第9話 四天王、最初の遭遇
王都の朝は、平穏そうに見えるくせに油断できない。
新堂ユウトは、騎士団本部の客室の窓から差し込む光で目を覚ました瞬間、まずそう思った。
ここ数日で学んだことがある。静かな朝ほど、そのあとにろくでもない話が来るのだ。
「……今日は、何も起きませんように」
半分祈るような気持ちで呟き、机の上の紙袋を見る。
もちろん中身は沈黙したままだ。
だが、その祈りは朝食前にあっさり砕けた。
廊下を走る足音。
続いて、扉を叩く音。
「ユウト殿!」
レティシアの声だった。
しかも、かなり切迫している。
「はい!」
反射で返事をし、ユウトは扉を開ける。そこに立っていたレティシアは、すでに騎士装束を整え終えていた。銀青の鎧、佩剣、引き締まった表情。いつもの凛々しさはそのままだが、目の奥に緊急時特有の鋭さがある。
「出立準備を。国境方面の砦が襲撃を受けました」
「国境?」
「はい。魔王軍です」
その一言で、眠気は一気に吹き飛んだ。
魔王軍。
言葉としてはもう何度か聞いた。
だが、それはどこか遠い場所の、まだ輪郭のぼやけた脅威だった。王都の噂の中に出てくる敵。地方の砦を脅かす勢力。そういう認識だ。
それが、急に現実の距離へ降りてきた。
「詳しくは移動中に説明します」
「え、俺も行くの?」
「騎士団本部から増援が出ます。魔導院も少数ですが同行。あなたにも出動要請が」
「やっぱり来たか……!」
頭を抱えたくなる。
だが今のレティシアの顔を見れば、それが本気の緊急事態だというのは分かった。
「状況はかなり悪いのか」
「はい」
レティシアは短く頷いた。
「報告では、通常の魔物群ではありません。明確な指揮系統があり、魔装甲を着けた上位魔族まで確認されています」
「上位魔族」
「おそらく、ただの前線部隊ではありません」
嫌な沈黙が落ちる。
ユウトは机の上の紙袋へ手を伸ばした。
持ちたくない。できれば一生、人前では隠していたい。
だが、今さらそんなことも言っていられない。
「……分かった。すぐ準備する」
◇
王都を発ってから半日。騎士団の軍馬と馬車で編成された増援隊は、街道を飛ばし続けていた。
道中の揺れに耐えながら、ユウトは向かいの席にいるミリスを見た。
黒髪の天才研究者は、こんな状況でも記録板に何か書きつけている。揺れる馬車の中でよくそんな器用な真似ができるなと思う。
「魔王軍って、そんなに急に来るものなのか」
ユウトの問いに答えたのは、レティシアだった。
「通常なら、ここまで大規模な襲撃は事前兆候が出ます」
「今回は?」
「少なかったようです。つまり、敵側の統率が高い」
「統率が高い、ね……」
嫌な響きだ。
ミリスが記録板から目を上げる。
「現地からの急報にあったのは、魔装甲を着込んだ大型の魔族、それと異常に硬い障壁」
「障壁?」
「ええ。砦側の魔術をほとんど弾いてるらしいわ」
彼女はそこで、まっすぐユウトを見る。
「つまり、あなた向きかもしれない」
「その“向いてる”認定、最近軽くなってない?」
「実績が増えたからよ」
「増やしたくて増えたわけじゃないんだけど」
だが、否定しきれないのがつらい。
結界を崩した。
穢れを散らした。
スライムを消した。
それら全部が偶然と事故の積み重ねだったとしても、結果だけ見れば十分すぎるほど戦果になっている。騎士団が呼びたがるのも分かるし、ミリスが目を輝かせるのも分かる。分かるが、納得はしたくない。
日が傾き始めたころ、遠くに砦が見えてきた。
小高い丘の上に築かれた石の砦。
だが、近づくにつれてその様子がおかしいことが分かる。
煙が上がっていた。
城壁の一部が黒く焦げ、外周には崩れた防柵が散乱している。金属の打ち合う音、怒声、そして低く響く獣じみた咆哮が、まだ風に乗って聞こえていた。
「まだ交戦中か……!」
レティシアの声が低くなる。
増援隊は一気に速度を上げた。
◇
砦の外周は、すでに修羅場だった。
王国兵が防壁の外側で必死に食い止めている。魔物の群れもいるが、それ以上に厄介そうなのは、明らかに統率された魔族兵だ。黒い甲冑を着込み、曲刀や長槍を持ち、列を崩さず前進してくる。
そして、その中心。
「あれか……」
ユウトは息を呑んだ。
そこにいたのは、二回りも三回りも大きな影だった。
人型ではある。だが人間とは呼び難い。二メートルをゆうに超える体躯、暗灰色の肌、肩から腰までを覆う禍々しい黒鉄の魔装甲。顔には角めいた突起を持つ兜か仮面のようなものがあり、その奥から赤い眼光が覗いている。
しかもそいつの周囲には、うっすらと半透明の障壁のようなものが揺らいでいた。兵士の矢が当たっても弾かれ、魔術の火球が触れても表面を滑るだけで届かない。
「うわ、あれは嫌だな……」
率直な感想が漏れた。
ミリスがいつになく険しい顔で言う。
「高密度の魔力障壁。しかも魔装甲と二重。普通の手段じゃ抜けない」
「普通じゃない手段を期待されてるわけか、俺」
「そういうこと」
軽く言うな。
そのとき、前線から一人の騎士が駆け戻ってきた。血まみれで、息も荒い。
「増援か! 助かった……!」
彼はレティシアを見つけて叫ぶ。
「隊長格はどこだ!」
「北壁前だ! だが敵将が出てから押されている!」
敵将。
やはりあの大きな魔族がそうなのだろう。
レティシアは即座に判断した。
「ミリス、後衛支援! ユウト殿は私の後ろへ!」
「もう最前線行きなの!?」
「敵将の障壁を崩せれば流れが変わります!」
「言ってることは分かるけど、精神が追いつかない!」
だが、そう叫んでいるうちに状況は待ってくれない。
北壁前では、王国側の重装兵がまとめて吹き飛ばされていた。
敵将――あの魔族が、大剣めいた武器を片手で振るっている。しかも、その動きが巨体に似合わず速い。障壁に守られたまま前へ出て、兵を叩き潰し、城壁際へ穴を開けようとしている。
「まずい……!」
レティシアが駆けた。
ユウトも、半ば引きずられるように続く。
足が重い。喉が渇く。
怖い。さっきまでのスライム戦とは格が違う。殺意の濃さがまるで違う。
近づくにつれ、敵将の存在感が増す。
まるで周囲の空気ごと圧し潰してくるような重圧だった。
敵将の赤い眼が、こちらを向いた。
「……増援か」
低く、腹に響く声だった。
人語。
しかもかなりはっきりしている。
ユウトの背筋に冷たいものが走る。
レティシアが剣を抜き、真正面へ立つ。
「魔王軍の将と見受ける!」
「いかにも」
魔族は大剣を肩に担いだ。
「我はガルドス。魔王軍四天王が一角」
四天王。
聞いた瞬間、ユウトの頭の中で警報が鳴った。
それ、雑に強いやつだ。絶対に強いやつだ。
「よりによって、本物の幹部!?」
「そのようです!」
レティシアが答えるが、声に一切の揺らぎはない。すごいなこの人。本当に。
ガルドスはレティシアではなく、その背後のユウトへ視線を移した。
「……ほう」
兜の奥の赤い眼が細まる。
「貴様か。噂の異邦人というのは」
「なんで敵にも伝わってるんだよ!」
「王国で奇妙な兵装を振るう者あり――耳に入らぬわけがない」
ぞっとした。
噂、もう敵陣まで届いているのか。
ミリスが後方から魔術陣を展開しつつ怒鳴る。
「ユウト! あれの障壁、普通じゃ抜けない! 近づければ崩せる可能性がある!」
「近づければって、あの大剣持ってるやつに!?」
「そう!」
「雑だなあ!」
だが、言っていること自体は正しいのだろう。
実際、前線の兵たちはあの障壁を抜けず、反撃らしい反撃もできていない。
レティシアが低く言う。
「私が道を開けます」
「またそれ!?」
「今しかありません!」
ガルドスが鼻で笑う。
「面白い。なら来い、王国の騎士」
次の瞬間、地面が抉れた。
ガルドスが踏み込んだのだ。
巨体とは思えない速度で距離を詰め、大剣を振り下ろす。
レティシアがそれを紙一重で躱し、逆袈裟に斬り込む。だが刃は障壁に弾かれ、甲高い音を立てるだけだった。
「硬っ……!」
「当然だ」
ガルドスがもう一撃。
今度はレティシアが受けきれず、半歩、いや一歩下がる。重い。とにかく一撃が重すぎる。
周囲の兵も援護に入るが、槍は障壁に弾かれ、魔術は薄く流される。まるで鉄壁だった。
「くそっ……!」
レティシアが歯を食いしばる。
その背を見た瞬間、ユウトの中で何かが決まる。
いや、いつものように覚悟とか勇気とか、そんな綺麗なものではない。
このままだと本当にまずい。レティシアがやられる。砦も抜かれる。だったら、やるしかない。そういう切羽詰まった判断だ。
「うわあああもうっ!」
紙袋からそれを引っ張り出す。
戦場のど真ん中で構えるには、あまりにも情けない見た目。
だが今さらだ。今さら見た目の恥ずかしさを気にしている場合ではない。
スイッチを入れる。
ぶぉん。
低い振動音が、戦場の喧騒の中でも妙にはっきり響いた。
ガルドスの眼が、その瞬間だけぴくりと動く。
「……それか」
「知ってる感じ!?」
だが知っていようがいまいが関係ない。
ユウトは半泣きのまま前へ出た。
「レティシア、下がって!」
「ユウト殿!?」
「近づかないと意味ないんだろ!?」
自分で言っていてやけくそだと思う。
だが他に道がない。
ガルドスが大剣を振り上げる。
赤い眼が、今度は完全にユウトを捉えていた。
「来るか、異邦人」
「来たくて来てるわけじゃない!」
叫びながら、ユウトは踏み込んだ。
怖い。
圧がすごい。
四天王とかいう単語の説得力がありすぎる。
大剣が振り下ろされる寸前、レティシアが横から割り込み、剣で軌道を逸らした。衝撃で彼女の身体が弾かれる。だが、その一瞬だけガルドスの体勢が開いた。
「今だ!」
ミリスの声。
ユウトはほとんど反射で、そのままガルドスの胸部――魔装甲の中心へ、それを押し当てた。
次の瞬間。
ぶるり、と。
ガルドスの全身が、明らかに震えた。
「……っ!?」
初めて、ガルドスの表情が変わった。
障壁の表面に細かな波紋が走り、黒鉄の魔装甲に蜘蛛の巣のようなひびが広がる。
びき、びきびき、と、嫌な音がした。
「なっ……!?」
ガルドスが一歩下がる。
魔装甲の胸部に、はっきりと亀裂が入っていた。障壁も完全には消えていないが、明らかに乱れている。
ミリスが後方で叫ぶ。
「通った! 障壁と装甲が同時に共振してる!」
「やっぱりそうなるのかよ!」
ユウト自身も叫びたい気分だった。
ガルドスは大剣を構え直したが、その動きには先ほどまでの余裕がなかった。赤い眼が、はっきりと警戒を宿す。
「その杖……」
低い声が唸る。
「危険だ」
そして、背後の魔族兵へ吠えるように命じた。
「あれだけは、近寄らせるな!」
戦場の空気が変わった。
さっきまで王国兵を圧倒していた魔族兵たちが、一斉にこちらを意識し始める。
つまり、ユウト個人が脅威認定されたのだ。
「うわ、最悪の展開!」
「でも効いてる!」
ミリスが嬉しそうなのが本当に腹立たしい。
レティシアがすぐ横へ戻り、ユウトの前へ半身で立つ。
「下がらないでください! 今、向こうはあなたを恐れています!」
「恐れられて嬉しい状況じゃないんだよ!」
だが、その恐れは確かに本物だった。
ガルドスはそれ以上無理に踏み込んでこなかった。いや、来られなかったのかもしれない。魔装甲のひびは広がったまま、障壁も安定を失っている。王国側の兵がそこへ一斉に押し返し、ようやく前線が持ち直し始めた。
「押せ! 今だ!」
現場指揮官の怒号。
兵たちが士気を取り戻す。
ミリスの魔術が飛び、レティシアが斬り込み、ガルドスの周囲にいた魔族兵が少しずつ後退する。
ガルドスは舌打ちにも似た唸りを漏らした。
「……潮時か」
「逃がすな!」
誰かが叫ぶ。
だがガルドスは無理をしなかった。自ら前線を切り開くように大剣を振るい、部下を引き連れて後退する。その背に、明らかな慎重さがあった。
最後にもう一度だけ、赤い眼がユウトを見る。
「異邦人」
「な、なに」
「次は、同じと思うな」
「そっちこそ!」
負けじと言い返したものの、声がちょっと裏返った。
ガルドスはそれを気にした様子もなく、黒い兵たちを率いて砦外縁の森へ消えていく。
ようやく、戦いが終わった。
◇
張りつめていたものが切れたのは、敵が完全に退いたあとだった。
ユウトはその場にへたり込み、起動を切ったそれを握ったまま、荒く息を吐く。
「はあ……はあ……」
心臓がうるさい。
手も震えている。
怖かった。今までで一番、はっきり怖かった。
「ユウト殿!」
レティシアが膝をつく。兜もつけていない顔がすぐ近くにあって、ユウトは少しだけ気が抜けた。
「無事ですか!」
「一応……たぶん……」
「怪我は」
「ない、と思う」
「ならよかった」
その言葉だけで、妙に安堵してしまう。
ミリスもすぐ近くまで来ていた。
こちらは安堵というより興奮が勝っている顔だ。
「すごいわね!」
「第一声がそれ!?」
「だって四天王級の魔装甲をひび割れさせたのよ!? 障壁越しに! 普通ありえない!」
「普通じゃないのは知ってる!」
「今の記録、絶対あとで再確認する」
「俺の精神状態の記録も残しておいてくれ!」
砦の兵たちが、少し離れたところからこちらを見ていた。
顔には疲労と驚愕、それに明らかな感謝と畏怖が混ざっている。
「四天王を退かせた……」
「本当に……」
「異邦の……」
「その続き、言わなくていいからね!?」
だが、もはや止めても遅いのだろう。
四天王ガルドス。
その名乗りは、敵側にとっても味方側にとっても重かったはずだ。その一角を、完全勝利ではないにせよ、明確に警戒させて退かせた。その事実がある以上、噂はさらに大きくなる。
ユウトは頭を抱えたくなったが、もう体力が足りなかった。
レティシアが静かに言う。
「少なくとも、砦は守られました」
「……うん」
「あなたのおかげです」
「レティシアが止めてくれたからだよ」
「それでも、最後に通したのはあなたです」
否定できない。
ミリスが珍しく少しだけ落ち着いた声で言う。
「向こうも認識したわね」
「なにを」
「あなたの兵装を、明確な脅威として」
「嬉しくない情報だなあ……」
「でも重要よ。今まではこっちだけが一方的に驚いていた。でも今のは違う」
ミリスは森の方を見る。
「四天王が、“危険だ”と判断した」
その言葉の意味は、思っていた以上に重かった。
王都の噂ではない。
神殿の持ち上げでもない。
敵の最高幹部級が、自分の手にあるこれを本気で危険視したのだ。
ぞくりとする。
そして同時に、もっと嫌な予感もする。
「……向こう、次は対策してくるよな」
「確実に」
ミリスが言う。
レティシアも、強く頷いた。
「ですが、こちらも手を打てます」
「そうかもしれないけど……」
ユウトは紙袋へそれを戻す。
薄桃色の最終兵器は、何も知らない顔で沈黙していた。
「ほんと、どうしてこうなるんだろうな」
誰に向けたのかも分からない呟きが、夕暮れの砦に落ちる。
だが答えはない。
あるのは、守られた砦と、退いていく魔王軍と、これからさらに大きくなるであろう噂だけだった。
そして遠く森の奥では、ガルドスが胸のひび割れた魔装甲を押さえながら、低く唸っていた。
「異邦人……」
赤い眼が、戦場で見た薄桃色の兵装を思い返す。
「次は、砕く」
その声音には、怒りよりも強い警戒があった。




