第一章 紅(くれない)の糸(いと)
第一章 紅の糸
路地は狭く、崩れかけた砂岩の壁の間に削られた細道だった。
修理など何十年もされていない。
カイロの貧民街に光は乏しい。
だが、ジェギョンにとって光など不要だった。
裸足のまま、静かに歩く。
薄布のチュンナリが、彼の背後で幽かに揺れていた。
それはまるで――消えかけた思考の残響。
ふと、彼は足を止める。
光ではない。
塵でもない。
それは――何か、生きているものだった。
宙に浮く一本の糸。
鼓動のように赤く脈打つそれは、時間の中に凍りついた心臓のように見えた。
ジェギョンは、首を傾ける。
「紅……だが、血ではないな。」
一歩、踏み出す。
糸は逃げなかった。
彼を待つように、静かに漂っている。
伸ばした指先が触れた瞬間、それは動いた。
――いや、絡みついた。
手首に、腕に、胸に。
糸は彼の肌へと織り込まれ、まるで最初からそこにあったかのように馴染んでいく。
彼は怯まない。
問いもしない。
ただ、纏う。
――そして、世界が揺らいだ。
息が詰まる。
驚きではない。
流れ込んでくるのは、他人の記憶、知らぬ感情、無限に繰り返される思考の輪。
「エコー。記憶再帰。外部印刻。」
空気が震えた。
時がかすかに歪む。
「パルス。運動歪曲。時流漏出。」
影が彼を包む。
気温が下がり、空間が閉ざされる。
「ヴェイル。感情遮断。共鳴潜行。」
光が曲がる。
チュンナリが歪むように煌めいた。
「グリーム。幻影。反射操作。」
地が硬くなり、彼の周囲に見えぬ壁が立つ。
「スパイア。防衛再帰。構造固定。」
そして――崩壊。
彼の思考は砕け、再び組み上がった。
感情が途中で書き換えられる。
「フラックス。因果の解放……。」
一歩、また一歩。
彼の眼が紅く細まる。
――内側で、何かが壊れた。
彼は“それら”を感じた。
蝶魂。
ルカウ。
銀、紅、意志と執着の残響。
それらは彼の皮膚に沈み、背骨、思考、そして――書へ。
――本。
いつの間にか、彼の手にあった。
黒革の装丁、表面を走る赤い脈。
それは温かかった。
炎ではなく――息。
まるで生きているように。
表紙を返す。
埃も摩耗もない。
まるで、彼を待っていたようだった。
刻まれた文字は、知らぬ言語。
だが、意味は理解できた。
「――《海賊の秘》……。」
声は反響せず、闇に沈んだ。
ページを開く。
最初の一頁には、まだ何も書かれていない。
だが、背の部分から黒い墨が滲み出し、一行の文字を描いた。
ジェギョンの目が細まる。
「ヴェイル=フラックスの複合体か……。感情と崩壊。盗みと再帰。」
次の頁をめくる。
また文字が浮かび上がる。
まるで彼の思考に反応するかのように。
長い沈黙。
「模倣じゃない……借り物でもない。所有。」
本を閉じる。
脈を打つように一度、光が走り――それは彼の胸に吸い込まれた。
理由を問うことはない。
それが在るべき場所だから。
指先が震える。
――感じる。
それはただの書物ではない。
それは《システム》。
再帰の機関。
奪われた意志を貯蔵する《庫》。
――そして、飢えている。
ジェギョンが顔を上げる。
路地は変わらない。
だが、彼が変わった。
空気は薄く、光は歪む。
存在が、空間を揺らがせた。
もう、彼は《糸無し》ではない。
――《断片者》。
そして《書》は、まだ序章にすぎない。
彼は路地の出口を見つめ、冷たく呟く。
「次は……触れる者が要る。」
そう言って、彼は歩き出した。
胸の奥で鼓動する《書》を抱えながら。
――そして、運命の糸は、静かにほどけ始めた。




