褒め言葉とガルド
夜明け前の空は、まだ青というより灰色に近かった。
隠し通路を抜けて地上へ出た瞬間、アリスの手がぎゅっと俺の指に絡みつく。
「……きょうそ」
「大丈夫だ。いるから」
そう返すと、アリスは小さく頷いた。
だが、赤い瞳は落ち着かないまま周囲を見回している。
地下とは違う。
風がある。草の匂いがある。遠くで鳥が鳴いている。空は高く、頭上に何もない。その広さそのものが、アリスにはまだ少し怖いのだろう。
先頭を歩くガルドが、振り返らないまま言った。
「今日は北西の見張り小屋を見て、その先の荷継ぎ場まで繋ぐ。南の中継拠点に被害が出てる以上、途中の連絡点も放ってはおけん」
「一度戻る気はないってことか」
「戻ってる暇があるなら先へ進む」
ぶっきらぼうな言い方だった。
だが、今の状況を考えれば当然でもある。
見張り小屋が1つ、南の中継拠点が1つ、連絡が途絶えている。
さらに補給路でも不審な追跡があった。
敵が拠点網を探っているなら、1つ見て終わりにはできない。
「だから隊も4人つけた。途中の小拠点を拾いながら進む」
「最初から強行軍する気満々だな」
「外に出る以上、ぬるいことは言ってられん」
ぴしゃりと返される。
「順番がある」
「悠長に順番を選んでる間に、次が燃えるかもしれねえぞ」
正しい。
腹が立つくらい、正しい。
俺が黙ると、ガルドはようやく少しだけ声を落とした。
「……ただ、最初の区切りは川だ」
「川?」
「見張り小屋へ行く途中の渡り場だ。そこを下る。見通しが利くし、少し落ち着かせるには悪くない」
少しだけ間を置いて、ガルドは付け足した。
「慣れさせたいんだろうが」
俺は目を瞬く。
思っていたより、俺の心を読み取っているらしい。
「時間は取らねえ。だが、そこで一息入れるくらいなら構わん」
「……助かる」
「勘違いするな。進軍の途中だ」
最後の一言できっちり釘を刺してくるあたり、やっぱりガルドらしい。
後方では、ガルドの隊から出た4人が静かに周囲を警戒していた。誰も余計なことは言わない。今日の外出が、ただの散歩ではないと全員分かっているのだろう。
アリスが俺の袖を引いた。
「こや?」
「見張りの場所だな。人がいて、外を見てるところ」
「……ひと、いる?」
「それを確かめに行く」
そう答えると、アリスは少しだけ口を閉ざした。
不安そうだ。だが「やだ」とは言わない。
俺たちはそのまま森の縁に沿って進んだ。
歩き始めてしばらくは、アリスはずっと俺のすぐ横に張りついていた。風が少し強く吹くだけで肩を揺らし、枝のこすれる音にびくりとする。けれど、完全に怯えきっているわけでもない。ときどき足元の花や、葉の上の露に目を留めている。
「息は苦しくないか」
「……だいじょうぶ」
「嫌になったら言え」
「うん」
そう答えながら、アリスの視線は忙しい。
地下の部屋では見たことのないものが多すぎるのだろう。
前を歩くガルドが、不意に言った。
「足元見ろ」
「え?」
「根だ。引っかける」
その言葉の直後、アリスの靴の先が土から浮き出た木の根に軽く当たった。転ぶほどではなかったが、危なかったのは確かだ。
アリスが慌てて足元を見る。
「……ほんとだ」
「外は見る場所が多い。だから余計に転ぶ」
厳しい声だったが、怒ってはいなかった。
俺は少しだけ眉を上げる。
ガルドはそれに気づいても、何も言わなかった。
しばらく進むと、先行していた隊員の1人が小さく手を上げた。
「異常なし」
短い報告。
ガルドは頷くだけで歩みを止めない。
「次の小休止予定地まで、あと少しだ」
「それが川か」
「ああ」
やがて前方から水の音が聞こえてきた。
さらさらと、細く長く流れる音だ。
木々の間を抜けると、そこに川があった。
朝の光を受けた水面が、細かな銀の欠片みたいにきらきらしている。流れは穏やかで、底の丸石まで透けて見えた。風が吹くたびに、水面の光が揺れて砕ける。
アリスが立ち止まる。
「……きれい」
その声は、さっきまでの不安とは違っていた。
目を見開いて、川を見ている。
「これ、ぜんぶ、おみず?」
「そうだな」
「うごいてる」
「川だからな」
当たり前の返事をすると、アリスは少しだけ笑った。
ガルドが周囲を見回しながら言う。
「この先を下って渡る。見張り小屋は川向こうの上だ」
「下るのか」
「橋はない。昔からここを使ってる」
そう言ってから、ガルドはアリスを見る。
「怖いか」
「……ちょっと」
「そうか」
短い返事だった。
だが、突き放してはいない。
「なら無理に先を見るな。足元だけ見ろ。下りはそっちの方が大事だ」
「うん」
アリスは俺の隣に立ったまま、しばらく川を見ていた。
風が髪を揺らすたび、黒髪がさらりと流れる。
俺はその横顔を見ながら、少しだけ胸の力が抜けるのを感じた。
こういう時間が必要だったのだ。
外には怖いものがある。だが、それだけではないと知る時間が。
その時だった。
川辺の浅瀬がばしゃりと跳ねた。
水しぶきを上げて飛び出してきたのは、黒ずんだ鱗に覆われた獣だった。四足で、犬ほどの大きさだが、口が不自然に大きく裂けている。1匹ではない。少し遅れてもう1匹が岸へ這い上がる。
「下がれ」
ガルドの声が飛ぶ。
アリスの手が俺の腕にしがみついた。
前へ出ようとした俺より先に、ガルドが踏み込んでいた。
大剣が唸る。
最初の1匹の胴が真横に弾き飛ばされ、そのまま川辺の石に叩きつけられる。2匹目は横から飛びかかったが、ガルドは半歩ずらしてかわし、柄頭でその顎を打ち上げた。
重い音が響く。
宙に浮いた獣へ、今度は剣が振り下ろされる。
1呼吸。
それで決着だった。
アリスは固まっている。
けれど、あの宝物庫の時のような恐慌ではない。俺の腕を掴んだまま、じっとガルドを見ていた。
ガルドは剣の血を払うと、すぐにアリスの前まで戻ってくる。
そして少しだけ膝を折った。
「怪我は」
「……ない」
「そうか」
短い確認。
だが、その後の声は思ったよりも静かだった。
「今みたいなのが外にはいる。だから危ない」
「……うん」
「でも、危ないから外に出ちゃいけねえってわけじゃねえ。下がれと言われたら下がる。勝手に前に出ない。そうすりゃ助かることもある」
教える口調だった。
叱るでも、脅すでもなく。
アリスはぱちぱちと瞬きをして、それから小さく口を開いた。
「……がるど」
「あ?」
「たすけてくれて、ありがとう」
ガルドが一瞬だけ止まる。
「……当然だ」
「とうぜん?」
「お前は今、守られる側だ」
言ってから、ガルドはわずかに目を逸らした。
こういうやり取りに慣れていないのが見ていて分かる。
だが、アリスはそれで十分だったらしい。
「がるど、つよい」
「まあな」
「でも、こわいだけじゃなかった」
「……何だその言い方は」
眉をひそめるガルドに、俺は少しだけ笑う。
「褒めてるんだろ」
「次は褒める練習でもするんだな」
「子供の誉め言葉に完成度を求めるな」
俺が言うと、ガルドは小さく鼻を鳴らした。
それ以上は何も言わない。
少しの沈黙のあと、ガルドが川の下を顎で示す。
「行くぞ。ここで止まりすぎると次に響く」
「分かってる」
俺は屈んでアリスと目線を合わせる。
「下れそうか」
「……こわい」
「ああ」
「でも」
アリスは川面を見て、それからガルドを見た。
「きょうそも、がるども、いる」
その答えに、ガルドはほんの少しだけ目を細めた。
「よし。下りは俺が先に行く。お前らはその後ろだ」
そう言って、ガルドは斜面へ足を向ける。
川へ下る道は細く、土の下から石が覗いていた。踏み外せば滑りそうだ。だからこそ、ガルドはさっきまでより明らかに歩幅を落としている。
途中、アリスが足を止めた。
どう降りようか迷っていると、ガルドが無言で片手を差し出す。
アリスは一瞬だけ俺を見た。
俺が頷くと、おそるおそるその手を取る。
大きな手だった。
無骨で、傷だらけで、でもしっかりと支える手。
アリスはその手を借りて一歩、また一歩と斜面を下っていく。
最初に外へ出た時みたいに、俺にだけしがみついてはいない。
外は危険だ。
でも、綺麗だった。
そして、怖いものばかりでもない。
そう思いながら、俺たちは川の下りを進んでいった。
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