!」
返信欄へ続きを打つ。
『今度、タイミングが合う時にまた会えたら嬉しいです。急ぎではないので、都合のいい時にでも。』
読み返す。
「……どうでしょう」
「いいんじゃない?」
「『急ぎではない』がまた仕事っぽい気も」
「ノルンっぽいからいいんじゃない」
「褒められている気がしません」
それでも、今の自分には自然だった。
送る。
今度は昨日ほど指が重くなかった。
メッセージが右側へ移動する。
返事はまだ来ない。
でも今度は、画面をそのまま見続けなかった。
端末を伏せる。
「見ないの?」
「午後の通常業務があります」
「返事来るかも」
「来ても、あとで読みます」
主様が少し笑う。
「朝より待つの上手くなった?」
「一日で評価しないでくださいませ」
「厳密」
◇◇◇
午後の観察業務中、ミレイア側から一件だけ自発報告が届いた。
緊急ではない。
エリス経由の短い記録だった。
『本人より、「今日はルークの声をほとんど思い出さなかった」と自発発言』
『本人、「忘れたわけじゃないけど、ずっと考えてない時間が増えた」と説明』
『本人、この変化について良い・悪いの評価を求めず』
『観察官側も評価せず受領』
ノルンはその記録に少し長く目を留めた。
「ずっと考えてない時間が増えた」
「うん」
主様が隣から見る。
「安心?」
「少し」
「意味づける?」
「しません」
ミレイアがルークを忘れ始めたわけではない。
関心が消えたとも限らない。
次回接続に近づいたとも遠ざかったとも言えない。
ただ、日常の中でルークを考えていない時間が増えた。
それだけ。
「待つ側だけじゃなく、聞いた側にも生活が戻ってる」
「そうですね」
「じゃあ今日の題材二つ」
「題材と言わないでください!」
ノルンはむっとしつつも、記録にはそのまま残した。
◇◇◇
ルークから名称接続要求が来たのは、午後の後半だった。
通常業務の区切りをつけてから開く。
「ルーク」
『いる』
「今の怖さは?」
『二』
「苦しさ、近い感覚、名称側の違和感は?」
『ない』
「今日はどうしましたか?」
光がゆっくり揺れる。
『何もない』
ノルンは少し目を瞬く。
「何もないのに接続しましたか?」
『うん』
「話したいことがある?」
『ない』
「では、どうして?」
しばらく間がある。
『ノルンいるかなって』
ノルンは手を止めた。
「確認したかった?」
『うん』
『いる?』
「います」
『うん』
光が落ち着く。
それだけで終わりそうな雰囲気だった。
ノルンはすぐ閉じず、少し考える。
「ルーク」
『何』
「今、私がいるか確認したかったのは、不安だったからですか?」
『少し』
「何について?」
光が揺れる。
『何も起きてない』
「はい」
『だから』
言葉が遅い。
『僕、何もしてない』
「はい」
『ミレイアも』
少し間。
『他の人も』
「はい」
『何もない日』
ノルンは静かに待つ。
『前は』
『何もないと』
『僕忘れられる気した』
胸の奥に少し重いものが落ちる。
約二十五年。
ルークは一方的に見続けていた。
自分から近づかない。
名前を使わない。
探さない。
相手が望まない限り接続しない。
そんな時間の中で、「何も起きない」は安心だけではなかったのかもしれない。
「今もそう思いますか?」
『少し』
「だから私がいるか確認した」
『うん』
ノルンはここで、すぐ「大丈夫、忘れていません」と安心を与え続けることがよいのか考えた。
毎回不安になるたびに接続し、管理側が「忘れていない」と言う。
それが習慣になれば、以前の再試験と同じように安心確認の反復になる可能性がある。
「ルーク」
『うん』
「今日は私がここにいることは確認できました」
『うん』
「でも、今後毎回『忘れていない』と確認するために接続する形にはしない方がよいと思います」
光が少し弱くなる。
『嫌?』
「嫌ではありません」
『じゃあ何で』
「ルークが安心するために、管理側から毎回同じ確認を受け取らないと過ごせなくなる可能性があるからです」
『……』
「以前、停止試験を毎日すると、『今日も止められる』を毎日確認したくなるかもしれないと話しましたね」
『うん』
「少し似ています」
ルークはしばらく黙る。
『じゃあ』
『何もない日は』
「何もなくても、あなたの記録は消えません」
『うん』
「私達が忘れたという意味にもなりません」
『うん』
「でも、そのことを毎日証明するための接続は作らない」
光が揺れる。
『怖い』
「はい」
『少し』
「その怖さは言ってよいです」
『でも確認しない』
「毎回は、です」
『今日した』
「今日はしました」
『次は?』
ノルンはすぐ「しない」と固定しなかった。
「その時の状態と理由で考えます」
『決まってない』
「はい」
ルークはしばらく考える。
『何もない日』
「はい」
『僕何する?』
ノルンは少しだけ笑った。
「ルーク自身が過ごすのです」
『どうやって』
「それを全部私が決めるのも違います」
『難しい』
「そうですね」
ルークにとって「自分の生活」という概念は、人間とは違う。
食事も睡眠も、少なくとも同じ形ではない。
それでも、観察と接続だけが存在のすべてではないはずだ。
「接続していない時、何をしていますか?」
初めて少し違う角度から聞く。
『見る』
「九人を?」
『前は』
「今は?」
『見ない時間ある』
「その時は?」
光がゆっくり揺れる。
『考える』
「何を?」
『いろいろ』
「例えば?」
『声』
「ミレイア様の?」
『僕の』
ノルンは少し驚く。
『どう聞こえたか』
「自分の声を考える」
『うん』
『あと』
少し間。
『昔のこと』
「はい」
『あと』
光が少し明るくなる。
『ノルンに褒められた数』
「それは数えなくて結構です!」
『覚えてる』
「忘れてくださいませ!」
光が大きく揺れる。
ノルンもつい笑ってしまった。
しかし、その中に大事なものがある。
ルークにも、「待つ以外の時間」が少しずつ生まれている。
九人を見続けること。
次の接続を待つこと。
それだけではない。
自分の声を考える。
過去を考える。
くだらない褒め数を覚える。
そういう時間がある。
「ルーク」
『うん』
「何もない日は、何もないままでもいいのかもしれません」
『いい?』
「少なくとも、毎日何かを進める必要はありません」
『僕も?』
「はい」
『ノルンも?』
ノルンは一瞬止まる。
「……はい」
『スマホ』
「なぜ知っているのですか!?」
『主様言った』
ノルンは勢いよく主様を見る。
少し離れた席で、主様が目を逸らした。
「主様!」
「秘密って言われてなかったから」
「勝手に話さないでくださいませ!」
ルークの光が楽しそうに揺れる。
『ノルン返事待つ?』
「……待っています」
『怖い?』
「少しだけ」
『僕と同じ』
「全部一緒ではありません!」
『でも待つ』
「はい」
『何もない時間ある』
「あります」
『ノルンも待てる?』
今度はノルンが少し黙った。
「はい」
朝は何度も画面を見たくなった。
昼まで待った。
返事が来た。
そしてまた次の返事を待っている。
「待てます」
『じゃあ僕も』
淡い光が静かに揺れた。
『やる』
「何を?」
『何もない時間』
「……頑張るものではないのですが」
『でもやる』
「では、頑張りすぎないでください」
『褒める?』
「今日は、『何も起きていないと忘れられる気がする』と自分の不安を言えたことを褒めます」
『一つ』
「そして、毎回確認を求める以外の過ごし方も考えてみようとしたこと」
『二つ』
『あと』
「ありません」
『スマホ待ててるノルンも褒める』
ノルンは言葉を失った。
「……私が褒められるのですか」
『うん』
『一つ』
主様が向こうで吹き出した。
「笑わないでくださいませ!」
『ノルン一つ』
「分かりましたから!」
ルークとの接続は、その笑いを残したまま安全に閉じられた。
◇◇◇
夜。
ノルンは一日の記録を整理していた。
ミレイア。
身体・生活状態安定。
ルークを考えない時間が増加。
本人発言。
『忘れたわけじゃないけど、ずっと考えてない時間が増えた』
変化への評価は本人も求めず、観察側も行わない。
次回接続意思未確認。
保留者。
通常生活継続。
「今日は普通に過ごしたい」を維持。
ルーク関連質問なし。
面会意思保留継続。
ルーク。
怖さ二。
緊急異常なし。
「何も起きていない日」に、自分が忘れられるような不安を感じ、ノルンの存在確認目的で名称接続。
管理側が毎回同一の安心確認を返すことは、安心確認行動の反復になり得ると説明。
本人、不安は残るが理解。
「何もない日」に何をするかを考え始める。
接続・観察以外にも、自分の声、過去、管理側とのやり取りなどを考えて過ごす時間があると判明。
「毎日何かを進めなくてもよい」という考えを、自分にも適用し始める。
旧管理領域。
第一接続者の待機期間記録から新しい重要記述を確認。
『応答期待を示す文言を送らず』
『第一接続者本人、接続再開希望を保持』
『当該希望、外在個体へ通知せず』
『次回接触時期を設定せず』
『自発応答がないことを拒否と同一視せず』
『ただし応答義務も設定せず』
これにより、古い制度でも「待つ側が接続再開を望んでいても、その希望を相手へ渡さない」運用が存在した可能性が高まった。
ただし理由は未確認。
今後、関連資料を追加調査。
現行制度へ即時適用せず、現場事例との比較材料として保持。
そして自分。
『美咲から返信あり』
『元気であることを確認』
『返信遅延を美咲側が謝罪』
『ノルン側から、返信を急がなくてよいことを伝達』
『今後タイミングが合えば会いたい旨を送信』
『具体日程は未設定』
『次の返信待機中』
そこまで書いて、ノルンは手を止めた。
「自分のメッセージまで記録するんだ」
主様がまた覗き込む。
「全部ではありません」
「内容かなり書いてる」
「今後の地球側予定に関わりますから!」
「返信待機中」
「……そこは消しましょうか」
「なんで?」
「少し恥ずかしいです」
「でも事実」
「主様、そういう時だけ記録原則を使わないでくださいませ」
ノルンは結局、その一行を消さなかった。
待っている。
それは事実だ。
でも、だからといって美咲へ何度も送るわけではない。
スマートフォンをずっと握っている必要もない。
ノルンは端末を開く。
新着はまだない。
朝とは違い、胸が大きく沈むことはなかった。
「まだですね」
「うん」
「でも今日は、もう見ません」
「寝るまで?」
「はい」
「来たら?」
「明日読みます」
主様が少しだけ笑う。
「美咲、怒らないかな」
ノルンはすぐ答えた。
「明日読むくらいで怒る方ではないと思います」
「信じてる」
「はい」
言ったあと、その言葉が少し温かく感じた。
返事を急がせないということは、相手の時間を信じることでもある。
そして待つ側にも、自分の時間が必要だ。
画面を見つめ続けない。
接続要求を繰り返さない。
何も起きない日を「何も進んでいない失敗の日」にしない。
それはミレイアにも。
保留している人にも。
ルークにも。
そしてノルン自身にも当てはまる。
「主様」
「何?」
「今日見つけた第一接続者の記録」
「うん」
「『応答義務を設定せず』という部分が、少し気になります」
「どうして?」
「待つ側が、待つと決めるのは自由です」
「うん」
「でも、その時間が長くなるほど『これだけ待ったのだから、いつか返事が来るはずだ』という感覚へ変わる可能性があります」
「あるね」
「第一接続者は十三年待った」
「うん」
「それでも、応答義務を置かなかった」
ノルンは少し考える。
「そこに、何か理由があったのかもしれません」
「明日調べる?」
「予定した調査時間で」
「全部?」
「読みません!」
主様が笑う。
ノルンも少し笑った。
そのあと、今日の現場メモへ最後の一行を追加する。
『待つ側が気持ちを相手へ渡さないだけでは不十分な場合がある。待機中に自分の生活・役割・時間を維持し、待った長さを相手の応答義務へ変換しないことも必要』
文字を見つめる。
これはまだ基本規則ではない。
理由資料でもない。
今日見えた一つの考えだ。
今後、古い記録と現場で確かめる。
すぐ正解にはしない。
管理領域の照明が、夜用の穏やかな明るさへ落ちていく。
ミレイアは今日、ルークを考えない時間が増えた。
保留者は、普通に過ごす日を選んだ。
ルークは、何も起きない日に忘れられるのではないかという不安を初めて言葉にした。
第一接続者は、十三年近く再接続を望みながら、その希望を相手へ通知しなかった記録が見つかった。
ノルンは、美咲から一度返事を受け取り、また次の返事を待っている。
誰も今日、大きな答えを出していない。
それでも、それぞれの待つ時間の中には生活があった。
考えない時間。
本を読む時間。
普通に過ごす時間。
自分の声について考える時間。
古い記録を一刻だけ読む時間。
そして、返事が来ていないスマートフォンを机へ置いたまま眠る時間。
待つという行為は、相手だけを見続けることではない。
相手が自分の時間で選ぶあいだ、待つ側も自分の時間を生きること。
その二つが同時に存在して初めて、「待つ」は相手へ渡す重荷ではなくなるのかもしれない。
ノルンはスマートフォンを伏せたまま、今日の記録を閉じた。
返事は、明日でもいい。
来なければ、さらにその先でもいい。
少なくとも今夜は、画面の向こうにいる誰かを待つためだけの夜にしなくてもよかった。




