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第3話 騎士団、跪く

朝は、最悪の鐘の音で始まった。


 ごん、ごん、ごん、ごん、と。

 腹の底にまで響くような重たい鐘声が、石造りの砦全体を叩き起こすみたいに鳴り渡る。


「――っ!?」


 新堂ユウトは、粗い毛布にくるまったまま飛び起きた。


 一瞬、自分がどこにいるのか分からない。見慣れない石壁、木枠の小窓、簡素な机、椅子、鉄の燭台。ようやく昨夜の出来事が一気に脳内へ雪崩れ込んできて、胃がきゅっと縮んだ。


 異世界。

 砦。

 ゴブリン。

 レティシア。

 そして紙袋の中の、絶対に英雄譚の中心に置いてはいけない最終兵器。


 鐘は止まらない。外では人の怒鳴り声と、ばたばたと駆ける足音が重なっていた。


「なんだ……何事だよ……!」


 慌ててベッドから降りる。昨夜、食事のあとに軽く身体を拭かせてもらっただけで、服はそのままだ。皺の寄ったシャツに袖を通し直し、黒い上着を引っかける。革靴を履き、机の上に置いていた紙袋を掴んだ。


 正直、持ちたくない。

 だが、昨夜のことを思い出せば、持たない方が命に関わる可能性が高い。


 扉を開けると、通路を兵士たちが走り抜けていった。鎧の金具が鳴り、革靴が床を打ち、怒声が飛ぶ。


「東側柵門付近に魔物の群れ!」

「弓兵を上に回せ!」

「補給庫前は塞げ、絶対に抜かせるな!」


 魔物の群れ。


 聞いた瞬間、ユウトの背筋に冷水を浴びせられたみたいな震えが走った。昨夜のゴブリンの黄色い眼が脳裏に蘇る。あれが一匹や二匹ではなく「群れ」で来るのか。冗談じゃない。


「おい、新入り! 何を突っ立ってる!」


 通路の先から、髭面の男――砦長イーグルスが怒鳴った。


「し、指示待ちです!」


 社会人の癖で反射的にそう答えた自分が嫌になる。

 イーグルスは大股で近づき、ユウトの顔と紙袋を見て、眉間に深い皺を刻んだ。


「状況は最悪だ。夜明け前から魔物どもが森から湧いた。数が多い。通常の小競り合いではない」


「え、ええと……俺、何をすれば」


「本来なら客人は地下倉庫へ避難だ。だが」


 イーグルスの視線が、また紙袋に落ちる。


 やめてくれ、その視線。

 頼むからそんな神秘的なものを見る目で紙袋を見るな。


「君には、最終的に頼ることになるやもしれん」


「いや、なんでそうなるんですか」


「《震界の魔杖》が本物なら、今この砦にある最強戦力のひとつだ」


「本物も何も、だからそれただの――」


 言いかけたところで、通路の向こうから女性の声が飛んだ。


「隊長!」


 レティシアだった。


 昨夜とは違い、完全武装だ。銀青の鎧をまとい、長剣を佩き、金髪を高く束ねている。眠気など最初から存在しないみたいな鋭い顔でこちらへ来るなり、彼女はユウトを一瞥し、ほんのわずかに安堵したように息をついた。


「ご無事で何よりです」


「いや、こっちはまだ何もされてないので……」


「東柵門にゴブリン、コボルト、牙猪まで混じっています。数が読めません。誘導された可能性があります」


「魔王軍か……?」


 イーグルスの声が低くなる。


「断定はできません。ですが、ただの偶発的な襲撃にしては統率が取れすぎています」


 ユウトはその会話を聞きながら、ぞっとした。


 ゴブリンだけでも嫌なのに、コボルト? 牙猪?

 名前だけで嫌な予感しかしない。しかも統率が取れているって、雑魚モンスターの群れがチームプレイしてくるってことだろうか。ゲームならともかく、現実でそれは勘弁してほしい。


「ユウト殿」


「はいっ」


 レティシアに名前を呼ばれて、反射的に背筋が伸びる。

 彼女は真っ直ぐにこちらを見た。


「この砦は小規模です。防衛線が崩れれば、兵も住民も無事では済みません」


「……はい」


「ですので、どうか心づもりだけはしておいてください」


「心づもりって」


「あなたの兵装の力を、お借りすることになるかもしれません」


「いや、昨日のあれは本当に事故みたいなもので」


「事故であの威力なら、なおのことです」


「論理がおかしいんだよなあ……」


 そんな会話をしている間にも、外の騒がしさは増していく。

 木が軋む音。何かがぶつかる鈍い衝撃。矢を放つ弦の音。遠くから聞こえる、獣とも人ともつかぬ叫び声。


 イーグルスが即断した。


「レティシア、東柵門へ戻れ。ヴァンス隊と合流しろ。私は北側に回る」


「はっ」


「シンドウ・ユウト」


「は、はい」


「君はまず地下倉庫へ。正直に言えば、戦場に立ってもらうのは最後の最後だ。だが、その最後が来たら……頼む」


 その「頼む」がやけに重たくて、ユウトは返事に詰まった。


 自分はただの就活失敗気味の青年だ。

 勇者でもなければ軍人でもない。誰かを守るために戦えるような人間でもない。


 だが、昨夜ゴブリンに殺されかけたとき、自分の手の中のあれが、明らかに人間離れした何かをやらかしたのも事実だった。


「……分かりました」


 そう答えるしかなかった。


 レティシアは一度だけ頷くと、踵を返し、嵐みたいな勢いで走っていった。イーグルスも別方向へ消える。通路に残されたユウトは、しばらくその場で固まっていたが、やがて我に返って地下倉庫への矢印らしき印を探した。


 このとき、彼はまだ甘かった。


 地下に逃げ込めば、そこでじっとしていれば、この騒動は終わるかもしれない。

 そんな期待を、ほんの少しだけ持っていたのだ。


 だが世の中はたいてい、期待を裏切る方向にだけ仕事が早い。


   ◇


 地下倉庫は、石段を下りた先の湿った空間だった。


 樽、木箱、干し肉の棚、布袋に入った穀物。避難してきたらしい非戦闘員が十数人、怯えた顔で身を寄せ合っている。料理番らしい中年女性が子どもを抱き寄せ、痩せた事務方らしい男が震える手で祈りのように指を組んでいた。


 ユウトは入口近くの壁際に立ち、紙袋を抱えたまま落ち着かずに周囲を見回した。


 ここにいれば安全。

 そう思いたい。


 だが、上から響いてくる音が、それを許してくれない。

 重い衝撃音。何かが壊れる音。短く鋭い悲鳴。命令の怒号。矢羽根が風を裂く連続音。


 この砦が、今まさに噛み砕かれようとしている。そんな気配が、石壁越しにも伝わってくる。


「お兄ちゃん」


「ひゃっ!?」


 不意に声をかけられて変な悲鳴が出た。


 見れば、七つか八つくらいの女の子がこちらを見上げていた。栗色の髪を肩で切り揃えた子で、大きな瞳が不安そうに揺れている。


「だいじょうぶ?」


「え」


「こわいよね」


 そう言われて、ユウトはしばし言葉を失った。

 たしかに怖い。めちゃくちゃ怖い。だが慰められる側だとは思っていなかった。


「……うん、まあ、怖いね」


 正直に答えると、少女はこくりと頷いた。


「でも、きっとレティシアさまがなんとかしてくれるよ」


 その無垢な信頼に、ユウトは余計に胸が苦しくなった。


 レティシアは強い。

 見た感じ、間違いなくこの砦でも中心戦力だろう。けれど一人で全部どうにかできるほど、物事は優しくないはずだ。


 ごん、と今までで一番大きい音が上から響いた。倉庫の天井から細かな砂がぱらぱら落ちる。誰かが悲鳴を上げた。


「柵門だ……!」

「破られたのか!?」

「いやああ……」


 避難している人々の間に動揺が広がる。

 ユウトも心臓が喉元まで跳ね上がった。


 ここにいていいのか。

 いや、いて何ができる?

 そもそも上へ出たところで、自分は戦えない。剣も弓も魔法もない。あるのは紙袋の中の説明困難物体だけだ。


 そのときだった。石段の上から血相を変えた兵士が駆け下りてきた。


「倉庫番! 補助槍を出せ! 東側が抜かれかけてる!」


 彼は人々の存在に気づくと舌打ちし、焦ったように周囲を見回した。ユウトと目が合う。兵士の顔がはっと変わった。


「お、おお……」


 なんだその反応。


「神器の……!」


「違います」


 条件反射で否定したが、兵士は聞いていないらしい。息を切らしながら一歩近づき、ほとんど拝むような顔になる。


「どうか……どうか、お力を」


「いや、でも俺、ほんとに使い方とかそんな分かってるわけじゃ」


「隊長が! レティシア隊長が前に出てます! でも数が多すぎる!」


 その一言が、妙にまっすぐ胸に刺さった。


 ユウトは、昨夜の彼女の背中を思い出す。

 森の中で、自分を庇うように前に立った銀青の騎士。

 不器用なくらい真面目で、会話は盛大に噛み合わないのに、それでも「客人です」「恐れる必要はありません」と言ってくれた人。


 あの人が前で戦っている。

 たぶん本気で、命を張って。


「……くそ」


 自分でもよく分からないまま、ユウトは紙袋の持ち手を握り直した。


「場所、案内してください」


   ◇


 地下から地上へ戻ると、砦の空気はもう昨夜と別物だった。


 焦げ臭い。血の匂いも混じっている。

 東側の柵門近くでは木材がひしゃげ、簡易 barricade が半壊していた。矢が何本も突き立ち、兵士が怒鳴りながら押し返している。


 その向こうにいた。


 ゴブリン。コボルト。牙猪。


 ゴブリンは昨夜見た通りの緑色の小鬼だが、数が違う。十や二十ではきかない。コボルトは犬頭の人型で、粗末な槍を持っている。牙猪は文字通り、大型犬より一回り大きい猪に巨大な牙が生えたような魔物で、突進するたび木柵を削っていた。


「うわ、無理無理無理無理!」


 ユウトの足が止まる。


 なにこれ。戦争じゃん。

 いや、たしかに砦防衛戦みたいなものなのだろうが、映画やゲームの画面越しに見るのと、実際に目の前で見るのでは迫力が違いすぎる。生き物の熱と殺意がそのまま押し寄せてきて、膝が笑う。


「下がってください!」


 鋭い声とともに、一匹のゴブリンが木柵を乗り越えようとした瞬間、その首が銀の軌跡で飛んだ。


 レティシアだった。


 血飛沫すらきれいに見えるほど無駄のない剣筋。彼女は着地と同時に二匹目の槍を弾き、返す刃でコボルトの腕を断つ。息も乱れていない。だが、その周囲にはすでに何体もの魔物が倒れており、彼女一人に負担が集中しているのが一目で分かった。


「ユウト殿!?」


 彼女がこちらに気づき、目を見開く。


「なぜここへ!」


「呼ばれました! あと、地下にいても落ち着かなかったので!」


「戻ってください、まだ早い!」


「早いも遅いもわかんないんですよ!」


 叫び返した直後、横から牙猪が突っ込んできた。兵士二人が弾き飛ばされる。柵が軋み、隙間が広がる。そこへゴブリンが雪崩れ込もうとした。


「くっ……!」


 レティシアがそちらへ向かおうとするが、逆側からコボルトの集団が槍を突き出して牽制する。彼女ほどの腕でも、物量差はどうにもならない。


 その様子を見た瞬間、ユウトの中で何かが決まった。


 いや、決意とか勇気とか、そんな立派なものではない。

 ただ、このままだと目の前で人が死ぬ。しかも自分にちょっとだけ止められる可能性がある。だったら、もうやるしかない。そういう、半分やけくその諦めに近かった。


「うわああああもう!!」


 紙袋から例の物体を引っ張り出す。


 朝日の下に晒されると、薄桃色のボディは昨夜以上に場違いだった。こんな修羅場に持ち込まれていいデザインじゃない。兵士が一瞬ぎょっとした顔をし、それから一転して息を呑む。


「おお……」

「まさか……」

「これが……!」


「見るなあああああ!」


 叫びながら、ユウトはとにかくスイッチを入れた。


 ぶぉん、と、あの低く規則的な振動が立ち上がる。


 それだけで空気が変わった。


 足元の砂が細かく跳ねる。手首から肘、肩へと振動が伝わり、周囲の空気に薄い膜のようなものが広がっていく感覚がある。昨日よりはっきり分かった。こいつはただ震えているんじゃない。振動の波を撒き散らしている。


「来るなあああ!」


 半泣きで、迫ってきた牙猪の方へ突き出した。


 次の瞬間、牙猪の突進が途中でぶれた。


 巨体がまるで見えない壁にぶつかったみたいに震え、その牙にひびが入り、頭蓋のあたりから鈍い音が響く。猪は悲鳴とも怒声ともつかぬ声を上げ、そのまま横倒しになって地面を滑った。


「えっ」


 ユウト本人が一番驚いた。


 だが止まらない。

 ひびの入った柵の隙間から飛び込もうとしたゴブリンの槍が、近づいた瞬間にがたがたと共振し、穂先ごと砕けた。コボルトの剣も同じだ。金属が耐えきれず、ばきん、と音を立てて飛ぶ。


 前列の魔物たちが一斉にたじろいだ。


「押し返せえええええ!!」


 誰か兵士が叫ぶ。

 その声で我に返った騎士たちが、今だとばかりに前へ出た。


 レティシアが一気に踏み込む。銀の閃きが朝日に走り、コボルトの槍列が崩壊した。彼女の剣が横薙ぎに薙ぎ払うたび、ユウトの振動に乱された武器はまともに受け止められず、魔物たちは次々吹き飛んでいく。


「シンドウ殿、左です!」


「左ぃ!?」


 反射で左を向ける。そこにちょうど飛びかかってきたゴブリンがいた。


「うわっ近っ!」


 思い切り振り回した。


 ぶぉん、と空気が鳴る。

 ゴブリンの身体そのものには触れていない。だが顔面の前で何かに殴られたみたいに吹っ飛び、後ろの仲間ごと巻き込んで転がった。


 その拍子にユウトは自分でも何が起きているか分からず、足をもつれさせた。


「わっ――」


 転ぶ。


 昨夜と同じだ。

 最悪のタイミングで地面に尻もちをつき、手にしたそれの先端が石畳すれすれを掠める。


 刹那、地面がびり、と鳴った。


 石畳の継ぎ目に沿って衝撃が走り、前方の魔物の足元で連続的に砂と石片が跳ねる。突っ込んできたゴブリンとコボルトが揃ってバランスを崩し、押し寄せていた小鬼の群れが将棋倒しみたいに転がった。


「…………」


 ユウトは座り込んだまま固まった。


 何それ。

 そんな効果あるの?


「今です!」


 レティシアが叫ぶ。

 兵士たちが一斉に前へ出て、倒れた魔物どもを押し返した。槍が突き出され、盾が叩きつけられ、木柵の外へと群れがずるずる押し戻されていく。


 そのとき、森の奥から不快な咆哮が響いた。


 まだいるのか、と絶望しかけたが、前線の魔物たちの様子が変わった。

 さっきまで勢いづいていた連中が、目に見えて怯え始めたのだ。こちらを――いや、正確にはユウトの手元を見て。


「ごぎ……」

「ぎゃ、ぎゃっ……!」


 ゴブリンたちが後退る。

 コボルトも鼻を鳴らしながらじりじり下がる。牙猪ですら、起き上がった個体がそれ以上近づいてこようとしない。


 ユウトは尻もちをついたまま、例の物体を持ち上げた。

 振動はまだ続いている。ぶぉん、ぶぉん、と、あまりにも場違いな規則音。


「え、まさか……俺のせい?」


 答えは、魔物たちの反応そのものだった。


 次の瞬間、森の奥からもう一度咆哮が響く。今度は撤退の合図だったのか、残っていた群れが一斉に身を翻し、ばらばらに逃げ出した。


「……退いた」


 兵士の誰かが呆然と呟く。


 それは砦全体に伝播するみたいに広がった。


「退いたぞ!」

「魔物が下がった!」

「東側、持ちこたえた!」

「助かった……!」


 勝鬨にはまだ早い。だが、確実に崩れかけた防衛線は持ち直していた。


 ユウトはその場にへたり込み、切るのも忘れていたスイッチを慌てて止める。静かになった途端、世界から急に音が引いたような感覚がした。


 その静寂の中、こつ、と甲冑の靴音がこちらへ近づいてくる。


 レティシアだった。


 彼女の頬には土がつき、鎧にも浅い傷がある。だが瞳はさっきまで以上に強い光を宿していた。ユウトの前まで来ると、彼女は深く息を吸い、剣を鞘へ納める。


「シンドウ・ユウト殿」


「は、はい」


「あなたのお力により、東柵門は救われました」


「いや、だから、今のも事故というか半分転んだだけというか」


「それでもです」


 レティシアは、そう言って片膝をついた。


 それだけで十分すぎるほど衝撃だったのに、次の瞬間、周囲の兵士たちまで次々と動いた。


 槍を持った者が。

 弓を背負った者が。

 盾を抱えた者が。

 皆、疲労と土埃にまみれたまま、その場で膝を折った。


「え、ちょ、ちょっと待って!」


 ユウトは青ざめた。


「やめてください! やめて! そんな大したことしてません! というか俺、ただ慌てて転んだだけで――!」


「大したことです」


 レティシアの声は静かだが、揺るがなかった。


「昨夜も、今朝も、我々はあなたの力に救われた」


「いやいやいや、言い方が重い!」


「砦を預かる騎士として、ここに感謝を示します」


 そう言って、彼女は胸に手を当てて頭を垂れる。


 いや待て、困る困る困る。

 こんなの、紙袋の中身の真実を知っている自分からしたら、羞恥どころの騒ぎじゃない。精神が死ぬ。社会的にではなく人格的に死ぬ。


 しかし、誰も立ち上がらない。


 むしろ兵士たちの目はきらきらしていた。

 ああいうのはよくない。尊敬と畏怖がごちゃ混ぜになって、一番面倒な方向に信仰が芽生えかけている目だ。


「……なんだこれ……公開処刑……?」


 ユウトが乾いた声で呟いたところへ、東側から怒鳴り声が近づいてきた。


「何をしている! 持ち場を……っ」


 イーグルスだ。

 彼は血相を変えて駆けてきたが、柵門前の光景――魔物の死骸、押し返された防衛線、片膝をつく兵士たち、そしてその中央で半泣きのユウト――を見て、足を止めた。


「……何が、起きた」


 誰かが震える声で答えた。


「神器の担い手が……東柵門を……」


「……そうか」


 イーグルスは数秒、何も言わなかった。

 それから、砦長という立場を一瞬忘れたみたいに、深々と頭を下げた。


「シンドウ・ユウト殿。砦を代表して礼を申し上げる」


「だからやめてくださいって!」


 叫んでも、もう遅い。


 人という生き物は、一度「助かった」という実感を味わうと、それをもたらした存在に意味を与えたがる。

 ましてここは剣と魔法の異世界だ。得体の知れない現象は、そのまま奇跡や神器に直結する。


 ユウトの必死の弁明など、誰の耳にも届かなかった。


   ◇


 襲撃は完全に収束し、砦はようやく落ち着きを取り戻した。


 死者は出なかったらしい。重軽傷者はいるが、東柵門が完全に破られなかったのが大きかったとイーグルスは言った。そしてその要因が誰か、と問われれば、当然ながら話はユウトに向く。


 向いてほしくなかった。


「……王都への報告内容を改める」


 詰所に戻ったイーグルスが、机に向かいながら重々しく告げた。


「異邦人シンドウ・ユウトは、古代兵装《震界の魔杖》を用いて魔物の集団を撃退。少数砦の防衛戦において決定的戦果を挙げた。兵装は対群戦闘においても極めて有効――」


「待って、待ってください。ほんとに待って」


 ユウトは両手を出した。


「盛りすぎです。いや、事実っぽいところがあるのがまた嫌なんですけど、でも盛りすぎです」


「盛ってはいない」


「主観の問題です!」


 レティシアは詰所の壁際に立ったまま、静かにこちらを見ていた。

 彼女の目に昨夜のような戸惑いはもうほとんどない。完全に、「この人は本物だ」という確信の色が宿っている。


 やめてくれ。

 そんな澄んだ目で見ないでくれ。中身を知ったらたぶん気まずさで向こう三年は目を合わせられなくなる。


「隊長」


 レティシアが口を開いた。


「王都への同行は、予定通り私が」


「もちろんだ」


 イーグルスは頷く。


「もはや一刻の猶予もない。異邦人である点だけでも重要だが、《震界の魔杖》の担い手であり、実戦で結果まで示したとなれば、地方砦の裁量で留め置いてよい存在ではない」


「なんで実績を積んじゃったんだ俺……」


「本日中に出立準備だ。騎馬二騎、護衛四名。ヴァルハルト、お前が全責任を持て」


「はっ」


 レティシアの返事は短く、強かった。


 ユウトは椅子に座ったまま頭を抱えた。

 王都。

 よりにもよって、こういう話が一番拡散しそうな場所じゃないか。田舎の砦で誤解されるだけでも十分つらいのに、中央に行けばもっと偉い人たちがもっと真面目な顔で誤解してくるに決まっている。


「ユウト殿」


 レティシアが近づいてきた。


「お疲れでしょう。ですが、どうかご安心を」


「その台詞、だいたい安心できない前振りなんですよね」


「王都まで、必ず私が護衛します」


「うん、それはありがたいです」


「あなたを、誰にも侮らせません」


「そこはもうちょっと普通に扱ってほしい」


 レティシアは少しだけ目を瞬いた。

 真面目な彼女は、その「普通」の意味が分からないのだろう。


「あなたは普通ではありません」


「即答しないでくれるかな!?」


「失礼しました」


「失礼だと思ってる顔じゃないんだよなあ……」


 詰所の外から、片づけ作業の声が聞こえる。

 勝利の余韻と、疲労と、そして高揚が混ざったざわめきだ。その中に、確かに混じっていた。


「あの方が……」

「本当に紙袋から……」

「いや、あれは封印器だろう」

「レティシア隊長が膝をついたぞ……」


 もうやめてくれ。


 ユウトは机に額を打ちつけそうになるのを堪えた。

 いまこの瞬間にも、誤解が育っている。すくすくと、無駄に立派に。


 けれど、そんな彼の情けなさとは無関係に、物事はどんどん進んでいく。


「シンドウ・ユウト殿」


 イーグルスが改まった声で言った。


「この砦はあなたに救われた。改めて礼を申し上げる。そして、願わくば王都でも、その力を正しく振るっていただきたい」


「正しく振るうも何も、こっちはまだ何が起きてるのかよく分かってないんですけど……」


「だからこそ、王都で調べる価値がある」


 それは正論だった。

 悔しいが、正論だ。


 この世界に来た理由も分からない。どう帰るかも分からない。手元のあれがなぜこんな挙動をするのかも分からない。

 だったら中央へ行くしかないのかもしれない。


 ユウトは長く息を吐いた。


「……分かりました。王都、行きます」


 その一言に、レティシアの瞳が少しだけ柔らかくなる。


「ありがとうございます」


「いや、感謝されるような話じゃ」


「それでもです」


 彼女は本気でそう言っている。

 この人にとっては、もう自分は「変な異邦人」ではなく、「砦を救った神器の担い手」なのだろう。


 ユウトはその認識の重さに、改めて頭が痛くなった。


 異世界に来てまだ一日も経っていない。

 それなのに、就活の心配どころではない立場に放り込まれてしまった。


 紙袋の持ち手を握る。

 中にある薄桃色のそれは、何も知らない顔で沈黙していた。


「……お前、ほんと何なんだよ」


 小さく呟く。


 当然、答えは返ってこない。


 だが、この異世界ではその沈黙さえも、たぶん勝手に意味を与えられていくのだろう。


 こうして新堂ユウトは、本人の理解も羞恥も置き去りにしたまま、砦を救った英雄として王都へ向かうことになった。

 そしてその話は、彼が思っているよりもずっと早く、ずっと大げさに広まり始めていた。

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