トラウマと魔王
泥団子を作ってからというもの、アリスは前よりも少しだけ、俺のそばで肩の力を抜くようになった。
相変わらず、物音がするとびくりと震えるし、知らない信徒が近づけばすぐ俺の後ろへ隠れる。だが、少なくとも自室の中では、前ほど常に怯えているわけではなくなっていた。
それは良い変化だと思う。
……だからこそ、俺は考えた。
この子のことを、もう少し知らなければいけない、と。
名前しか知らない。
何を怖がるのか、何を覚えているのか、何がきっかけで不安になるのか。
そういうことを何も知らないまま「守る」と言っても、守りようがない。
「なあ、アリス」
「……なに?」
「少しだけ、聞いてもいいか」
アリスは、きょとんと首を傾げた。
俺は出来るだけ軽い口調を意識する。
問い詰めるようになってはいけない。
あくまで、話せるなら、でいい。
「お前、自分のことって、どこまで覚えてる?」
アリスはしばらく黙った。
すぐには答えない。
俺は急かさず、床に落ちた輪を拾いながら待つ。
「……なまえ、は、わかる」
「うん」
「アリスって、わかる」
「それ以外は?」
アリスは困ったように眉を寄せた。
記憶の棚を探るように、宙を見る。
「……あんまり、ない」
「すこしでもいいからおしえてくれないか?」
「ゆめみる……」
小さく呟き、アリスは自分の膝を見る。
「……くらいの」
「暗い?」
こくり、と頷く。
「……くらくて、せまくて……つめたい」
その言葉に、俺は少しだけ背筋が粟立った。
だが、表情は変えないようにする。
「それは、どこかの部屋か?」
「……わかんない」
「誰かいた?」
その問いに、アリスはまた黙り込んだ。
尻尾の先が、落ち着きなく揺れる。
聞きすぎたか。
そう思って、俺はすぐ別の話題に変えようとした。
「いや、無理に思い出さなくていい。今は――」
「……ひかり」
アリスがぽつりと呟いた。
「ひかり?」
「まぶしいの」
「どんな光だ?」
今度は少しだけ、俺の方が声を潜めていた。
アリスの呼吸が、ほんのわずかに浅くなる。
さっきまで輪投げで遊んでいた時の穏やかな顔が、少しずつ曇っていく。
「……いたい、ひかり」
「痛い?」
「……うん。まぶしくて……あつくて……」
アリスが両手で自分の腕を抱きしめる。
その小さな肩が、目に見えて強張った。
まずい。
直感的にそう思った。
俺はすぐにそれ以上の質問を飲み込む。
「もういい、アリス。思い出さなくていい」
そう言って話を切ろうとした、その時だった。
ぱちん、と。
部屋の隅に置いてあった燭台の火が、不自然に大きく膨らんだ。
「……っ」
俺は反射的にそちらを見る。
ただの気のせいではない。
炎が、まるで風もないのに急に煽られたようにゆらめいていた。
しかも一つじゃない。
部屋の奥に置いてあるランプも、壁際の蝋燭も、同じように火が揺れ始めている。
(なんだ……?)
そう思った瞬間、足元の床がびり、と震えた。
「アリス?」
呼ぶと、彼女は俯いたまま両耳を塞いでいた。
「……やだ」
「アリス、顔を上げろ」
「やだ……ひかり、やだ……」
燭台の火がさらに膨れ上がる。
空気が一気に熱を帯び、机の上の紙がふわりと浮き上がった。
俺は立ち上がり、反射的に火元を確認する。
火そのものが、アリスの呼吸に合わせて脈打っているように見えた。
そこでようやく気づく。
この異変の原因は、アリスだ。
「……アリス、こっちを見ろ」
俺はしゃがみ込み、彼女の目線まで体を落とした。
だが、アリスは目をぎゅっと閉じたまま、首を横に振る。
「……こわい」
「大丈夫だ」
「やだ……いたいの、やだ……」
次の瞬間、アリスの足元から熱が噴き上がった。
石床の上に、細いひびが走る。
ひびの隙間から、金色に近い赤い光がじわりと漏れた。
「っ、まず……」
言いかけて、俺は口を閉じる。
「まずい」なんて言葉を今ここで言ったら、余計に不安を煽るだけだ。
保育士としての癖みたいなものだった。
泣いている子供の前で、「大変だ」と口にしてはいけない。
まずは落ち着かせる。
それが先だ。
俺は出来るだけゆっくり息を吸い、声を落とした。
「アリス。聞け」
「……」
「ここは暗いところじゃない」
「……っ」
「ここには俺がいる」
火が、また大きく揺れる。
熱い。頬がじりじりする。
それでも、俺は彼女の前から動かなかった。
「アリス、目を開けなくていい」
「……」
「でも、俺の声だけ聞け」
「……きょうそ、……?」
か細い声。
少しだけ、こちらに反応した。
俺はゆっくり、自分の手を床に置いた。
急に触れば驚かせるかもしれないと思ったからだ。
「今、お前の前に手を置く」
「……」
「嫌じゃなければ、触っていい」
しばらく間があった。
その間にも、火は不安定に揺れ続けている。
紙束の端が焦げ始め、俺は内心で冷や汗をかいていた。
やがて、震える小さな手が、そっと俺の指先に触れた。
熱くない。
ちゃんと、アリスの体温だった。
「……いる」
「ああ、いる」
そこで初めて、アリスがほんの少しだけ顔を上げた。
涙が滲んでいる。
「お前が思い出したくないことなら、今は思い出さなくていい」
「……いいの?」
「いい」
アリスの呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
それに合わせるように、膨れ上がっていた燭台の火も小さくなっていった。
熱気が引く。
床のひびも、それ以上広がらない。
俺は心の底から安堵しながら、でも表には出さずに続けた。
「思い出せる時に、思い出せる分だけでいい」
「……うん」
「無理にしなくていい」
ようやく部屋の空気が元に戻る。
紙束の一枚が焦げて丸まっていたが、それくらいで済んだのは幸運だった。
アリスはまだ俺の指を掴んだまま、小さく震えていた。
俺はその手を握り返し、できるだけ自然に話題を逸らす。
「……何かして遊ぶか?」
「……いま、する気起きない」
「そうか」
少し考えてから、俺はベッドの端に座った。
アリスにも手招きする。
「じゃあ、座ってろ」
「……うん」
彼女は素直に隣へ来た。
俺は背もたれ代わりに壁へ寄りかかり、アリスが落ち着くまで何も聞かなかった。
しばらくして、アリスがぽつりと呟く。
「……こわかった」
「ああ」
「へんなの、おもいだしそうになると、こわい」
「……そうか」
やっぱり、まだ何かある。
この子の中には、思い出そうとすると壊れそうになる記憶がある。
俺はそれを、今無理にこじ開けるべきじゃないと思った。
「なあ、アリス」
「……なに?」
「次からは、怖くなったら我慢しないで言え」
「……いっていいの?」
「いい」
俺は短く答える。
「怖いって言うのは、悪いことじゃない」
「……」
「怖いなら、止まればいい。逃げてもいい。落ち着いてからでいい」
アリスは黙って俺を見た。
その表情はまだ不安げだったが、さっきみたいな怯え方ではない。
「……きょうそ、に、いう」
「ああ」
そこでようやく、俺も少しだけ頭の中を整理する余裕ができた。
今のは偶然じゃない。
アリスが怯えた時、部屋の火が膨らみ、床が割れた。
つまりこの子の力は、少なくとも本人の意志だけで出るものじゃない。
怖い。
不安。
たぶん、そういう感情に引っ張られて漏れる。
(……感情で、力が揺れるのか)
はっきり理屈で分かったわけじゃない。
でも、少なくとも。
怒鳴ったり、追い詰めたり、無理に何かを思い出させたりしてはいけない。
それだけは分かった。
俺は隣のアリスを見る。
彼女はようやく少し落ち着いたのか、俺の袖の端を掴みながらぼんやり前を見ていた。
この子の過去を知りたい。
知れれば、守り方も分かるかもしれない。
ここがどんな世界か、どうして魔王なんて呼ばれているのか、その手がかりにもなるはずだ。
でも。
知ることを急げば、この子をまた傷つける。
そう思うと、胸の奥が鈍く重くなった。
「……今日はもう終わりだな」
俺がそう言うと、アリスが小さく頷く。
「……うん」
「少し休め」
「……きょうそは?」
「俺も休む」
本当は休める気分じゃない。
だが、今はそう言うしかなかった。
まだ何も知らない。
この子の記憶も、魔王という存在の意味も、この世界の正しさも。
それでも、一つだけ確かなことがある。
アリスの力は、ただ強いだけじゃない。
怯えれば漏れ、追い詰めれば暴れる。
たぶん、この子自身にも制御しきれていない。
守るというのは、敵から遠ざけるだけじゃ足りない。
安心できる場所を作ること。
怖がった時に戻ってこられる場所を作ること。
たぶん、それが先だ。
部屋の中は静かだった。
だが、その静けさの下に、ひび割れた石床と焦げた紙が残っている。
今のは、ほんの少し力が漏れただけだ。
それなのにこの有様だ。
この子のことを知るには、順番がある。
急いではだめだ。
そう、自分に言い聞かせるように思った。
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