第6話 — 誰かがいた夜
誰だったんだ、あの少女は。
顔も見えなかった。髪も、ほんの一瞬だけ。
でも、そこには確かに“香り”が漂っていた。
それは、墓地に満ちる死と百合の匂いとは違っていた。
ミカヅキは思考の海に沈みかける。
だが、カラスの鳴き声が彼を現実に引き戻す。
ゾンビや幽霊が潜んでいるかもしれない——そんな妄想が再び彼を包む。
振り返ると、ゲンタたちの姿は遠くにぼんやりと見えるだけ。
彼らは笑いながら走っていて、ミカヅキを置いていこうとしていた。
「待ってくれ! ひとりにしないで!」
ミカヅキは叫びながら走る。
仲間たちは立ち止まり、彼が追いつくのを待つ。
そして、案の定——笑いながらからかい始める。
ゲンタが胸を張って言う。
「ミカヅキってさ、幽霊怖いの? ビビりだな〜」
「怖くないよ。俺は平気。墓地で一晩中起きてられるし」
ブンタがすかさず乗っかる。
「起きてるだけ? 俺なら寝るね。枕持ってって、朝まで爆睡だわ」
ミカヅキは笑いながら提案する。
「じゃあ、今度はお前らが入って、俺が外で待ってるってのはどう?」
サブロウがすぐに空気を切る。
「いや、俺は帰る。母ちゃんに怒られるし」
他の二人も、すぐに言い訳を並べ始める。
「俺も。風呂入らなきゃ」
「俺…宿題あるし…」
ミカヅキはその場で笑い出す。
彼らがそんなことをするわけがないと、よく知っているから。
帰り道、みんなで歩きながらふざけ合う。
でも、ミカヅキの心は少しだけ沈んでいた。
——あんな嘘でも、羨ましい。
彼らには、帰る家がある。
待っている親がいる。
自分には、それがない。
父は夜遅くまで帰らない。
帰ってくるのは、酒に酔って立てなくなった頃。
母はテレビを見ていて、ミカヅキが帰ってきたことに気づかない。
気づいても、何も言わない。
あるいは、ただ「部屋に行きなさい」と言うだけ。
夕飯はない。
カップラーメンだけが、彼の食事。
母は「それしか食べちゃダメ」と言う。
「他の料理を作ろうとして失敗したら、食べ物がなくなるから」
給料は平均以上なのに、半分は父の酒と賭けに消える。
家の近くに着くと、ゲンタが先に別れる。
彼は角の家に住んでいる。
「明日、うちでゲームしようぜ。
お前ら二人は、罰ゲームな」
そう言って、笑いながら家に入っていく。
残ったサブロウとブンタは、ふざけながら歩く。
「俺なら1時間、幽霊と一緒に墓地にいられるぜ」
「俺は2時間。枕持って、昼寝するわ」
ミカヅキの家の前に着くと、二人が振り返る。
「なあ、ミカヅキ。
お前、結構長くいたよな。
何か見た?」
ミカヅキは迷う。
本当のことは言えない。
でも、誰かに確認してほしい。
——自分は、狂ってないって。
「えっと…見たよ。
ゾンビみたいなやつ」
案の定、二人は爆笑する。
サブロウが言う。
「ゾンビなんていねーよ。幽霊だけだって」
ミカヅキは黙って家の方へ向かう。
もう、話す気になれなかった。
ブンタが背後から叫ぶ。
「今夜、ゾンビが家に来るかもな〜!」
ミカヅキは苛立ちながら玄関を開ける。
そして、空気が一変する。
母はソファに座り、テレビを見ている。
ミカヅキが帰ってきたことに気づいているのか、いないのか。
あるいは、気づいていても無視しているのか。
キッチンへ向かう。
電子レンジの中は空っぽ。
やっぱり、夕飯はない。
食べる気も起きず、ミカヅキはそのまま寝ることにした。
階段を上がろうとすると、母が言う。
「何度言ったら分かるの?
私が帰ってくるまで、外に出るなって。
また誰かに迷惑かけたら、どうするの?」
その言葉には、感情がなかった。
ミカヅキは、もう信じる気にもなれず、答える。
「友達と歩いてただけ。
誰にも迷惑かけてないよ」
母は苛立ちを隠さず言い返す。
「またあのガキども?
部屋に行きなさい。夕飯はなし」
ミカヅキは黙って頷く。
——どうせ、食べるつもりもなかった。
部屋に入ると、ポスターと落書きに囲まれた空間。
モンスターの絵。
人型の怪物たち。
靴を脱ぎ、ベッドに倒れ込む。
天井を見つめながら、思い出す。
——あの夜のこと。
あの墓地で見た、誰か。
なぜ、顔も見えなかったのに——
あんなにも惹かれたんだろう。




