第百三十四話 一つの仮説を置くことと、一人を見つけること
朝の管理室へ入ったノルンは、窓際の机へ細長い紙袋が置かれていることに気づいた。
中身を確認する前に差出欄を見ると、施設の厨房からだった。前日に焼いたリンガを少量だけ試食用として回しているらしく、添えられた紙には『甘味控えめ・朝食後推奨』と書かれている。
「主様、これを置いたのは――」
「僕じゃないよ」
声がした方を見ると、主様はすでに自分の席に座っていた。手元には同じ紙袋があり、こちらは半分ほど開いている。
「もう食べているじゃないですか」
「味見だから」
「朝食は?」
「食べた」
「では味見ではなく追加です」
「細かいなあ」
いつもの調子で返してくる主様を横目に、ノルンは自分の紙袋を机の端へ置いた。
先にすることがある。
端末を立ち上げ、現在の観測状態を確認する。
三件の低強度識別不能反応について、新しい通知対象事象はない。閾値未満の追加変動もなく、既存三件の再評価による状態変更も確認されていなかった。
発生源、対象、同一源性、意味、意図、音声・言語性、既知分類との関係はいずれも未確認。
観測密度も通常のままである。
「今日も増えてない?」
主様がリンガを食べながら尋ねる。
「はい」
「減ってもない?」
「過去に発生した事象が消えるわけではありません」
「分かってる。言ってみただけ」
ノルンは画面を閉じた。
現在について、新しく判断することはない。
ならば通常業務を終えた後、昨日の続きへ進める。
長期特徴追跡群R-7。
管理上の箱として長く使われてきたそのラベルに、発生源についての仮説がどう結びついていったのか。
今日読む資料は、その境界に置かれていた。
◇
午前の確認業務が一段落した頃、ノルンは歴史資料一覧を開いた。
最初に選んだのは、
『長期特徴追跡群R-7・発生条件比較』
だった。
その後に、
『外在反応主体仮説の適用条件』
さらに、
『R-7長期評価・第二次整理』
が続いている。
「順番に読む?」
「はい。少なくとも作成順は崩さない方がよいでしょう」
「後のまとめから読んだ方が早くない?」
「早いですが、まとめで削られた条件が分からなくなります」
「昨日までずっとそれ見てたもんね」
主様は今日は先に結論を言わず、椅子を引いて座った。
ノルンは最初の資料を開いた。
◇
『長期特徴追跡群R-7・発生条件比較』
題名だけを見れば、R-7という一つの発生源について条件を調べた資料にも見える。
しかし冒頭の定義は慎重だった。
『本比較におけるR-7は、長期的比較のため設定された管理上の追跡群を指す。R-7内の各反応について、同一発生源性、単一主体性、単一個体性は確認されていない。』
その次には、目的が書かれている。
『複数時期に記録されたR-7構成反応について、発生条件の共通性および差異を比較し、観測系・経路・外部環境・発生源側条件のいずれが反復特徴へ寄与するかを検討する。』
「最初から一人を探してるわけじゃない」
「はい。原因の層を分けようとしていますね」
比較対象は、R-7にその時点で含まれていた記録のすべてではなかった。
観測条件が十分に保存されているもの。
再解析可能な原記録が残っているもの。
機器交換の影響を比較できるもの。
環境条件が一定範囲で記録されているもの。
そうした条件を満たす記録だけが抽出されている。
「R-7なのに、全部使わないんだ」
「比較目的に合わない記録まで入れる方が危険ですから」
「箱の中から、また必要なものだけ出すんだね」
「そういうことです」
◇
最初に検討されたのは観測系だった。
特定の機器構成でのみ現れる特徴ではないか。
処理方式が同じときだけ似て見えるのではないか。
再変換によって特徴が弱まるなら、発生源ではなく観測処理に由来する可能性が高いのではないか。
いくつかの反応では、処理条件を変えると類似度が大きく低下した。
一方で、別のいくつかでは、変換方式を変えても開始部の急な立ち上がりや、ごく短い内部偏りが部分的に残った。
ただし、それだけでは発生源側由来とは確定できない。
経路条件が共通している可能性も残る。
外部環境の未知の要因も除外できない。
「残った特徴があるから、発生源ってわけじゃない」
「はい。観測装置で説明しにくくなっただけです」
「候補が一個減るのと、答えが一個に決まるのは違う?」
「その理解でよいと思います」
主様は頷いた。
◇
次に比較されたのは発生時刻だった。
R-7構成記録には夜間に発生したものが複数あったため、当初の補助仮説には『特定時間帯との関連』が含まれている。
だが、全期間を通して見ると昼間の記録もあり、観測稼働率を補正すると夜間偏重は明確ではなかった。
資料には、
『夜間発生が印象に残りやすいことと、夜間に統計的偏りがあることを区別する。』
と書かれている。
「印象に残りやすい?」
「夜間の方が職員数が少なく、通知一件の印象が強かったという聞き取りがあったようです」
「数字じゃなくて、人の感じ方の方」
「はい。それも記録しています」
別の補助仮説では、特定の接続試験や通知条件変更の後に反応が増える可能性が検討されていた。
こちらも一部の期間だけを見れば近接している。
しかし全期間へ広げると、同じ条件変更後に何も起きていない時期も多い。
さらに、反応が先で管理変更が後という例もあった。
『時系列近接のみから因果関係を設定しない。』
その一文に、ノルンは目を留めた。
◇
資料の中盤で、REF-7関連記録との比較が出てきた。
R-7の形成過程では、REF-7に関係する一部の古い反応が構成記録として含まれている。
しかし、REF-7関連記録のすべてがR-7へ入っているわけではない。
逆に、R-7にはREF-7とは無関係な時期に記録された反応も含まれる。
『R-7をREF-7の継続記録として扱わないこと。』
注意書きは明確だった。
「まだ分けてる」
「はい」
「でも主要参照はREF-7なんだよね」
「主要な参照先であることと、R-7全体がREF-7の続きであることは違います」
その直後には、なぜREF-7が主要参照になっているかも説明されていた。
古い記録の中で、比較可能な原記録が比較的よく残っていた。
後年の特徴比較で何度も参照された。
複数の研究文書からリンクされている。
つまり、研究上使いやすかった。
それが主要参照である理由の大きな部分だった。
「重要だから主要っていうより、使いやすいから?」
「重要でもあったのでしょうが、それだけではないようです。保存状態と参照頻度が影響しています」
「それ、後から見たら分かんないかも」
「概要だけなら、そうですね」
主要参照という言葉は、中心的な正体候補という意味ではない。
しかし、その説明が落ちれば、『R-7の中心にREF-7がある』という印象だけが残る可能性はある。
◇
発生条件比較の結論は、思った以上に地味だった。
『単一の観測条件、時間帯、管理操作、既知外部環境のみでR-7構成反応の部分共通特徴を説明することはできなかった。』
続いて、
『一部特徴について、発生源側または未把握経路条件に由来する可能性は残る。』
『ただし、複数反応が同一発生源に由来することを示すには不十分。』
『発生源が主体・個体であることを示すものではない。』
とある。
「結局、分かんなかった?」
「何も分からなかったわけではありません。少なくとも、単純に一つの観測装置だけで説明できる状態ではなくなっています」
「でも一人にはならない」
「なりません」
主様は画面を眺めながら、しばらく黙っていた。
「こういうのって、少しずつ候補を減らしていくんだね」
「そうですね。ただ、候補が減った後に残ったものが正しいとは限りません。最初から候補に入っていない原因があるかもしれませんから」
「面倒」
「だから調査するんです」
◇
ノルンは次の資料へ移った。
『外在反応主体仮説の適用条件』
こちらはR-7だけを対象とした資料ではなかった。
外在反応研究全体において、いつ『主体』という仮説を置いてよいかを整理したものだった。
冒頭には、かなり強い注意がある。
『主体仮説は、観測された反応に意思を持つ存在が関与する可能性を検討するための作業仮説であり、主体存在の確認を意味しない。』
『主体仮説を適用することと、個体数を設定することを分離する。』
『主体性候補がある場合でも、単一主体・複数主体・主体と非主体要因の混在を区別できない場合がある。』
「一人どころか、主体がいたとしても何人か分かんない」
「はい」
「機械みたいなのと誰かが混ざってる可能性も?」
「この資料の定義では残しますね」
主体仮説を検討する条件として、いくつかの項目が挙げられていた。
観測条件だけでは説明しにくい反応変化。
外部操作との時間的対応。
一定条件に対する選択的変化。
反復構造の持続。
状態変化に応じた反応差。
ただし、どれも単独では主体性を示さない。
複数条件が揃っても、環境的・機械的・未知の自然要因を除外できなければ確定には進まない。
◇
そして、R-7についての適用例があった。
『R-7について主体仮説を適用可能か。』
評価は、
『限定的検討可』
だった。
「可って書いてある」
主様が身を乗り出した。
「その下を読みます」
理由として、
『一部反応に長期的な反復特徴候補がある。』
『既知観測条件のみでは説明しきれない特徴が残る。』
『過去の一部記録に、接続関連操作との時間的近接がある。』
が挙げられている。
しかし反対側には、
『同一発生源性未確認。』
『対象未確認。』
『選択的応答として再現されていない。』
『意図性未確認。』
『言語性未確認。』
『主体数設定不能。』
『非主体要因を除外できない。』
と並んでいた。
「『限定的検討可』って、主体がいる可能性が高いって意味?」
「資料にはそう書かれていません」
ノルンは適用基準の定義へ戻った。
『限定的検討可:主体仮説を比較対象から除外せず、他の非主体仮説と並列して評価してよい状態。主体存在の確率評価を示さない。』
「確率じゃない」
「はい。候補から外さないという意味です」
「じゃあ『主体かもしれない』って言うのも強い?」
「日常語としてはそう聞こえる可能性がありますね。正式には、主体仮説を検討対象に残す、です」
◇
会議記録には、その言葉をめぐる議論が残っていた。
『「限定的検討可」は、非専門部門に「主体性が一定程度確認された」と誤読される可能性がある。』
『代替として「主体仮説:除外せず」を提案。』
『ただし「除外せず」は、消極的な否定表現であり、研究上の検討理由が見えにくい。』
『「主体仮説:並列評価継続」はどうか。』
最終的には、
『主体仮説:他仮説と並列して検討継続』
へ変更されていた。
「長い」
主様が言う。
「でも、かなり正確です」
「画面に入る?」
「そこも問題になっていますね」
共有画面の主体性欄へ全文を表示すると、他項目より長くなる。
そこで通常表示は、
『主体仮説:検討継続』
詳細表示では、
『他仮説と並列。主体存在・主体数・意図性は未確認。』
となった。
ノルンはそこで少しだけ眉を寄せた。
「また短くなった」
「はい」
「『検討継続』だけだと、何かありそうに見えない?」
「その懸念も出ています」
◇
試験参加者十五人へ、
『主体仮説:検討継続』
という表示だけを見せた場合、
九人は『主体の可能性を他の原因と一緒に調べている』と回答。
三人は『主体である可能性が少し高まった』と回答。
二人は『主体らしい特徴が確認された』と回答。
一人は『意味が分からないので詳細を見る』と回答していた。
「五人、強く読んだ?」
「そうですね」
「詳細見せたら?」
詳細表示まで確認した後は、十五人全員が、
『主体は未確認。複数仮説の一つとして継続評価。』
と理解している。
その結果、通常画面の表示は、
『主体性:未確認』
『主体仮説:並列検討中』
の二行へ変更された。
「また増えた」
「必要だったのでしょう」
「情報を減らすと誤読して、増やすと見づらくなる」
「ずっとその調整ですね」
◇
午前の調査はそこで区切った。
ノルンが立ち上がると、朝から机の端に置いたままだった紙袋が目に入る。
「忘れてたでしょ」
主様が言う。
「忘れてはいません」
「じゃあ食べる?」
「今食べます」
紙袋を開くと、薄く切られた焼きリンガが二切れ入っていた。蜂蜜はごく少量で、表面には香ばしい焼き色がついている。
一口食べると、甘さより先に温めた果実の酸味が広がった。
「どう?」
「おいしいです」
「ルーク、焼いた方が好きなんだよね」
「そうですね」
ノルンは答えてから、それ以上現在のルークと歴史資料を結びつけなかった。
焼きリンガは焼きリンガである。
今はそれでよかった。
◇
昼頃、フローラの生活記録にも小さな更新が入った。
母親と一緒に焼き果物を作ってみる話が続いていたらしく、今日は厨房から小さな耐熱皿を借りられるか職員へ尋ねている。
記録には、
『本人より、母と一緒に作ってみたいとの希望。実施日は未定。材料について相談予定。』
とある。
マリーとの次の外出予定はまだない。
アーノルドからの接触もない。
『今は会わない』という状態に変更はなかった。
◇
フローラは母親と食堂の端に座り、借りられる皿の大きさについて話していた。
「二人分なら、そんなに大きくなくていいよね」
母親が両手で大きさを示すと、フローラは少し考えながら首を傾ける。
「でも、失敗したら?」
「失敗した分まで食べるの?」
「もったいないし」
「焦げても?」
「……焦げ方による」
母親が笑った。
フローラもつられるように笑い、材料の候補を書いた紙へ目を落とした。
蜂蜜は少なめ。
ナッツは母親が食べやすいよう細かくする。
果物はリンガだけでなく、別のものを混ぜてもいいかもしれない。
「マリーに聞いたら、何か知ってるかな」
フローラが何気なく言う。
「聞いてみたら?」
「うん。今度話した時に聞く」
それは次の外出を決める言葉ではなかった。
けれど、マリーという友人が日常の中で自然に思い浮かぶようになっている。
母親はその変化を嬉しく感じたものの、言葉にはしなかった。
◇
午後、ノルンは三つ目の資料を開いた。
『R-7長期評価・第二次整理』
これまでの発生条件比較と主体仮説検討を踏まえ、R-7の評価項目を整理し直した文書である。
最初に旧評価と新評価の対照表があった。
旧評価では、
『反復特徴:あり』
『長期追跡:継続』
『主体性:未確認』
『同一源性:未確認』
程度の簡略な項目だった。
新評価では、
『反復特徴候補:複数』
『特徴持続性:一部で確認』
『観測系依存性:一部あり/一部説明不能』
『経路条件依存性:未確定』
『同一発生源性:未確認』
『主体存在:未確認』
『主体数:未確認』
『意図性:未確認』
『識別情報性:未確認』
『言語性:未確認』
『対象指向性:未確認』
へ増えている。
「めちゃくちゃ増えた」
「一つの『主体性』へまとめず、何が分からないのかを分けたんですね」
「識別情報性って、前にあったやつ?」
「関連しています。ただし、ここでも名前という意味ではありません」
識別情報性は、反応に含まれる特徴が発生源や状態を区別するために利用可能かどうか。
意図的に送られた識別情報かどうかは別。
言語や名称かどうかも別。
以前の研究で何度も切り分けられた概念が、R-7の長期評価にも持ち込まれている。
◇
新評価の中で、唯一『一部支持』となっている項目があった。
『特徴持続性:一部支持』
ノルンはすぐに注記を開いた。
『R-7構成記録の一部に、観測時期を隔てても保持される特徴候補あり。ただし全構成記録に共通せず、同一発生源性を示すものではない。』
「一部の記録だけ」
「はい」
「その一部って、REF-7も入ってる?」
「確認します」
該当記録一覧には、REF-7関連の古い記録が二件含まれていた。
ほかに、後年の短時間反応。
再分類された低強度反応。
分類保留の記録。
複数の時期にまたがっている。
しかし同じ特徴を持たないR-7構成記録も多数ある。
「じゃあ、R-7全体の特徴じゃない」
「その通りです」
「でも評価表だと『特徴持続性:一部支持』だけ見える」
「詳細を読まなければ、範囲は分かりにくいですね」
実際、文書内にも同じ懸念があった。
『「一部支持」の表示は、R-7という追跡群全体に持続特徴があるとの誤読を招く可能性。』
代替表示として、
『一部構成記録間の特徴持続性:支持候補』
が提案されている。
最終版ではこちらが採用された。
◇
その直後に、重要な会議記録があった。
研究担当者の一人が、
『これだけ長期に特徴が残るなら、少なくとも一つの継続発生源を仮定した方が比較しやすいのではないか』
と提案している。
ノルンは姿勢を少し正した。
主様も黙った。
これまでの資料では、発生源側特徴の可能性を残すことはあっても、継続発生源を一つ置く提案は慎重に避けられていた。
ここでは、明確に一つの仮説として出ている。
「これ……」
「はい。続きを読みます」
提案者は、単一発生源が確認されたとは主張していなかった。
比較計算を行う際の仮想モデルとして、
『仮説S1:一部R-7構成記録が同一の継続発生源に由来する。』
を置く。
対照として、
『仮説S2:複数の異なる発生源が類似特徴を持つ。』
『仮説S3:発生源は異なるが、共通経路条件により特徴が似る。』
『仮説S4:観測系または未把握環境条件により類似が生じる。』
『仮説S5:複数要因の混在。』
を並列比較する。
「S1だけじゃない」
「はい」
「一人を決めたんじゃなくて、一個のモデルとして置いた」
「そうです」
さらに、
『S1の発生源は主体・個体を意味しない。継続する装置、環境構造、未知現象等を含み得る。』
と明記されている。
単一継続発生源仮説。
それはまだ、単一人物仮説ではなかった。
◇
比較結果は、S1だけを支持するものではなかった。
一部特徴についてはS1で説明しやすい。
しかし、時期ごとの差異を考えるとS2やS5でも説明可能。
経路条件の情報が不足しているためS3を十分に検証できない。
観測系の既知要因では説明しにくい部分があるが、未知要因まで除外できないためS4も残る。
結論は、
『S1を除外しない。優越仮説とはしない。』
だった。
「また『除外しない』」
「研究では便利な表現なのでしょう」
「でも後から短くされたら危なそう」
主様の言葉に、ノルンはすぐ答えず、その下にある運用欄を読んだ。
共有画面への反映案。
『発生源モデル:S1〜S5並列』
これが最初の案だった。
ところが、非研究部門にはS番号の意味が分かりにくい。
そこで、
『単一継続発生源仮説:検討中』
『複数発生源仮説:検討中』
『共通経路仮説:検討中』
『観測・環境要因仮説:検討中』
『混在仮説:検討中』
へ変更された。
「全部並んでるなら分かる」
「そうですね」
だが、会議一覧へ出力すると五項目は長すぎる。
一覧では、
『発生源モデル:複数仮説継続』
とだけ表示される。
詳細画面を開けば五つが見える。
この時点では、まだ単一発生源だけが前面に出てはいない。
◇
数か月後の研究会議議事録では、少し違う言葉が使われ始めていた。
『S1対象記録を再比較する。』
『S1側で保持される特徴は二項目。』
『S1群から除外候補一件。』
正式にはS1は仮説であり、群ではない。
それでも、S1仮説の検証に使う記録群を研究者同士で『S1群』と呼ぶ例が出ている。
「また箱ができた」
主様が呟いた。
「正式な追跡群ではありませんが、作業上のまとまりですね」
「R-7の中に、S1群?」
「一部はそう見えます。ただし、R-7外の比較記録も入っています」
「もっとややこしい」
「だから正式文書では使わないよう注意されています」
議事録の欄外には、
『「S1群」は便宜的口頭表現。単一発生源確認群と誤認されるため正式表記へ使用しない。』
とあった。
◇
さらに三か月後。
内部の比較表に、
『S1適合候補』
という欄が追加される。
各記録について、単一継続発生源モデルS1と整合する特徴がどれだけあるかを評価するためのものだった。
評価は、
『高』
『中』
『低』
『判定不能』
ではない。
そのような総合順位は誤読を招くとして、
『整合項目数』
『不整合項目数』
『比較不能項目数』
を別々に記録する方式になっている。
「すごく慎重」
「はい。『S1らしさ』の点数にはしていません」
ある記録は、整合三、不整合二、比較不能四。
別の記録は、整合四、不整合四、比較不能一。
単純にどちらがS1へ近いとは言えない。
特徴ごとの重要度も同じではない。
希少な一致と、よくある一致では意味が違う。
◇
そして、その比較表の末尾に、ノルンの目を引く記載があった。
『REF-7関連記録群のうち、S1比較対象として継続するもの:三件。』
以前より一件増えている。
「増えた?」
「はい。ただし、REF-7関連記録そのものが新しく発生したわけではありません」
再整理によって、過去記録の一件が比較条件を満たすと判断され、S1比較対象へ追加されたものだった。
その記録には、人間が聞いた場合の音声印象も保存されている。
変換条件の一つで、
『短い二音節様に聞こえるとの意見あり。聴取一致なし。』
とある。
具体的な音は本文に表示されていない。
「名前っぽいやつ?」
「そうは書かれていません」
「二音節ってだけ?」
「はい。聴取一致もありません」
ノルンは関連欄を開いた。
この記録がS1比較対象へ入った理由は、音の印象ではない。
開始部の形状。
中間部の偏り。
終了直前の減衰特性。
三項目が一部の既存S1比較対象と似ていたためだった。
『聴取印象は比較採否理由に含めない。』
明記されている。
「ちゃんと切ってる」
「はい」
◇
だが、別の部門が作った簡易参照表では、その記録に複数のタグが並んでいた。
『REF-7関連』
『S1比較対象』
『音声様知覚記録』
『R-7構成歴あり』
四つのタグ。
それぞれは事実だった。
しかし一行へ並ぶ。
「……これ」
主様が言葉を止めた。
「まだ何も決めません」
「うん」
ノルンはタグの作成目的を確認した。
記録検索を容易にするため。
どの資料群からも辿れるようにするため。
タグ同士の因果関係や同一性を示すものではない。
注意書きにも、
『複数タグの併記は概念間の同一性・因果関係を示さない。』
とある。
それでも、検索結果だけを見れば、
REF-7。
S1。
音声様。
R-7。
が一件の記録上で交差している。
「初めて?」
「何がですか?」
「一件の記録に、こんなに集まったの」
ノルンは過去資料を検索した。
類似例はあった。
ただし、この四種が同一行へ揃う記録は、保存されている範囲ではこれが最初だった。
「そうですね。少なくとも確認できる資料では、かなり早い例です」
「でも名前じゃない」
「名前ではありません」
「一人とも決まってない」
「決まっていません」
「S1も一個の発生源モデルなだけ」
「しかも優越仮説ではありません」
主様は頷いた。
ノルンも画面を閉じなかった。
ここは重要だった。
重要だからこそ、先へ飛んではいけない。
◇
午後遅く、セレナが昨日の表示試験について新しい案を持ってきた。
「印と文字、両方出す前にさ、印を押したら変更理由が開くのはどう?」
「変更箇所を示す印自体を詳細入口にするんですね」
「うん。普段は増やさない。変わったところだけ印が出て、押したら『何が変わったか』『何は変わってないか』を見る」
ノルンは試験画面を見た。
架空記録では、
『対象:未確認』
から
『観測設備由来の可能性が高い』
へ変更。
印を開くと、
『変更:対象評価』
『変更なし:意味・意図・主体性・言語性』
と表示される。
「よい案だと思います。ただ、『変更なし』が『今後も変わらない』という意味に読まれないかは確認したいですね」
「そこかあ」
「現在状態の維持と、将来の固定は違いますから」
「じゃあ『今回の更新で変更なし』?」
「それなら範囲が明確になります」
セレナはその場で書き換えた。
「試すのは明日以降。人数はまた少なくする」
「はい」
「一気に決めない」
「それでよいと思います」
セレナは満足そうに画面を抱え、戻っていった。
◇
夕方、エリオの生活記録にも小さな更新があった。
四人用盤上遊戯の調整で、第二手番の序盤選択肢が少ないという問題について、開始時だけ一枚多く候補札を見られる案を試している。
ただし、選べる枚数そのものは増やさず、見る候補だけを増やす。
『選択肢を増やしすぎると最初から迷うため、情報量のみ調整。』
という本人の意見が添えられていた。
ノルンは少し笑った。
選択肢は多ければよいわけではない。
けれど、少なすぎれば選んだ感覚も弱くなる。
エリオは今、遊びの中でその調整をしている。
それを別の制度の教訓へ変える必要はなかった。
本人が楽しんで作っているなら、それで十分である。
◇
歴史資料へ戻ると、R-7第二次整理の末尾に、次回検討事項が記されていた。
『S1比較対象の増加に伴い、仮説記号と追跡群記号の混同を避けるため、呼称規則を再検討する。』
その下に、
『S1を「第一発生源候補」等へ言い換えないこと。順序・個体数・主体性を暗示するため。』
とある。
「第一発生源候補、禁止」
「はい」
「じゃあまだ『第一』も避けてる」
「そうですね」
さらに、
『R-7を「第七発生源候補」と呼ばない。』
『REF-7を「第七個体参照」と展開しない。』
『数字は由来体系を保持し、個体順序へ読み替えない。』
という禁止例が並ぶ。
ノルンはその部分を読みながら、後世の『第七外在個体』という語を思い出した。
ここでは、まだ明確に止められている。
七という数字を個体番号へ変えるな、と。
後世では、その禁止されていた方向の言葉が残っている。
(間に、何かがある)
新しい証拠かもしれない。
別の制度変更かもしれない。
単なる呼称の圧縮では説明できない可能性もある。
今の資料だけでは分からない。
◇
ノルンは今日の正式記録を作成した。
『「長期特徴追跡群R-7・発生条件比較」を確認。R-7構成記録の発生条件を比較し、観測系・経路・環境・発生源側条件の寄与を検討。単一の既知観測条件のみでは一部共通特徴を説明できないが、同一発生源性を支持するには不十分。』
『REF-7はR-7の主要参照だが、R-7全体をREF-7の継続記録として扱わない。主要参照化には原記録保存状態・再解析可能性・参照頻度が影響。』
『「外在反応主体仮説の適用条件」では、主体仮説を主体存在確認と分離。R-7は主体仮説を他の非主体仮説と並列して検討継続する対象。主体存在・主体数・意図性・言語性はいずれも未確認。』
『「R-7長期評価・第二次整理」にて評価項目細分化。反復特徴候補、観測系依存性、同一発生源性、主体存在、主体数、意図性、識別情報性、言語性、対象指向性等を分離。』
『一部構成記録間の特徴持続性に支持候補あり。ただしR-7全体の共通特徴ではなく、同一発生源性を示さない。』
『作業仮説S1「一部R-7構成記録が同一の継続発生源に由来する」を設定。ただしS2複数発生源、S3共通経路、S4観測・環境要因、S5混在と並列。S1は除外されないが優越仮説ではない。S1の発生源は主体・個体を意味しない。』
『研究者間で便宜的に「S1群」と呼ぶ例あり。正式文書では単一発生源確認群との誤認を避けるため不使用。』
『REF-7関連の過去記録一件が再整理によりS1比較対象へ追加。当該記録には二音節様との一部聴取印象があるが一致せず、比較採否理由は構造特徴であり聴取印象ではない。名称性・言語性は確認されていない。』
『同記録に「REF-7関連」「S1比較対象」「音声様知覚記録」「R-7構成歴あり」の検索タグが併記。タグ併記は同一性・因果関係を示さない。ただし複数概念が一件の記録上で視覚的に近接する経路として継続確認が必要。』
『呼称規則再検討では「第一発生源候補」「第七発生源候補」「第七個体参照」等を明示的に禁止。数字を個体順序へ読み替えない方針を維持。』
最後に、次の資料を記録する。
『「外在反応追跡単位呼称規則・第二次改訂」未読。S1比較対象増加後の仮説記号・追跡群記号・参照番号の呼称整理と推定。後世の「第七外在個体」との関係は未確認。』
◇
保存を終えると、窓の外は夕方の色へ変わり始めていた。
主様は朝の紙袋をきれいに畳みながら、今日の資料を思い返しているらしい。
「一個の発生源って仮説、初めてちゃんと出てきたね」
「はい。ただし一部記録に対する作業仮説です」
「主体じゃない」
「はい」
「一人じゃない」
「はい」
「名前もない」
「ありません」
「七番目でもない」
「それも明確に禁止されています」
主様は指を折りながら確認し、最後に手を下ろした。
「でも、前より近づいた感じはする」
ノルンは少し考えた。
「何に近づいたか、ですね」
「第七外在個体に」
「後世の言葉へ至る材料が増えてきた、という意味ならそうかもしれません。ただし、正しい根拠が積み重なってその呼称へ至ったのか、異なる概念が後から結びついたのかは、まだ分かりません」
「うん」
主様は今日はそれで納得した。
◇
帰る前、ノルンの端末へミサキから連絡が届いた。
『紀行本、借りられた』
続けて、古びた貸出票の写真が送られてくる。
『返却まで二週間』
『思ったより短いですね』
『延長できるけど、一回だけ』
『では、無理に予定を合わせなくても大丈夫ですね』
少し間があってから、
『無理には合わせなくていいけど、会えたら渡す』
と返ってきた。
ノルンはその文章を見つめた。
(会えたら、ですか)
昨日までと同じく、予定を押しつける言葉ではない。
けれど、会うことが自然な選択肢として会話の中に置かれている。
『はい。会えたらお願いします』
送信する。
少しして、
『その時、焼き菓子も探す?』
と来た。
ノルンは思わず笑った。
『本を渡すだけではないんですか?』
『渡した後お腹空くかもしれない』
『ずいぶん都合のよい可能性ですね』
『可能性は除外できない』
その表現に、ノルンは一瞬だけ仕事の資料を思い出し、それから声を出さずに笑った。
『その言い方はずるいです』
『使ってみたかった』
『日常ではもう少し普通に話してください』
『じゃあ、会えたらお菓子食べよ』
簡単な言葉だった。
それでもノルンの指は、すぐには動かなかった。
以前のように、いつか行けたらという遠い話ではない。
紀行本の返却期限があり、その間に会えたらという小さな範囲ができている。
ただし、まだ日時は決まっていない。
無理に合わせる必要もない。
だからこそ、返事も難しく考えなくてよかった。
『はい。会えたら』
送ると、
『約束』
ではなく、
『楽しみにしとく』
と返ってきた。
ノルンは端末を閉じた。
少しだけ頬が緩んでいることには、自分でも気づいていた。
◇
夜になれば、管理施設の画面からR-7もS1も消える。
けれど過去の資料の中では、一つの変化が確かに起きていた。
それまで、R-7は比較のための箱だった。
その箱に含まれる一部の記録について、同じ継続発生源から来ていると仮定したら説明しやすいのではないかというモデルが置かれた。
S1。
ただの仮説記号。
主体ではない。
個体ではない。
人物ではない。
七番目でもない。
ほかの四つの仮説より優れているとも決まっていない。
それでも、比較するためにはS1に合う記録を集める必要があり、そのまとまりは口頭で『S1群』と呼ばれ始めた。
さらに一件の過去記録上で、REF-7、S1、音声様知覚、R-7という複数のタグが同時に並んだ。
どれも、それぞれの理由があって付けられたものだった。
音声印象があるからS1へ入ったわけではない。
REF-7だから同じ発生源とされたわけでもない。
R-7だから主体だと判断されたわけでもない。
それでも、別々の経路から来た言葉が同じ一件へ集まり始めている。
そして、その直後の呼称規則では、『第七発生源候補』も『第七個体参照』も明確に禁止されていた。
後世に残る『第七外在個体』とは、まだ逆方向だった。
だからこそ、その間に何があったのかを飛ばすことはできない。
ノルンが次に読むのは、呼称規則の第二次改訂。
一つの仮説を置いた人々が、それを一人の存在へ変えないために、どんな言葉を選び、どんな言葉を避けたのか。
そして、その慎重な境界が後にどう変化したのか。
答えはまだ、次の資料の中に閉じられていた。




