第百三十六話 一人と呼ぶための条件
翌朝、管理室へ入ったノルンは、窓際へ鞄を置く前に一度だけ外を見た。昨日まで地面に残っていた雨の名残はほとんど乾いており、施設の中庭では朝の光を受けた木々の影が、風に合わせて石畳の上をゆっくり揺れている。
端末を起動して夜間の記録を確認すると、現在追跡している低強度の識別不能反応に新しい通知対象事象はなかった。観測密度を変更する必要も生じておらず、夜勤担当者から特別な申し送りも届いていないため、ノルンは現在側の記録を閉じて通常業務へ移った。
「今日は先に読まないんだ」
少し遅れて入ってきた主様が、ノルンの画面を横から覗き込んだ。昨日の最後に残した歴史資料を、朝一番で開くと思っていたらしい。
「読みたい資料があることと、最初に読む必要があることは別です。午前の確認を終えてからにします」
「昨日、結構気になってたよね。『個体』って言葉がまた出てくるやつ」
「気になっています。ただ、気になるから順番を変えるのであれば、私は今頃かなり多くの業務を後回しにしています」
ノルンが淡々と答えると、主様は納得したような、少し面白くなさそうな顔で自分の席へ向かった。その背中を見送りながら、ノルンは小さく笑って通常業務の一覧へ視線を戻した。
◇
午前の生活記録には、ルークの鳥類図鑑について短い追記があった。
昨日と同じく果物の本と鳥類図鑑を並べて読んでおり、どちらか一方へ興味が移ったわけではない。職員から「昨日見た鳥は分かった?」と尋ねられると、ルークは少し考えてから三種類の候補を示し、「まだ分かんない」と答えたらしい。
その後、自分から窓の外を確認したものの鳥は見つからず、すぐに図鑑へ戻ったと記録されている。
『本人発言:「次に来たら、しっぽとお腹見る。忘れたらまた本見る」』
最後の一文を読んだ主様が、少し離れた席から笑った。
「ちゃんと覚えてた」
「昨日、自分で決めたことですからね」
「でも鳥、待ってるわけじゃないんだ」
「少なくとも記録上はそうですね。見つからなかった後も、窓の前に残り続けた様子はありません」
見たいものが来なければ、別のことをする。忘れたなら、また本を開けばいい。
ルーク自身にとっては、ごく普通のことなのだろう。
ノルンはそれ以上の意味を付けず、記録を閉じた。
◇
セレナから昨日の小規模試験について補足が届いたのは、午前の業務が一段落した頃だった。
変更箇所を示す表示について、昨日参加した六人のうち二人へ追加確認を行ったという。どちらも、変更印がない項目を「永久に変わらない情報」とは理解していなかった一方、一人は「今回の更新で内容変更なし」と「記録自体が更新されていない」を区別していなかった。
セレナは試験用画面へ、
『内容変更あり』
『内容変更なし・確認時刻更新』
という二種類の表示を追加した案を作っていた。
「増えましたね」
ノルンが言うと、向かい側へ座ったセレナは露骨に眉を寄せた。
「言わないで。私も分かってるから」
「昨日より二文字や三文字増えたという話ではありません」
「もっと嫌な言い方になった」
セレナは苦笑しながら端末をノルンの方へ滑らせた。画面上では、変更された項目だけが強く目立つのではなく、更新された情報と内容そのものの変化を分けて確認できるようになっている。
「でも、全部を毎回読み直させるよりはいいと思うんだよね。変わったところを見つけられて、必要なら理由へ行ける。変わってないところは、変わってないって分かる」
「私も方向としてはよいと思います。ただ、『内容変更なし』を『今後も変化しない』と読む人がいないかは確認したいですね」
「そこは次の試験で聞く。あと、表示が増えたせいで逆に見なくなる人がいないかも」
セレナはそこまで言ってから、昨日より少しだけ満足そうに画面を見た。
「前なら、全員が詳細を開かなかったら失敗って思ってたかもしれない」
「今は?」
「必要なところに行けるなら、それでいい。開く必要がない人まで開かせるのは、仕事増やしてるだけかもしれないし」
ノルンは頷いた。
情報を増やせば正確になるとは限らない。減らせば分かりやすくなるとも限らない。
必要な判断に必要な情報が届くこと。
そして、必要になったとき、より詳しい情報へ進めること。
セレナが自分の言葉でそこを説明できるようになったことを、ノルンは余計な評価に変えず、そのまま受け取った。
「次の試験結果が出たら見せてください」
「もちろん。たぶんまた増えるけど」
「増やす前に減らせる場所も探してください」
「それ、私に一番効くやつ」
セレナは肩を落としながらも笑っていた。
◇
昼前になり、ノルンはようやく歴史資料の一覧を開いた。
昨日最後に残した文書名が、未読表示のまま画面中央に残っている。
『外在反応長期追跡対象・個体単位整理案』
作成時期は、長期追跡識別子の固定化による影響が調査された後だった。
ノルンは題名を選択する前に、関連資料の並びを確認した。前段には識別子固定化影響調査、追跡単位呼称規則、発生源モデルの試験運用資料があり、後段には『外在反応主体仮説の適用条件』と『長期特徴追跡群に対する識別呼称導入検討』が続いている。
「順番、ちゃんとつながってるね」
いつの間にか隣へ来ていた主様が言った。
「少なくとも文書作成時期としては、そうですね。ただし、後の資料が前の資料だけを理由に作られたとは限りません」
「先に釘刺された」
「昨日、主様が『どうやって第七外在個体になるんだろう』とおっしゃったので」
「まだ言ってないのに」
「言いそうでした」
「僕への理解が進みすぎてない?」
主様が複雑そうな顔をしたが、ノルンは資料を開いた。
◇
冒頭に書かれていた目的は、題名から受ける印象より慎重だった。
『本整理案は、外在反応を個体として認定するための基準策定を目的としない。』
『長期追跡において、管理上同一の追跡対象として扱う必要が生じた場合に、何を単位として記録・比較・引継ぎするかを整理するものである。』
『「対象」「個体」の語は検討用語として使用する。採用を意味しない。』
ノルンはそこで一度止まった。
「最初から書いてある」
「昨日、不採用になってた言葉をまた検討するけど、採用したわけじゃないってことですね」
「じゃあ『個体単位整理案』ってタイトルだけ見て、『ここで個体になった』は駄目なんだ」
「はい」
資料の背景には、長期特徴追跡群が増えたことで生じた実務上の問題が列挙されていた。
ある追跡群では、構成記録が増減しても比較目的が変わらない。
別の追跡群では、複数の比較集合と重なりながら、一部の特徴だけが長期間残る。
さらに別の追跡群では、異なる観測条件をまたいでも共通する特徴候補が存在するものの、それが発生源に由来するのか、環境に由来するのか、観測系に由来するのか判断できない。
R-7は、その中の一例として挙げられていた。
『長期特徴追跡群R-7:複数時期にわたり一部共通特徴を維持。ただし構成記録可変。同一発生源性、主体性、個体性はいずれも未確認。』
「昨日と変わってない」
「はい。ここまでに新しい存在確認はありません」
◇
整理案では、最初に五種類の『同じ』を分けていた。
『記録上同一』
同じ記録番号を参照していること。
『比較上同一』
同じ比較集合や追跡群の中で扱われること。
『特徴上の継続性』
複数記録に共通または近似する特徴が、一定期間を越えて観測されること。
『発生条件上の継続性』
同一または限定された発生条件群によって説明できる可能性があること。
『発生源上の同一性』
複数記録が同一の発生源に由来すると判断できること。
さらに、その下に別枠で、
『主体上の同一性』
『個体上の同一性』
が置かれている。
主体上の同一性とは、反応の背後に意図的な行為主体が存在し、複数の反応が同じ主体から生じたと評価できること。
個体上の同一性とは、複数の観測記録が同一の個体的存在へ帰属すると評価できること。
どちらも、特徴が似ているだけでは成立しない。
「発生源と主体と個体も別なんだ」
主様が資料の図を指で追う。
「はい。たとえば同じ装置から複数回反応が出たなら、発生源は同じでも主体とは限りません」
「環境でも?」
「同じ場所の同じ現象なら、発生条件の継続性はあっても、発生源を一つと呼べるかは定義次第でしょう。だから、この資料では段階を分けています」
「じゃあ人だったら?」
「人だと確認できれば個体性の議論へ進めますが、外在反応ではそこまで確認できていないものが多い、という前提ですね」
資料には、矢印で段階が描かれていた。
特徴が似ている。
長く続いている。
発生条件が似ている。
同じ発生源かもしれない。
主体があるかもしれない。
同じ主体かもしれない。
一個体かもしれない。
しかし、その矢印の間にはすべて、
『自動移行不可』
と記されている。
「すごい止めてる」
「止める必要があったのでしょう」
◇
次の節には、なぜ『個体単位』が求められたのかが記されていた。
生活支援部門では、将来もし外在側との接触が成立した場合、過去の反応履歴をどこまで同じ対象の履歴として提示してよいのかという問題があった。
安全部門では、過去の高強度反応と現在の低強度反応が同じ発生源に由来する可能性を、緊急判断でどう扱うかという問題がある。
記録部門では、数年分の追跡群を引き継ぐ際、構成記録が変化し続けるため、『何を継続して追っているのか』を一文で説明しにくい。
研究部門では、それらの実務上の要求に応えつつ、未確認の個体を作り出してはいけない。
「みんな欲しいものが違うね」
「はい。生活支援では相手へ何を伝えてよいか、安全ではどこまで関連情報として扱うか、記録では引き継ぎ、研究では推論の境界です」
「じゃあ『個体番号つけよう』って人が雑だったわけじゃないんだ」
「少なくとも資料を見る限り、単純に雑だったとは言えません」
必要があった。
何年にもわたる記録を扱うなら、どこかでまとまりを作らなければならない。
けれど、そのまとまりへ『個体』と書けば、まだ確認されていない一人を制度が先に作ってしまう。
◇
第一案は、
『個体追跡候補単位』
だった。
定義は、
『同一個体である可能性を検討するため、長期的に比較を継続する記録単位』
となっている。
条件案として、
一、複数年にわたり共通特徴候補が確認される。
二、単一の観測条件だけでは説明できない。
三、明確に別発生源と判断される矛盾がない。
四、少なくとも二種類以上の変換条件で一部特徴が維持される。
五、追跡を継続する実務上の必要がある。
が並んでいた。
「これ、かなり一人っぽい」
「だから試験されたのでしょう」
理解試験では、二十人へこの名称と定義だけを見せている。
十二人が『同一個体の可能性が一定以上高いもの』と解釈。
四人が『個体かどうかを調べるための比較単位』と回答。
三人が『一人か複数かはまだ不明』。
一人は『個体という言葉があるので、個体であること自体は確認済み』と回答した。
「駄目じゃん」
「かなり強く誘導していますね」
資料の評価も同じだった。
『名称自体が評価結果を先取りする。』
『条件を満たすことが個体性の支持度上昇と誤読される。』
『実務上の追跡必要性を、存在論的な単一性の証拠へ混入させている。』
第一案は不採用になった。
◇
第二案では『個体』を外し、
『長期発生源候補単位』
へ変更された。
ところが、こちらも問題があった。
発生源が一つであること自体、確認されていない記録群へ『発生源候補』と書けば、複数源や環境要因、観測系要因が後景へ退く。
R-7について行われた試験では、参加者の多くが『一つの発生源候補を追っている』と読んだ。
実際のR-7は、単一発生源仮説だけを追うための群ではない。
複数の説明可能性を比較し続けるための群である。
「じゃあこれも駄目」
「はい。不採用です」
「名前決まらないね」
「名前を決めること自体が目的ではありませんから」
「でも仕事する人は困る」
「そこが難しいのでしょう」
◇
第三案は、少し違っていた。
『長期追跡対象候補』
個体とも発生源とも書かない。
ただし『対象』という語は残す。
定義には、
『管理上、複数時期にまたがって関連記録を継続参照する必要がある記録集合または仮説単位』
と書かれている。
ここでは、対象が実在する一つの存在である必要はない。
記録集合でもよい。
仮説単位でもよい。
しかし理解試験では、『対象』を外在側の何者かと読む参加者が少なくなかった。
特に生活支援部門では、
『将来接触する可能性がある相手』
という意味へ寄せて読む傾向が見られた。
「仕事によって『対象』の意味が違うんだ」
「生活支援で対象と言えば、人を想定しやすいでしょうからね」
「研究の対象なら、記録でも現象でもいい」
「はい。同じ言葉でも職務によって初期解釈が変わっています」
第三案も正式採用には至らなかった。
◇
そこで整理案は、名称を決める前に『個体性を検討してよい条件』そのものを別文書へ切り離すことを提案していた。
その文書が、関連資料一覧に残っていた、
『外在反応主体仮説の適用条件』
だった。
「こっちにつながるんだ」
主様が言う。
「個体って呼ぶ前に、そもそも主体があると考えてよい条件を整理する必要が出たのでしょう」
「声っぽかったら主体?」
「いいえ」
「繰り返してたら?」
「それだけでは足りません」
「反応が返ってきたら?」
「何に対する反応か確認できなければ、応答とは言えません」
「厳しい」
「必要な区別です」
主様は少し笑った。
「今の三件にもそのまま使える?」
ノルンはすぐには答えず、現在の観測記録を思い返した。
二件目と三件目には反復構造候補がある。
複数の過去短時間反応と部分的特徴類似がある。
だが発生源も対象も意味も意図も未確認で、音声や言語として扱える根拠もない。
「考え方として参考にはできます。ただし、この歴史資料の条件を現在の三件へ機械的に適用するつもりはありません。観測条件も資料の目的も違う可能性がありますから」
「歴史を読んだから、今のやつも誰かだって思わない?」
「思わないようにする、ではなく、そう判断できる証拠がありません」
ノルンが答えると、主様は満足そうに頷いた。
◇
整理案の後半には、R-7を使った具体例があった。
『R-7について、個体性評価へ進むべきか』
当時の記録では、結論は、
『進まない』
だった。
理由は複数ある。
一部の特徴が長期間維持されていることは確認されている。
複数の変換条件をまたいで残る低次特徴候補もある。
しかし、同じ特徴を生み得る観測系要因が十分排除されていない。
発生条件が一つなのか、限定された複数条件なのか判断できない。
構成記録には持続時間や強度、終了部の形状に不一致がある。
知覚変換後の印象も一貫しない。
そして何より、
『同一発生源性の支持に必要な独立特徴が不足』
とされていた。
「独立特徴?」
「同じ原因からまとめて生じる特徴ばかりを数えても、証拠が増えたことにはならない、という意味だと思います」
詳細には例があった。
開始部の立ち上がりと直後の強度変化が、同じ変換処理の影響を受けるなら、それらを二つの独立した一致として数えてはいけない。
反復間隔と持続時間が同じ発生条件に依存するなら、それも独立性を検討する。
「三個似てても、実は一個の理由で三個似てるかもしれない」
「はい」
「じゃあ『三つも一致した』って言えない」
「少なくとも、そのまま三つの独立証拠とは扱えません」
現在の三件に対する盲検比較でも、複数の特徴を分けて見ていた理由が、ノルンには改めて理解できた。
ただし、その理解を現在の結果へ上乗せはしない。
歴史資料を読んだからといって、過去との類似率が変わるわけではなかった。
◇
R-7の評価欄には、もう一つ重要な記述がある。
『REF-7関連記録を主要参照とすること、SET-ηへの選択歴が多いこと、長期特徴追跡群R-7として継続管理されていることは、互いに独立した同一性証拠として数えない。』
ノルンはそこを拡大した。
「これ、かなり大事ですね」
「全部七っぽいやつ?」
「はい。REF-7とR-7は番号継承の関係があります。SET-ηにも一部重なりがあります。ですから三体系に現れることを、『三つの別々の仕組みで同じ対象が確認された』とは扱えません」
「元がつながってるから」
「そうです」
もし後世の誰かが、
REF-7にいる。
SET-7にもいる。
R-7にもいる。
だから『七番目の何者か』が複数の制度で確認されている。
と読んだなら、それは制度の数を証拠の数へ変えてしまう。
だが、今読んでいる時代の研究者は、その危険を明確に認識していた。
◇
さらに下には、発生源モデルS1との関係が記されている。
R-7構成記録の一部はS1と整合する。
しかし別の一部は、S1だけでは説明しにくい。
S1自体も単一主体モデルではなく、あくまで『一つの共通発生条件または限定された共通要因で説明できる場合』の比較モデルだった。
『S1との整合性は、単一個体性の支持を意味しない。』
その注意書きのすぐ下に、
『S1を「第一個体仮説」と呼ばない。』
とある。
「また止めてる」
「何度も同じ方向の誤読が起きたのでしょうね」
「でもさ」
主様が少し考え込んだ。
「ここまで止めてたなら、後で『第七外在個体』って正式っぽい言葉が出るには、何か変わらないとおかしくない?」
「そうですね」
「新しい証拠か、基準が変わったか、言葉の意味が変わったか」
「あるいは複数が重なった可能性もあります」
ノルンはそこで一度画面から目を離した。
今まで追ってきた歴史では、言葉の変化が何度もあった。
正確さを守るための言葉が、検索しやすさのために短縮される。
短縮語が口頭で使われる。
別部門が異なる意味で受け取る。
後の資料では、元の注意書きより短い表現だけが残る。
しかし、それだけで『第七外在個体』まで進んだと決めるのは早い。
(ここから先は、言葉の変化だけを探してはいけませんね)
本当に証拠が増えたなら、それも拾わなければならない。
物語としてきれいな方だけを選ぶのは、観察ではなかった。
◇
昼食後、ミレイアの外出予定に更新が入った。
針糸店フィルネへの外出は、三日後の午後で調整可能との回答があり、本人へ確認が行われている。
『本人、「その日で大丈夫」と回答。目的は袋用の紐選び。』
同行はエリス。
購入予定は紐一本で、必要なら予備も検討する。
色は店頭で見て決めるという希望も変わっていない。
接続に関する項目には変更がなかった。
ノルンは外出予定だけを確認し、接続欄を必要以上に開かなかった。
ミレイアが紐を選ぶことと、誰かへ会うかどうかは別の話である。
◇
午後の歴史資料へ戻ると、『個体単位整理案』の終盤には最終提言が記されていた。
『現段階で、長期特徴追跡群を個体単位へ置換しない。』
『個体性評価を行う前に、主体仮説適用条件、発生源同一性評価、独立特徴評価を別途整理する。』
『管理上の継続単位が必要な場合は、既存の長期特徴追跡群識別子を使用する。』
『将来、主体性または個体性に関する新たな証拠が得られた場合は、その時点の基準に基づき再評価する。』
「ここでも未来に開いてる」
「はい。『個体ではない』と確定したわけでもありません」
「今は分からない」
「それが結論ですね」
主様は椅子の背へ身体を預けた。
「分からないって、長く続くね」
「長く分からないこともあります」
「ノルン、前よりそれ言うの平気になったよね」
不意に向けられた言葉に、ノルンは少しだけ目を瞬いた。
以前なら、分からないものを見つけると、早く整理したい気持ちが先に立っていたかもしれない。
何かの分類へ置き、次に何を確認すればよいのか決め、できるだけ曖昧さを減らしたかった。
今も整理すること自体は嫌いではない。
けれど、整理した箱の名前と、その中に本当に存在するものが同じとは限らないことを、以前より意識するようになっていた。
「分からないものを、分かったことにする方が後で困りますから」
「真面目な答えだった」
「何を期待していたんですか」
「『成長しました』とか」
「自分で言いません」
主様が笑い、ノルンもつられて少し笑った。
◇
次に開くべき資料は明確だった。
『外在反応主体仮説の適用条件』
ただし、ノルンはすぐには開かなかった。
先に今日の資料を記録へまとめる。
『「外在反応長期追跡対象・個体単位整理案」を確認。文書目的は外在反応を個体認定することではなく、長期追跡における管理・比較・引継ぎ単位の整理。』
『記録上同一、比較上同一、特徴上の継続性、発生条件上の継続性、発生源上の同一性、主体上の同一性、個体上の同一性を分離。各段階は自動移行不可。』
『「個体追跡候補単位」「長期発生源候補単位」「長期追跡対象候補」等を検討したが、名称自体が単一個体・単一発生源・外在側の相手を先取りして読まれる問題があり、正式採用に至らず。』
『R-7については個体性評価へ進まず。同一発生源性の支持に必要な独立特徴が不足。観測系要因、発生条件差、持続時間・強度・終了部・変換後印象の不一致等が残る。』
『REF-7関連、SET-η選択歴、R-7継続管理は互いに独立した同一性証拠として数えない。制度上の重複を証拠数へ変換しない。』
『R-7構成記録の一部とS1モデルの整合性は、単一個体性を支持しない。S1は単一主体を前提としない発生源モデル。』
『現段階では長期特徴追跡群を個体単位へ置換しない。主体仮説適用条件、発生源同一性、独立特徴評価を別途整理し、新証拠が得られた場合のみ再評価。』
最後に、現在の調査上の結論を追記する。
『「第七外在個体」成立経路は依然未確認。少なくとも本資料時点では、R-7を一個体・一主体・一発生源として確定していない。』
『後世の「第七外在個体」が、後の新証拠による認定か、管理語の変化か、基準変更か、複数要因の重なりかは未確認。』
◇
記録を保存した直後、ノルンの私用端末へ通知が入った。
ミサキからだった。
『来週の空いてる日、火曜か金曜なら夕方まで大丈夫』
昨日より具体的になっている。
ノルンはすぐに返信せず、自分の予定表を開いた。
火曜日は午後に定例確認が入っている。長引かなければ夕方には空くが、時間を約束するには少し不安がある。
金曜日は、通常業務以外に固定予定がない。
(本を受け取るだけなら、どちらでも問題はありません。でも、お菓子も食べるのでしたら……)
そこまで考えてから、自分で少し可笑しくなった。
ミサキは昨日、『お菓子はついで』と書いていた。
その言葉を額面通りに受け取るなら、本の受け渡しが主目的である。
けれど、本当に渡すだけなら、施設の近くで数分会えば済む。わざわざ一日空いている日を二つ教えてくれたことに、ノルンは小さな温かさを感じていた。
それをすぐ恋愛という名前へ変える必要はない。
ミサキとの間にあるものは、今の距離のままでも十分心地よかった。
『金曜日なら、私も予定を空けられそうです』
送信すると、返事は少し間を置いて届いた。
『じゃあ金曜にする?』
ノルンは画面を見つめた。
昨日までは、来週なら会えるかもしれないという話だった。
今は、金曜日という日が置かれている。
湖の町ではない。
特別な遠出でもない。
紀行本を受け取り、たぶん菓子を食べるだけの時間だ。
『はい。金曜日でお願いします』
送信したあと、指先にわずかな熱が残った。
すぐに、
『了解。時間と場所はまた決めよ』
と返ってくる。
『分かりました』
ノルンはそこまで送って端末を伏せた。
日付は決まった。
時間と場所はまだ決まっていない。
だから、決まっていないものまで先へ進める必要はない。
それでも昨日までの『会えたら』とは違う。
ノルンは自分の予定表の金曜日へ、小さく『ミサキさん・本』と入力した。
少し迷ってから、『菓子』までは書かなかった。
◇
夕方、現在側の観測記録を最後に確認したが、新しい通知対象事象はなかった。
三件の低強度識別不能反応についても評価変更はない。
発生源不明。
対象不明。
同一源性不明。
意味・意図不明。
音声や言語として扱える根拠なし。
既知分類への帰属も未確認。
過去のどの人物とも結びついていない。
歴史資料で『個体』という言葉を一日中読んだからといって、現在の反応の向こうへ誰かを置く理由にはならなかった。
◇
その日の夜、ノルンは管理室に一人残っていた。
照明を少し落とした室内では、端末の光が机の表面へ淡く映り、窓の外からは昼間より冷えた風が木の葉を揺らす音だけが届いている。
未読資料の先頭には、
『外在反応主体仮説の適用条件』
が残っていた。
ノルンは題名を見つめながら、今日読んだ整理案を思い返す。
長く似ていることと、一人であることは同じではない。
同じ番号で管理されることと、一つの存在が確認されたことも同じではない。
同じ発生源であることと、そこに意思を持つ主体がいることさえ同じではない。
ならば、研究者たちはどこから『主体がいるかもしれない』と考えることを許したのだろう。
反復か。
応答らしさか。
時間的な対応か。
構造の変化か。
それとも、それらのどれも単独では足りないのか。
(次は、そこですね)
ノルンは資料を開かず、未読のまま端末を閉じた。
今日はすでに、一人と呼ばないためにどれほど多くの条件が必要だったのかを十分に読んだ。
次に必要なのは、その反対側だった。
何を確認したとき、初めて『何かがいる』という仮説を検討してよいのか。
そして、その仮説がいつ、どのようにして『第七外在個体』という言葉へ近づいていったのか。
答えはまだ資料の先にある。
分からないまま残っていることを確認して、ノルンは席を立った。
鞄を肩へ掛けたとき、予定表に追加した金曜日の文字が視界の端へ入る。
こちらには、少なくとも一つだけ今日決まったことがある。
ミサキと会う日だ。
時間も場所も、まだ決まっていない。
湖の町へ行く日でもない。
それでも『いつか』とは違う小さな予定が、来週の一日へ静かに置かれていた。




