第1話 紙袋の中の最終兵器
人生には、できれば持ち歩きたくない物というものがある。
たとえば、就職活動帰りの夜、駅前の明るい通りを歩く二十二歳の男の手にぶら下がっている紙袋の中身が、どうにも説明しづらいハンディタイプの電動マッサージ機だったりする場合だ。
新堂ユウトは、雑居ビルの窓に映った自分の姿を見て、深く、深くため息をついた。
黒の安物スーツ。少し緩んだネクタイ。くたびれた革靴。
就活帰りの青年としては、まあ、どこにでもいる部類だろう。
ただし、右手の紙袋さえなければ。
「……なんで今日に限って、こんなもの持って帰る羽目になるんだよ……」
小さく呟く。
すれ違った女子高生二人組が、一瞬だけ紙袋を見て、次の瞬間には何も見なかったふうを装って通り過ぎていった。
やめろ。そういう気遣いが一番刺さる。
事の発端は昼間だった。
面接を終え、気力も体力もすべて削られたユウトが、駅前をふらふら歩いていたところ、昔の知り合いにばったり会ったのだ。
そこから先の経緯は、思い出すだけで頭を抱えたくなる。
荷物を一時的に預かってほしいだの、受け取り先に行けなくなっただの、誤解を招くから詳しくは聞くなだの、気づけばこの紙袋が自分の手にあり、しかも中身を見た瞬間に「いや無理だろ」と突っ込みたくなる代物だった。
断れなかった自分も悪い。
しかし、社会は理不尽だ。今日の面接も理不尽だったし、帰り道も理不尽だ。
街路樹の葉を揺らす春の夜風が、やけに身にしみた。
「はあ……せめて家に着くまで誰にも会いませんように」
紙袋の持ち手をきつく握る。
コンビニの明かりも、人通りの多い駅前通りも、今のユウトには敵でしかない。できるだけ人目を避けて裏道に入り、そのままアパートへ帰るつもりだった。
角を曲がった、そのときだった。
視界の端で、白い光が瞬いた。
「――え?」
次の瞬間、足元に幾何学模様の光が広がった。
アスファルトの上に浮かび上がった円陣は、青白い線を幾重にも絡ませながら、まるで生き物のように脈打っている。
心臓が止まりそうになる。
「ちょ、ちょっと待て、なんだこれ」
退こうとした。だが足が動かない。
靴底が地面に縫い付けられたように重い。光は一気に強まり、まるで真昼の太陽を直視したみたいに視界を塗りつぶしていく。
耳の奥で、誰かの声が響いた気がした。
理解不能な言語。
祈りのようでもあり、命令のようでもある声。
「は!? いや待っ――」
叫びは最後まで出なかった。
体が、浮いた。
落ちる。
沈む。
引き裂かれる。
胃の奥がぐるりとねじれ、全身の感覚が一度ばらばらになったあと、猛烈な衝撃が背中に叩きつけられた。
「がっ……!」
肺から息が押し出される。
湿った土の匂いが鼻を刺した。頬に触れる地面は冷たい。木々のざわめきと、どこかで鳴く鳥の声。遠くに水の流れる音まで聞こえる。
ユウトはしばらく動けなかった。
ようやく身を起こし、呆然と周囲を見回す。
「……は?」
森だった。
街灯も、ガードレールも、コンビニの明かりもない。
見上げれば、頭上を覆うのは夜の街の鈍い空ではなく、木々の枝葉の隙間に広がる深い紺色の空だ。星まで見える。しかも妙に近い。
目の前には、見覚えのない巨大な樹木。
足元は土。草。石。
耳を澄ませば、さっきまで聞こえていたはずの車の走行音も人の気配も、どこにもない。
「……いやいやいやいや」
笑うしかなかった。
意味が分からない。
夢かと思って頬をつねる。痛い。普通に痛い。
パニックで呼吸が浅くなる。スーツのポケットを探り、スマホを取り出した。画面はつく。だが、圏外の表示が虚しい。
「電波もないのかよ……っ」
喉がからからになる。
とにかく落ち着け。落ち着いて状況整理だ。転移だとか召喚だとか、そんな馬鹿みたいな単語が頭に浮かぶが、さすがに現実味がなさすぎる。もっと合理的な説明が――
がさり。
背後の茂みが鳴った。
ユウトの全身が跳ねる。
「だ、誰かいるんですか!?」
返事はない。
ただ、複数の気配が、草を踏む音とともに近づいてくる。
月明かりの差し込む木立のあいだから、ぬるりと姿を現したものを見て、ユウトは凍りついた。
それは、人型だった。
だが人間ではない。
背丈は子供ほど。緑色の皮膚。ぎょろりと光る黄色い眼。裂けた口から覗く細かな牙。手には錆びた短剣や棍棒のようなものを持っている。
一体だけではない。
三体。四体。いや、もっとだ。
「……ゴブリン?」
自分の口から、その言葉が漏れた。
ゲームや漫画で何度も見たことのある、あの典型的な雑魚モンスター。
だが現実のそれは、冗談にならない不気味さと生臭さをまとっていた。
ごぎゃ、と甲高い声を上げる。
次の瞬間、最前列の一体が跳びかかってきた。
「うわああああああっ!?」
ユウトは悲鳴とともに後ずさった。
しかし慣れない森の地面に足を取られ、盛大に転ぶ。尻もちをつき、手をついたところで、紙袋が脇に転がった。
最悪だ。
ゴブリンは容赦なく距離を詰めてくる。
短剣が月明かりを反射した。嘘だろ。死ぬのか。こんな意味不明な場所で、こんな意味不明な化け物に刺されて終わるのか。
「くそっ……!」
反射的に、ユウトは一番近くにあったものを掴んだ。
紙袋の中身。
さっきまで持ち歩いていた、できれば一生人前で取り出したくなかったハンディ電動マッサージ機だった。
今この状況で、それを握っている事実があまりにも情けない。
だが武器になりそうなものは他にない。細長いグリップ部分をひっつかみ、ユウトはやけくそで前に突き出した。
「来るなああああっ!」
その拍子に、親指が側面のスイッチへ触れた。
ぶぉん――と、低く、しかし妙に骨に響く振動音が鳴る。
直後だった。
空気が、震えた。
「……え?」
目の前のゴブリンの短剣が、見えない何かにぶつかったみたいに弾かれた。
金属が甲高い悲鳴を上げ、刀身に細かな亀裂が走る。次の瞬間、ぱきん、と乾いた音を立てて砕け散った。
ゴブリンが固まる。
固まったのはユウトも同じだった。
「は?」
理解が追いつかないまま、手元の“それ”はぶるぶると震え続ける。
振動が腕を通じて肩まで伝わる。だが不快ではない。むしろ妙に強く、規則的で、まるで何かの機械音が空間そのものを揺らしているようだった。
ごぎゃっ、と別のゴブリンが怒鳴りながら棍棒を振り上げる。
ユウトは反射的にそれを向けた。
ぼ、ん、と、鈍い破裂音がした。
棍棒の先端が粉々に砕け、破片が飛ぶ。
さらに後方の岩肌にひびが走り、小石がぱらぱらと落ちてきた。
「え、え、え、何これ!?」
ユウトが叫ぶ。
ゴブリンたちのほうが怯えた顔をした。
おい、なんでお前らが引いてるんだ。
しかし次の瞬間には、連中も本能で危険を悟ったのか、一斉に襲いかかってきた。
四方から飛び込んでくる小柄な影。ユウトは半泣きのまま、ただ腕を振り回した。
「うわっ、やばっ、来るなって! 来るな来るな来るな!」
ぶぉん、ぶぉん、と振動音が森に響く。
当たってもいない。かすっただけだ。なのに、近づいたゴブリンの武器が折れ、牙が砕け、足元の土が爆ぜる。空気に見えない波が走るみたいに、連中の身体が弾き飛ばされていく。
一体が木に叩きつけられ、別の一体は地面を転がり、最後の一体は完全に戦意を失ったのか、悲鳴を上げて森の奥へ逃げ出した。
静寂が戻る。
「…………」
ユウトは、その場で立ち尽くした。
息が荒い。膝が震える。
右手の中では、ピンク色のそれがまだ律儀に振動していた。
「いや、待て待て待て待て」
おかしい。
百歩譲って、相手が驚いて逃げたのはいい。だが、武器が砕け、岩が割れたのは説明がつかない。どう考えてもただの電動マッサージ機であって、モンスターを吹き飛ばす兵器ではないはずだ。
震える指でスイッチを切る。
ぴたり、と音が止まった。
同時に、背後から鋭い声が飛んだ。
「動くな!」
「ひっ!?」
振り向く。
そこに立っていたのは、銀青の鎧をまとった一人の女だった。
月光を弾く胸甲。白銀の肩当て。腰に佩いた長剣。長い金髪を後ろでまとめ、青い瞳を真っ直ぐこちらに向けている。顔立ちは息を呑むほど整っているのに、その表情は凛として厳しかった。
どう見ても、現代日本の人間じゃない。
ファンタジー世界の騎士が、そのまま抜け出してきたみたいな姿だった。
彼女は剣を半ば抜き放ったまま、倒れたゴブリンたちとユウトの手元を交互に見る。
ユウトは反射的に“それ”を背中に隠した。
いや、隠しきれていない。形状的に無理がある。
「ま、待ってください! 違うんです!」
我ながら何が違うのか分からないが、とにかく言った。
女騎士はゆっくりと近づいてくる。鎧の金具が小さく鳴る。彼女の視線は、ユウトの顔ではなく、その手元の品に釘付けだった。
「今の魔力波……いや、あの振動……」
「これは、その、ええと……武器じゃなくて……!」
違う。
少なくとも、こういう使い方を想定した武器ではない。そう説明したかった。だが、こんな相手に何をどう言えばいいのか分からない。
女騎士は、信じられないものを見る目で、ぽつりと呟いた。
「ありえない……記録では失われたはず……」
「え?」
次の瞬間、彼女はすっと剣を鞘に納めた。
そして、驚愕と敬意が入り混じった顔のまま、ユウトの前で片膝をついた。
ユウトは目をむいた。
「ちょ、ちょっと!?」
「失礼をお許しください」
夜風の中、女騎士は胸に手を当て、厳かに頭を垂れる。
「私は王国騎士団所属、レティシア・ヴァルハルト。まさかこのような辺境の森でお目にかかれるとは思いませんでした」
「いや、だから何の話で――」
レティシアは顔を上げた。
蒼い瞳が、真っ直ぐにユウトを射抜く。
「その御手にあるのは、古代兵装《震界の魔杖》――そうですね?」
「…………は?」
森に、間の抜けた声が落ちた。
ユウトは手元を見た。
薄桃色のボディ。丸みのある先端。どう見ても説明しづらい現代グッズ。
次にレティシアを見る。彼女は本気の顔だった。
「いや、違っ……」
否定しようとして、言葉が喉で止まる。
どう違うと説明すればいい。
これは電動マッサージ機で、たぶん本来の用途は肩こりとか、あるいはもっと説明しづらい方向とか、でも少なくとも古代兵装ではなくて――
無理だ。
どう言っても地獄になる未来しか見えない。
「どうかなさいましたか」
「……いや」
ユウトは、乾いた笑みを浮かべた。
笑うしかなかった。
異世界らしき森の中。
ゴブリンを謎の振動で撃退。
目の前には美人騎士。
そして、自分の手には、絶対に胸を張って説明できない最終兵器。
人生、どこでどう間違うとこうなるんだ。
「……それ、後で詳しく話してもらえますか」
レティシアの声音は真剣そのものだった。
ユウトはしばらく沈黙し、やがて力なくうなずいた。
「……はい」
その返事をした瞬間、自分の人生がもう元には戻らない気がした。
月明かりの下、レティシアは安堵したように目を細める。
「ご安心ください。あなたは必ず、王都まで私が護衛いたします。神器の使い手を、このような場所に放置するわけにはいきませんから」
「神器じゃないんだけどなあ……」
「え?」
「いえ、なんでもありません」
言えるわけがなかった。
こうして新堂ユウトは、説明したらたぶん色々終わる秘密を抱えたまま、異世界で最悪の第一歩を踏み出したのである。




