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最悪の目覚めと魔王

「――せんせー、バイバイ!」

「ああ、バイバイ。また明日。車、気をつけるんだぞ」


夕暮れの園庭。最後の一人を保護者に引き渡した時、時計の針はすでに十九時を回っていた。


俺、佐藤和希さとう かずきは、中堅の男性保育士だ。

保育士という仕事は好きだ。子供たちの成長を特等席で見守り、泥だらけになって笑い、共に泣く。これ以上の天職はないと思っていた。


だが、現実は残酷だ。

「和希先生、悪いんだけど明日の行事の資料、今夜中に修正しといてくれる?」

「先生、この間の会議録まだだよね?」


……現場は、異常なまでにブラックだった。

人手不足を根性論で補い、低賃金と膨大な事務作業が、情熱という名の燃料を少しずつ、着実に削り取っていく。


その日の俺は、特に限界だった。

連日の残業と、行事準備による三日連続の徹夜。

視界の端がチカチカと火花を散らし、頭を振るたびに脳がワンテンポ遅れて揺れるような感覚があった。


「……終わった」


日付が変わる頃、ようやく園の戸締まりを終える。

土砂降りの雨。傘を差す手すら重い。


(……一刻も早く、布団に入りたい)


足元はフラフラで、まるで見えない泥沼を歩いているようだった。

最寄り駅へ向かう横断歩道。

いつも通り、指差喚呼するくらい慎重に左右を確認する。

信号が青くなる。


(あ……早く、帰らなきゃ……)


重い足を一歩、前に踏み出した。


直後、激しい雨音を切り裂いて、鋭いブレーキの音が鼓膜に突き刺さった。


「――っ!?」


横から迫る、巨大な車体。


ドォン、という衝撃。

体がふわりと宙に浮く。


不思議と、痛みはなかった。

ただ、アスファルトに叩きつけられた時、ふと思った。


(あ、明日……子供たちが待ってるのに。……約束、守れなかったな……)


遠ざかっていく意識の中で、最後に思い出したのは、今日一緒に泥団子を作った子の笑顔だった。


意識は、そこで漆黒の闇に飲み込まれた。


――はずだったのだが。


「……っ」


息を吸った瞬間、喉がひりついた。 耳の奥では、低い耳鳴りがずっと鳴っている。


(……病院、じゃない)


ぼんやりした意識のまま、まず自分の体を確かめる。 指は動くか。腕は上がるか。脚は折れていないか。胸は潰れていないか。


動く。 だが、感覚がおかしい。


重い。


腕を持ち上げた瞬間、違和感が一気に現実味を帯びた。 腕が太い。手が大きい。指の節のごつさが、俺のものじゃない。


「……え」


声を出して、背筋が凍った。 低い。喉の奥に響くような、重い男の声。


反射的に顔を上げる。


天井は石だった。 古びた神殿のような広い空間。壁には松明の火が揺れている。


そして、周囲には黒いローブを纏った人影が何十人もいた。 全員が、息を呑んだようにこちらを見ている。


(……なにこれ)

(事故のあと……病院じゃなくて?)


すぐには起き上がらず、床に手をついたまま周囲を見る。 誰が偉そうか、誰が武器を持っているか、逃げ道はあるか。


すると視界の端に、べったりと赤黒いものが見えた。


床一面に描かれた巨大な魔法陣。 その溝を満たしているのは、どう見ても血だった。


すぐ脇には、毛皮、鱗、砕けた角。 そして、えぐり出された心臓らしき塊が、いくつも積み上がっている。


思わず喉が引きつる。


(……夢じゃない)

(何だこれ。犯罪現場? カルト?)


完全に理解できない。 だが、一つだけはっきりしている。


ここは、まともな場所じゃない。


「……お目覚めですか。我が主、偉大なる教祖様」


女とも男ともつかない、抑えた声が響く。


教祖。


一瞬、自分の後ろを見そうになった。 だが全員の視線は、間違いなく俺に向いていた。


(……俺?)


誰かが震える声で言った。


「……教祖様、儀式は成功したのでしょうか」


最初に聞いたのは、ただの聞き間違いではなかった。

確かにその視線は、俺を見ていた。


がやがやと、周りの信者らしき人々が、騒がしくなる。


(儀式?) (待て。ちょっと待て。何を言ってる?)


異世界だとか転生だとか、そういう単語が頭の片隅をかすめた。 でも、そんなものを現実として飲み込めるほど、俺の頭は整理できていない。


ただ、今ここで長く喋ったらまずいということだけは分かった。


何も知らない。 なのに全員が俺に答えを求めている。


必死に今のこの滅茶苦茶な状況を整理しようとした、その瞬間。

魔法陣が光った。


血が泡立ち、生贄の心臓が脈打つ。

空気が歪み、耳鳴りが激しくなる。


そして――中心に、何かが現れた。


小さな影。


黒い髪の、幼い少女だった。


年齢は5歳か6歳ほどだろうか。

肩まで伸びた黒髪は雨に濡れたように艶があり、その隙間から小さな角が二本、覗いている。


背中のあたりでは、細い尻尾が不安そうに揺れていた。


なのに――


近くにいるだけで、胸を握りつぶされるような圧がある。


幼い外見と、あまりにも不釣り合いな威圧感。


少女はふらつきながら、大きな赤い瞳で俺を見つめた。


「……ここ、どこ……?」


幼い声。

不安げな目。


信徒たちが歓喜に沸く。


「魔王様だ……!」

「成功だ!」


一気に声が押し寄せてきて、少女の肩がびくりと跳ねた。 足元の石床が、ぴしりとひび割れる。


(まずい)


理屈は分からない。意味は分からなくても、それだけは分かった。 この子をこれ以上刺激したら、もっと大変なことになる。


怖かった。 正直、腰が引けた。 得体の知れない存在だ。周囲は魔王と呼んでいる。普通に考えれば近づきたくない。


でも、それ以上に。 怯えた子供を大勢で囲んで騒いでいるこの光景の方が、俺には見ていられなかった。


俺は息を呑み、喉の奥の震えを押し殺して、短く言った。


「……下がれ」


声が自分でも驚くほどよく響いた。 ざわめきがぴたりと止まる。


もう一度、今度はもう少しだけ強く言う。


「今は近づくな。刺激するな」


全員の視線が集まる。 何を言えばいいか分からない。だから、分からないことは言わない。


「儀式は終わった」


沈黙。


信徒たちは戸惑っているようだったが、誰も逆らわない。 それを見て、ほんの少しだけ息がしやすくなった。


俺は少女を見る。


怖がっている。

完全に、子供の反応だ。


(……魔王って、こんなんなのかよ)


神でも怪物でもない。

ただ、力を持ってしまっただけの子供にしか見えなかった。


少女が、俺のローブの端を掴む。


「……こわい」


(……子供じゃないか)


それだけで、十分だった。


たとえ、魔王と呼ばれていたとしても、こんな怯えている少女を、1人にすることは出来なかった。


「大丈夫だ」


反射的に出来るだけ安心できるように、頭を撫でながら、優しい声で言った。


「魔王は――私が預かる」


気付けば、この子を守らなければと思い、そう声を上げていた。


完全に最悪の立場だ。


見るからに怪しい宗教の教祖。

復活した魔王。

信者は大勢。


さらに、まだまだ分からないことだらけだ。

ただ一つだけ、はっきりしていた。


俺は、とんでもない役を引いてしまった。


逃げ場は、たぶんない。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

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