第1話
あまりに歪で、あまりに優しいこの生活に、僕は幸福を感じていた。
ーーー
side律
スマートウォッチの微かな振動に目を覚ます。
カーテンから漏れ出る朝の光が、嫌でも意識を浮上させてくる。
冬の朝とはいえ差し込む光はまだ弱い。それもそのはず、壁掛けの時計に目をやると時刻は午前5時を示していた。
いつも通りの起床の時間だが、今日はやけに体が重い。昨日寝たのが遅かったせいだろうか。
嫌だ、まだ寝ていたい。もう少しだけ、夢の中にいたい。
普段はしないそんな葛藤が頭の中を駆け巡る。
腕を微かに刺激されながら、夢と現実の狭間で暫し揺れた。
「ん……りつ……」
半分夢の中で微睡む淡い意識は、小さな一言で完全に覚醒した。よく聞きなれた、チョコレートのような甘い声。
1人しかいない声の主の方へ目を向ける。
「…どうした…?蒼真」
声の主は、同じベッドの上で隣に眠っていた蒼真だった。
先程までの葛藤など無かったかのように、身体をすっと起こし、まだ横になっている蒼真の髪に触れる。
蒼真は髪を撫でられるのが好きだ。だから、起きた時、寝る前、落ち着かせてやる時、なんでもない時もよく撫でるようにしている。
だが、普段蒼真はこの時間には起きない。
「りつ…ごめん、起こしちゃって……」
「いいんだよ、元々起きる時間だし。身体の調子はどうだ?何かあったのか?」
蒼真の髪を撫でる手は止めないまま、サイドテーブルに置いてあった眼鏡に手を伸ばす。
黒縁のそれをかけると、一気に視界が良好になる。視力は生まれつきあまりいい方では無い。
眼鏡越しに蒼真を見ると、確かに顔色があまり良くなかった。
「りつ…ちょっと、痛い……」
「痛いか、どこかわかるか?」
「むね……」
「!蒼真、ちょっと開けるぞ、いいな」
「ん……」
蒼真のパジャマの釦を外し、下着をめくると、痛々しい傷がつけられた胸が顕になる。
蒼真は、ペースメーカーを埋め込んでいた。
普通は術後にあまり痛みは起きないのだが、蒼真は手術からかなりの時間が経った今でも痛みを訴えることがあった。
ただでさえ繊細な性格の蒼真の事だから、身体もまだ機械という異物に慣れていないのだろうと、医師にも言われている。
「この辺りか?」
「ううん…」
ペースメーカーに比較的近い部分の皮膚を弱く押していく。蒼真の肌は溶けるように白く、身体は強く押したら壊れてしまいそうに細い。
ゆっくりと、慎重に痛む部分を探す。
「じゃあ、ここ?」
「……っ!!!!!!」
瞬間、蒼真の身体が大きく跳ねた。
明らかに痛みを感じる部分はここだ。
「悪い!蒼真?大丈夫か?」
「ん…だいじょぶ…だよ……」
そして、その部分は紛れもなくペースメーカーの埋め込まれた位置だった。
指が手術の傷跡をなぞり、何度見ても触れても慣れない感覚が背筋を襲う。
怖いという感覚とは少し違う。
ただ、やはり身体に異物が入っているという事実は普通の感覚では無い。
だが、この傷が今日も蒼真を生かしていることも確かだ。
傷であり勲章であるその跡は、醜く美しくその存在を主張していた。
「いつもの発作だな……痛み止め持ってくるからちょっと待ってろ」
「りつ…!行かないで…」
踵を返してベッドを降りようとした僕の手を、蒼真は弱々しく掴んだ。
まだ痛みはあるだろうに、少し身体を起こしている。
「蒼真、起き上がっちゃ駄目だ」
「ごめん……。りつ……」
「何処にも行かないよ、大丈夫だから。薬だけ取ったらすぐに戻ってくるから」
何かを訴えるように涙の溜まる蒼真の目を見て、また髪に優しく手を伸ばした。
発作が起きた時は、蒼真は不安定になることが多い。
当然だ。誰だって体調の優れない時は不安だろう。きっとそれは人間が必ず持っている感情で、何度経験しても怖いものは怖い。
それを僕たちは身をもって知っている。
「ん……すぐね…?」
「ああ。キッチンに行くだけだからすぐだよ」
蒼真の美しく柔らかな髪を何度か撫でて、涙を拭うと立ち上がった。
部屋を出るまでなるべく蒼真の目を見てやるようにしながら、静かに戸を閉める。
まだ薄暗いリビングは、ほのかなアロマの香りで満ちていた。身体にも良いと医者に勧められたラベンダーの香りを加湿器に混ぜて焚いている。
さすがに大きな変化は無いが、それでも以前より蒼真は落ち着いた気がする。
何より蒼真がこの香りを気に入っているので、アロマオイルは切らさないように常備していた。
キッチン下の扉を開けると、蒼真の薬が山のように並んでいる。
発作の痛み止めと朝用の薬、少し不安の症状も出ているから念の為抗不安薬をまとめて取り出すと、蒼真用の紫のコップに水を注いだ。
不安定な蒼真が待っているから早くしなければならないのだが、何せ朝はやることが多い。
加湿器の水だけ手早く交換すると、後は蒼真が眠った後にやることにして立ち上がった。
薬を飲んだら蒼真は朝からまた2時間ほど眠る。今日は発作のため早く起きてしまったからいつもより長いだろう。
蒼真は基本朝が弱く、また低血圧になりがちで食欲もすぐには湧かないから、朝食は遅めだ。
トレーに薬とコップを乗せて寝室の扉を開けると、蒼真はベッドの縁から大きく顔を覗かせて満面の笑みを浮かべた。
「待たせてごめん」
「りつ…!おかえり」
たった数分なのに大袈裟だなと思いながら、待っていてくれて嬉しいと思ってしまう自分がいる。
「りつ」
蒼真は些細なことでも僕の名前を呼ぶ。
まるで自分を落ち着かせるための魔法みたいに、飴玉をころころと転がしているように。
僕はそれも、たまらなく嬉しいと思ってしまうのだ。
「うん、ただいま。朝用の薬もまとめて持ってきたら今飲んじゃおうか」
「うん、りつとっても早かったね」
「そりゃ、蒼真が待ってるからな」
「ふふ」
「胸、まだ痛むか?さっきと比べて痛みはどうだ?」
「ん…あんまり変わってない。でも大丈夫だよ」
顔は笑顔だし、少し会話をして調子も戻ってきたが、手はしっかりと胸の辺りを掴んでいた。
蒼真の細く小さな手がパジャマに少し皺を作るほど掴んでいる。口ではああ言っているが、痛みは増しているように見えた。
笑顔で嘘をつくところに蒼真の優しさが垣間見える。そんな優しさは要らないからそれより正直に言って欲しいと、僕は蒼真に優しさを求めているわけではないと思う気持ちがある。だが、蒼真の優しさはやっぱり嬉しいとまた矛盾している僕がいる。
「薬飲んで早く元気になろうな。朝ごはん、何がいい?」
包装から錠剤を出しながら残りの食料に何が残っているか考える。
蒼真は朝はパン派だ。ちなみに僕はどちらでも無くて、基本的に蒼真が選び、残したものを適当に食べる。元々僕は食への興味が薄い。
「うーん…パンにブルーベリーのジャム塗りたい」
「ブルーベリーは今切れてるな…一昨日使っちゃっただろ?」
「あ…そうだった……」
「イチゴでもいいか?嫌なら買ってくるけど……」
「イチゴがいい!りつが出かける方が嫌だ」
「俺だって蒼真を残して出かけたくないよ。分かった、イチゴな。準備しとく」
「うん!」
パンにジャムならほとんど準備するものはないのだが。蒼真は食が細いので付け合せは出したとしても食べない。
会話の合間に薬を1錠づつ手に渡すと、蒼真は少し嫌な顔をしながら飲んでいった。
「これが最後な、喉に詰まらせないよう気をつけろよ」
「うん」
最後まで飲み込んだのを見届けると、部屋の電気を落とした。
「すぐ眠くなってくるよ」
「うん。ねえりつ……?」
「ん?」
「僕が眠るまでそばに居てね」
「ああ、当然だろ。何も心配することはないから、大丈夫だからな」
また、蒼真の色素の薄い髪を優しく撫でる。
蒼真の髪は本当に柔らかい。
まるで赤子の髪を撫でているようだ。いや、天使かな。
蒼真は全体的に色素が薄い。日に当たらないからでもあるだろうが、本人曰く生まれつきだ。
そのせいで余計に天使のように見える。
「…りつ…いつもごめんね、僕のせいで……りつ」
「蒼真」
さっきまでニコニコの笑顔だったのに、一瞬にして蒼真の表情に影がさす。
不安定な時によく言う台詞をもう聞きたくなくて、蒼真の唇に指を当てて制止した。
「蒼真、俺は、居たくてここに居るんだよ。何度も言ってるだろう。蒼真、俺はお前のことを愛している」
その台詞を、考えて欲しくない。
蒼真には、もう幸せなことだけを考えていて欲しい。哀しみも苦しみも、もう蒼真には必要ない。蒼真はもう多すぎるほどそれを与えられたから。
「この気持ちに偽りはない。いいよ、何度言っても蒼真が不安になってしまうなら、俺は何度だって言うよ。蒼真、愛してる」
はっきりと、何の迷いも葛藤もなく、蒼真の無垢な目を見つめてそう言った。
僕はたくさん間違えて、嘘だらけの人生を送ってきたけれど、これだけは事実だから。
だから今日もその言葉を口にする。愛の言葉を口にする。これが恋愛感情では無いことを自覚していながら。歪だと分かっていても。
「りつ……うん、うん!僕もりつのこと愛してる。だから離れないでね」
「ああ、当然だろ。おやすみ、蒼真」
「おやすみ、りつ」
朝にも関わらず、僕たちは"おやすみ"と言葉を交わす。僕たちは世間と何一つ同じでは無いけれど、それでいい。
優しさと歪な愛で満たされた空間で、ゆっくりと微睡む蒼真の髪を、僕は蒼真が眠るまで撫でていた。
ーーー
おまけ
side蒼真
朝、心臓が痛くて目を覚ました。
そうは言っても、僕の胸にもう心臓は無いけれど。
いや、具体的には無いわけではない。その機能が著しく衰えているだけだ。不完全なそれを補うために埋め込まれた小さな機械が、僕を無理やりこの世界に引き止めていた。
本来なら僕はもう死んでいる。なんて、律に言ったら怒られてしまうから口には出さない。
「ん……」
そんなことを考えながら痛みが引くのを待つけれど、痛みは和らぐどころか増していった。
隣を見ると、律はまだ安らかな寝息を立てて眠っていた。自分より色素のはっきりした黒い髪が、あどけなく揺れている。ちょっとだけ、羨ましいなと思う。僕の髪もそんな"普通"の色なら良かった。
壁掛けの時計に目をやると、時刻は午前4時を示していた。律が起きるまでは後1時間もある。
いつも病弱な自分の世話を健気にしてくれる律を、もう少し寝かせていてあげたい。何より昨晩調子を崩して律に夜更かしをさせたのは自分だった。
律の目元には一緒に住み始めてからずっと、濃いクマがある。
「っ……」
でも、そんな考えをお構い無しに胸は痛みを主張している。
薬さえ飲めば治るのだから自分で取りに行きたいのだが、生憎朝は身体が動かない。
なんでこんなに僕の体は使えないのだろう。
「っ…んっ……」
律に気づかれたくなくて、ベッドの端で身を縮めた。少しでも声を漏らしたら気づかれてしまいそうで、無意識に口に手を当てる。
気づかれたくない、気づいて欲しい。
矛盾したふたつの思いが頭の中を駆け巡る。
普段の律ならもう気づいて起きただろうが、寝不足の律はやはりお疲れのようで、気づく気配は無かった。
「っ…!っ…、っ……」
けれど、もう貧弱な身体は限界のようだった。
仕方ない。申し訳ないけれど、声をかけよう。
「り……」
律に声をかけようとしたその時、スマートウォッチのアラームが静かに音を立てた。
音を立てたと言っても、律は僕を起こさないようにアラーム音を切っているので振動音だけが響く。
律はいつも先に自分が起きて、起きた僕に薬を飲ませて、また眠った僕を朝食を用意して起こすのが朝のルーティーンだった。
こんな生活が申し訳なくて、でも僕にはここ以外に居場所がなくて。
律以外の人の傍には居たくなくて、この世界で唯一の味方である律を手放したくなくて。今日も僕は "良い子"を演じる。
好かれるように、嫌われないように。
律が僕の手を離したいと思ってしまわぬように。
そうなったら、本当に僕は死んでしまうから。
本当の意味で僕をこの世に引き止めているのは、自分だと言うことを律は知らない。
「ん……」
スマートウォッチの振動で目を覚ました律が、隣で微睡んでいた。
ごめんね、ありがとう、愛してるよ、愛して。
ーこれは愛じゃない。
色んな想いを抱えながら、今日も僕はその名を呼ぶ。
あまりに綺麗で、彼にぴったりなその名前を。
「ん……りつ……」
それが例え、歪な愛だとしても。
続く




