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蒼い愛情  作者: 花無
2/2

君とバームクーヘン

バレンタイン番外編です。

side蒼真

律が換気のために開けた窓から、冬特有の澄んだ空気が部屋を満たす朝。

仕事用のかっちりとした服に身を包んだ律と、反対にまだパジャマのままの僕は玄関に立っていた。

律が革靴を履く音が、やけに大きく響く。

「じゃあ行ってくるよ、蒼真」

「うん」

今日は律の仕事の日だ。

律は基本在宅勤務の仕事でほとんどの時間を家で過ごしてくれているが、たまにこうして出社している。

今日は珍しく休日なのにもかかわらず呼び出されてしまった。どうやら今やっている仕事が大変らしい。

「ごめん休日なのに。何かあったらすぐ連絡しろよ。変に遠慮するなよ」

「大丈夫だよ。わかってる」

「だけど……」

「りつ、大丈夫だよ」

身体の面でも心の面でもいつも心配をかけている僕が悪いのだけれど、律はとても心配症だ。

僕を独りにしないよういつも心がけて、どうしても出かけなければいけない時は薬の用意やすぐに連絡が取れる体制を整えて、こうして何度も念を押す。

律にここまでさせていることが申し訳ない気持ちと、心配してくれて嬉しいという気持ちが僕の中で葛藤している。

「何かあったらちゃんと連絡するから」

「蒼真…うん」

「それより、りつだって気をつけてね」

「ああ、分かった。じゃあ行ってくる」

「うん!行ってらっしゃい」

やっと柔らかな表情に戻った律は、僕の髪をふわふわと撫でると踵を返した。

僕は律の暖かくて大きな手で頭を包まれるのが好きだ。だから律は何かあった時も、何も無い時もよく頭を撫でてくれる。

ドアを閉めるその瞬間まで僕の目を見つめながら、律はようやく家を出て行った。

「さむ……」

途端に玄関が静寂に包まれると、先程まですっかり忘れていた寒さが体を蝕む。朝起きた時に律が羽織らせてくれたカーディガンを着直すと、柔軟剤の香りが鼻腔をくすぐった。

部屋に焚いているアロマの香りと同じ、僕が好きなラベンダーの香りだ。

「さてと…」

ひとつ伸びをしてリビングに戻る。

朝食の片付けは既に律が終わらせてしまったので、テーブルの上には僕が飲んでいるココアのマグカップだけがぽつんと置かれていた。

今日の朝食は律が珍しくパンを買い損ねてしまい和食だった。

僕はパン派だけれど、和食も好きだ。けれどそんな朝食を食べながらふと、律はどちらが好みなのか知らないことに気がついた。

こんなに長い時間一緒に居るはずなのに、僕は律のことをあまり知らない。

食の好みも、香りの好みも、趣味でさえ僕は知らない。

律が自分のことを積極的に話したがらないというのもあるが、律はこんなに僕のことを理解してくれているのに、僕は知らない。それは……。

「……?」

そんなことを考えていると、突然カーディガンのポケットに入れていたスマホが振動した。

何かの連絡だろうか。僕に連絡をする人は、1人しかいない。

画面を見ると予想通りの名前が目に入った。

『駅着いた。大丈夫?』

「りつ…ふふ、まだ家出てちょっとしか経ってないよ」

『大丈夫だよ。りつも気をつけてね』

なんだかまるで恋人のような文面に、思わず笑みがこぼれる。

僕たちの関係を"恋人"にしたのは僕なのに、いや、僕だからこそ、それはまるで針のように何度も突きつけてくる。


"律の人生を奪っている"


という、紛れもない事実を。

「っ……」

本当は、できることなら、こんな生活はしたくなかった。できることなら、誰にも頼らず自分一人で立っていたい。

けれどそんな淡い夢はとっくに消えていて、もう二度と戻っては来ない。

律一人を解放できる方法だけを残して。

「りつ……」


『バレンタイン当日ということで、こちらのお店ではチョコレートを筆頭としたお菓子が色とりどりに並んでいます!』


「…?」

ふと、つけっぱなしにしていたテレビの音を耳が拾った。

僕の人生ではあまり聞き馴染みのない言葉を、番組では楽しそうに紹介している。

お店には綺麗にラッピングされたチョコレートやクッキーが所狭しと並んでいて、まるで宝石のように美しかった。

「……バレンタイン……」

バレンタインに律は、毎年何かしらのプレゼントをくれる。

僕は医者に止められていてお菓子を食べることが難しいので、プレゼントしてくれるものは専ら物だ。去年はこのカーディガンをプレゼントしてくれた。

チョコレートを意識したようなブラウンのカラーに赤いチェックが入っていて、胸元にはクマの刺繍があしらわれている。

僕は律に出会うまでバレンタインというイベントを知らなかった。

それまではこのカーディガンも僕には可愛すぎるような気がしていたけれど、わざわざ律がバレンタインらしい柄を探し回ってくれたと知った今では、いちばんのお気に入りだ。

「ふふ、暖かい」

貰った時より暖かく感じるようになったカーディガンに包まれながらテレビに視線を戻すと、場面はお店からキッチンに移動していた。

有名なパティシエだという人を招いて、「バームクーヘン」の作り方を紹介している。

先にお店の完成品が映ったが、画面越しでも食欲をそそるほど美味しそうだった。

僕は食べることはできないけれど。

「……りつは、食べたいと思うのかな」

苦い記憶に沈みそうになった僕の頭に過ぎったのは、また律の姿だった。

僕は、律が好きな物を知らない。

甘いものが好きなのか、苦手なのかすら知らない。

「……僕の、せいなのに……」

律をこんな小さな世界に閉じ込めて、独占して、自分の面倒を見させて。


"律の人生を、奪って"


「っ……」

奪って、奪っているのに、僕は律を分かろうとしていない。

律が教えたがらないから。僕が病弱だから。

「……っ違う……」

違う、違うんだ。そうじゃない。

律を知って、たくさん知って。

もし、本当に愛してしまったら。

これが本物の"愛"になってしまったら。

ーお別れの時に、辛いから。

「……っ……」

こんなの言い訳だ。分かっている。

でも、どうしようもなく事実だ。

律は僕を懸命に看てくれていて、大丈夫だといつも励ましてくれるが、自分の身体は自分が一番わかっている。

"それ"は、きっといつか確実に訪れる。

それならいっそ知らない方が、なんて。

律と違って、僕は自分のことしか考えていない。

「っ……っ……」

無意識に頬に涙が流れる。今泣いていいのは僕ではないのに、身体は言うことを聞かない。

後から後から溢れ出すしょっぱい涙を、カーディガンの裾でどうにか拭った。

「っごめん……ごめ……」


『皆さんもぜひ、"大切な人"に贈ってみてはいかがでしょうか?』


「っ……!」

それは、僕にとって1人しかいない。

いつか訪れる"結末"が決まっているとしても、これだけは確かだ。

たくさん失ってきたけれど、これだけは。

「……僕にも、できる、かな……」

料理の経験も、律の好みの知識もない。

無謀も甚だしい挑戦だ。

けれど、もし。

もし律が喜んでくれるのなら。

「……喜んで、くれる……?」

脳裏に笑顔の律が映る。

少しでも、律をあの笑顔にできるのなら。

「よし……」

僕はようやくひとつ覚悟を決めると、出かける準備を始めた。


パジャマを着替えて白のダウンジャケットに身を包み、バケットハットを目深にかぶると家を出た。

テレビを見ながらメモした材料はそこまで珍しくなさそうだったし、スーパーで十分見つかるだろう。

スーパーは律と病院帰りに寄ることがあるので、行き方も売り場もよく分かっていた。

病気のこともあるのであまり一人で外出はしないが、律や医者に禁止されているわけではない。

むしろ十分注意すれば運動は病気にも良いと言われている。

しばらく歩くと、すぐに目的地は見えてきた。

始めてくる場所では無いのに、隣に律が居ないだけで不安な気持ちが一気に押し寄せる。

「よ、よし……」

気合いを入れ直して店内に入ると、売り場は平日な為かかなり空いていた。

律と来た記憶を頼りに、商品を少しづつ探してゆく。

全て揃えて会計へ向かい、昔の僅かな貯金からお金を出して店を出た。

財布を見ると、お金はほとんど残っていなかった。

律はなにかあった時のためにお金を渡そうとしてくれるが、養ってもらって、しかも看病までしてもらっている身で申し訳なくて受け取れなかった。

僕はほとんど家から出ないので物欲も無いし、何よりただでさえ病院にお金がかかるのにこれ以上負担をかけたくない。

「……負担って……」

考えながら、何を今更なんだろうとおかしくなった。

負担なのは、初めからずっと、僕が律と居る限りずっとだろう。

働けもしない癖にしょっちゅう身体も心も壊す人間なんて、負担以外の何でもない。

「っ……」

まだ外なのに震えそうになった身体をなんとか押しとどめて急いで家に帰った。

成功するか分からないけれど、頑張ろう。律に恩返しをするために。

ーーー

side律

目を細めながらパソコンの画面を睨む。

もう昼を過ぎているというのに、僕は昼食も取らず仕事を片付けていた。

一刻も早く、絶対に定時で家に帰りたい。

そもそも休日出勤なんて昨日まで聞いていなかったんだ。

家に一人置いてきた蒼真を想うと心配で胸が締め付けられる。

せめてできるだけ早く帰るためには、休憩する時間も惜しかった。

「佐伯くん、ちょっといい?」

「は、はい」

何となく嫌な予感が頭を掠めながら、僕は上司の元へ向かうため席を立った。

「今日残業お願いできないかな……?」

「え……残業、ですか……」

思った通りの言葉に顔を歪める。業務状況から何となくこうなるかもしれないとは思っていたが、的中して欲しくない予感だった。

「いやね、同居人さんの話は分かっているんだけど、今忙しい時だからさ」

上司は申し訳なさそうな顔だけ作って、事情を分かっているフリをしながら手を合わせた。

それはもう、提案という名の強制だ。

断りたいけれど、万が一クビになってしまってはこの生活を守りきれない。

僅かに逡巡するが、答えは決まりきっていた。

「はい……」

「ほんと!助かるよ。まあ社会人として助け合っていこう、じゃあよろしくね」

「……はい」

何が助け合いだ。ほぼ在宅勤務を許してくれていることには感謝しているが、会社に来ても仕事の内容は変わらない。どれも家で出来るものばかりだ。

これならせめて一刻も早く帰って、家で仕事をすることだって出来るはずだ。

なんて、考えても仕方がないけれど。

「……蒼真」

上司が席を外したのを見てトイレに向かった。

個室でスマホを開くと、特に蒼真から連絡は入っていなかった。

少しの安心と少しの不安が同じ量だけ心を襲う。

『今お昼休み。残業入っちゃって、遅くなる。ごめん。大丈夫?』

無意識に嘘を混ぜた短い文章を手早く打つと、送信ボタンを押した。

「は……」

残業という文字に、思わずため息が漏れる。

社会人は、学生の頃みたいに自由にはいかない。

分かっていたつもりだが、守りたいものを守るために働くことを選んだのに、それなら僕は何のために働くのだろう。

蒼真を犠牲にして仕事をするのなら、それは本末転倒だ。

『お疲れ様。了解、僕は大丈夫だよ!お仕事頑張ってね』

『ああ。ありがとう。蒼真も気をつけて過ごせよ』

『うん!』

文字を打っている蒼真の様子が目に浮かぶ。

今は何をしていたのだろう。

蒼真は本が好きだから、読書だろうか。絵を描くのも好きだ。

調子が良ければ家事をしてくれているかもしれない。僕はいつもやらなくていいと言うのだが、蒼真はせめてこれくらいやらせてくれと言って聞かない。

頑固だけれど優しい、とても蒼真らしい一面だ。

少しだけ高揚した気持ちを抱えてデスクに戻ると、机上には資料が増えていた。聞かなくても残業用のものだろう。

またため息が出そうになるのをどうにか堪える。

もたもたと椅子に座ると、向かいのデスクで話していた女性社員の声が聞こえてきた。

「島田さん!これバレンタインのお菓子もし良かったら!」

「ええ!ありがとう〜!これ作ったの!?」

「……?」

パソコンの端を見ると、日にちは2月14日を示していた。仕事に追われていてすっかり忘れていた。今日はバレンタインなのか。

「……バレンタイン……」

バレンタインには、毎年蒼真に何かしらの物を贈っている。

去年は今朝着させたカーディガンをプレゼントした。蒼真は贈った物をとても気に入って必ず使ってくれるから贈りがいがある。

それにしても、今日が残業になるなら買いに行く時間が無い。

1日遅れてでも明日渡そうか。

そんなことをぐるぐると考えながらも僕は必死に仕事を終わらせて、帰路に着いたのは結局8時頃だった。

ーーー

side蒼真

「……」

日はすっかり沈み、星が瞬き始めた空を何気なく眺める。

寝転んでいるソファの前にあるテーブルには、僕が初めて作ったバームクーヘンが不格好にラッピングされて置かれていた。

律からは残業で遅くなると連絡を貰っているが、思ったより遅くなっているようだ。

「……りつ、まだかな……」

久しぶりの外出と慣れない料理に、情けなくも僕の身体は悲鳴を出し始めていた。

なんだか少し身体が怠いし、ふわふわとした感覚がする。

早めに眠ってしまいたいけれど、どうしてもこれだけは自分の手で渡したい。

これは律に少しでも恩返しをするための大切なものだから。

それにしても律が8時を過ぎるとは珍しい。

もしかしたら、これまで律は無理をして早く帰ってきてくれていたのだろうか。

それなら僕は本当に律に迷惑をかけてばっかりだ。

「……」

こんなにたくさんの恩に、僕はこんな小さなお菓子しか返せないのだろうか。

僕は律を養う力も身体も持ち合わせてはいない。

律を幸せにできる心すら、持ち合わせてはいない。

それなら、早く。早く、手放さなければ。けれど。

「……ん……」

また思考が沈み始める。律がいないといつもこうだ。

自分は何で生きているのだろうと、もう壊れかけの身体を酷使して生きている意味はなんだろうと、答えの無い問が頭を巡る。

もしかしたら答えは、もう出ているのかもしれないけれど。

でもまだ、もう少しだけ。

もう少しだけ、律の傍に居たいと思ってしまうから。

律の人生を奪っているとわかっているのに。

こんな僕を、どうか許して。

ーーー

side律

ようやく仕事を片付けて会社を出た時には、時計は予想していたより進んでいた。

蒼真をこんなに長い時間一人にすることは滅多にない。

焦って連絡を取ろうとしたが、さっきからメールを送っても電話を掛けても蒼真が出ない。

「……っ蒼真……」

無意識にその名前を呟きながら、僕はほとんどの道を走って家に帰った。

アパートの階段を登る時間も惜しく、息を切らして一気に駆け上がる。

「は…は…」

ようやく自宅の前についてインターホンを押すが、やはり蒼真は出なかった。

「っ……」

焦りが鞄の中から鍵を探す手にも現れる。

もし、もし。もし蒼真が。

もし蒼真に、何かあったら。

全てを失った僕にとって、蒼真は生きる目的だった。

僕をどうにかこの世に繋ぎ止めている最後の鎖で、最後の希望。

蒼真をもし、もし失ってしまったら。僕は。

「蒼真!!!!」

やっとの思いでドアを開けると、ほとんど叫ぶように名前を呼んだ。

けれどやはり返事が無い。

靴も脱ぎ捨てるようにしながら家に上がる。こんなに短いのにかつて無いほど長く見える廊下を走って、寝室へと向かった。

「蒼真!!」

眠っているのだろうと思っていたベッドの上に、蒼真は居なかった。

「…っ……!」

慌てて引き返してリビングへと向かう。

「蒼真!?」

「……ん……」

蒼真は、ソファで目を閉じていた。

焦りから優しく触れることも忘れて強く肩を揺すると、蒼真はゆっくりと目を覚ました。

「蒼、真……」

「……りつ……?」

丁度チョコレートのように甘いその声を聞いた瞬間、全身の力が抜けて床に座り込んだ。

生きている。蒼真はちゃんと、生きていた。

「りつ!?どうしたの、大丈夫…?」

蒼真は慌てて僕の腕を掴むと、ゆっくりとソファに座らせた。

「……何度連絡、しても……出ないから……」

「え!?ほんとに?ごめん、寝ちゃってたみたいで……」

「こんな所で寝てたら風邪ひくよ…電話にも出ないと、さすがに心配する」

「っ!ごめん……僕、ごめ……」

思わず強くなってしまった口調に、蒼真の目がじわじわと涙で満たされてゆく。

それを見て、僕はやっと我に返った。

違う。こんな顔をさせたかったんじゃない。

「ごめん蒼真、言いすぎた。ごめんな。大丈夫だから」

やっと戻った感覚で優しく蒼真を抱き寄せる。毛布もかけずに寝ていたからか、蒼真の身体はやはり少し冷たかった。

「ごめ……違う、僕が、悪いよ。ごめん。泣きたいわけじゃ、ないのに……」

「ううん。ちょっと強く言いすぎた俺も悪い。ごめんな」

弱くではあるが不安の症状が出てしまっている。僕が不安にさせてどうする。

自責の念が、波のように心に押し寄せた。

今日はとことん上手くいかない。

「……でもなんでこんな所で寝てたんだ?いつもならベッドに行くだろ」

「……うん……」

「蒼真?」

「それ、りつに、あげたくて……」

蒼真はそう言いながら、テーブルに置いてある、リボンのかかった小さな箱を指さした。

「これ……?俺に?」

「……ん……今日、バレンタイン、だから……」

「……!」

「僕、いつもりつに貰ってばかりで、少しでも返せないかなって思って……」

「蒼真が……?」

蒼真からプレゼントを貰うのは初めてだった。身体が辛いことも、元々自分用のお小遣いをほとんど与えられていないことも知っていたから、特に疑問に感じたこともなかった。

先程までの焦りなど嘘のように、僕の心が暖かい温もりで満たされる。

「……開けていいか?」

「うん」

少し恥ずかしそうに微笑む蒼真を膝に乗せて、箱にかけられたリボンをゆっくりと解いた。

これも蒼真が結んだのだろうか。

開けると、中には小さな焼き菓子が並んでいた。

「……バームクーヘン?」

「うん……」

「どうしてバームクーヘンなのか聞いてもいいか?」

「テレビでね、作り方やってたから」

「えっ、これ、蒼真が作ったのか?」

「……うん」

それは確かに少し不格好ではあったが、キッチンに立った経験すらない蒼真が作ったようにはとても見えないほどの完成度だった。

「すごいな……すごく上手だよ」

「ほんと…?作ってみたら思ったより簡単だったよ。層にするのがちょっと難しくて崩れちゃったけど……」

蒼真が器用なのは知っていた。

昔から病院で過ごす時間が多く、ベッドの上でできることを片っ端から試していたと聞いたことがある。

読書も絵もその時にできた趣味で、他にも刺繍やかなり細かいパズルも好きだったと言っていた。

それにしても初めてのお菓子作りでここまで出来るとは、蒼真には料理の才能もあるのかもしれない。

「……りつ、うれしい……?」

遠慮がちに呟くその声を聞いて、あまりにも長い時間バームクーヘンを見つめていたことに気がついた。

「……うん。すごく、すごく嬉しいよ。食べるのがもったいないくらい」

「ほんと!」

パッと顔を明るくさせて蒼真がこちらを向く。

蒼真の満面の笑みを少し久しぶりに見た気がする。

「うん。蒼真がこんなにお菓子作りが上手いなんて知らなかったよ。蒼真はすごいな」

「そんなことないよ……りつだって料理上手だし」

「俺が作れるのは料理だけだよ。お菓子はあんまり」

「じゃあ今度一緒に作ろうよ!りつとならきっともっと上手に作れるよ」

「うん、そうだな。一緒に作ろう」

「楽しみだなぁ」

蒼真が楽しみな予定を待ち遠しそうに微笑む。

その横顔を見て僕は、どうしようもなく。


蒼真が好きだ。


そう、思ってしまった。

初めは偽りから始まった愛で。恋愛感情では無くて。けれど僕は。

「……」

これはなんと呼んだらいいのだろう。

人を愛した記憶なんて無いから、恋なのか愛なのかすら分からない。

けれどきっとその境目はとても曖昧で、簡単にわかるものではない。

まだこの気持ちに名前をつけなくていいだろうか。

今は、前より確かに強くなってしまったこの気持ちに名前をつけるより、この生活を守ることの方が大事だから。

「蒼真、食べていいか?」

「うん!もちろん!」

本当は食べるのが惜しいそのバームクーヘンを、僕は複雑な気持ちと共にゆっくりと味わった。


「……すぅ……」

夜は突然雨が降り出し、あれから夕飯を食べた後に熱を出してしまった蒼真を先に寝かせた。

聞けば今日はお菓子作りの為に一人でスーパーに行って材料を調達してきたと言う。

家と病院を往復する生活を送っている蒼真にとっては大冒険だ。

また、危ないからなるべく家にいて欲しいという気持ちと、蒼真が楽しそうで嬉しいという気持ちが葛藤している。

僕の心は葛藤してばかりだ。

バームクーヘンはバレンタインらしくミルクチョコレートの甘い味がしてとても美味しかった。

僕は本当は甘いものが苦手だ。

けれど、蒼真が作ってくれたものならいくつでも食べられる気がした。

だって、甘いものが嫌いでも、味ではないけれど蒼真の甘い声が好きだ。

学校では聞かせてくれなかったその声は、僕とふたりでいる時にだけ聞かせてくれる。

声色だけでなくそんな特別感もまとめて好きなんだ。

「……蒼真、ありがとう」

蒼真は眠っているのに、そんな言葉をかける。

「……愛してるよ」

起きている時に言えばいいのに、僕は強くなり始めた気持ちから無意識に逃げている。

僕はどうしようもなく臆病で、独りよがりだ。

でもまだ、もう少しだけ。

僕の愛が歪んでいたとしても、もう少しだけ、言葉にする時間が欲しい。

まだ僕に直視するのは難しいから。

こんな僕を、どうか許して。

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