第1話 — 境界の向こうへ
死者たちが、生前のように暮らす地下の街。
古びた墓地の下に広がるその世界では、ゾンビが墓を掘り、幽霊が存在しない商品を売り歩き、亡霊たちが死亡届の裏に印刷されたチラシを配っていた。
その街の片隅に、月夜という少女がいた。
彼女は、ずっと昔に命を失ったはずなのに——まだ“愛”を求めていた。
朽ちかけた身体には、かつての美しさの名残があった。
長くて少し絡まった髪が顔の半分を隠し、片方の瞳は鮮やかな緑。
もう片方は、いつ失ったのかも覚えていない。
それでも、彼女は可能な限りの“おしゃれ”を忘れなかった。
月夜は、他の死者たちを眺めながら日々を過ごしていた。
誰もが、生きていた頃の習慣を繰り返すだけ。
けれど彼女は——違った。
彼女は、誰かを“愛したい”と思っていた。
何年も、誰かと心を通わせようとした。
けれど、他の死者たちの願いは、彼女のそれとは決して重ならなかった。
それでも彼女は、街を歩き続けた。
いつか、夢が叶う日が来ると信じて。
そしてある日。
何度も訪れていた“境界”の前で、彼女は思った。
——本当に欲しかったものは、あの門の向こうにあるのかもしれない。
死者が決して越えてはならない、生者の世界との境界線。
門番たちは、決して通してくれない。
それでも月夜は、毎日その場所に通った。
ほんの少しでも、外の世界を覗けるチャンスを探して。
そして、運命の瞬間が訪れる。
交代の時間。
門番たちが入れ替わる、ほんの一瞬の隙。
月夜は、周囲を見渡す。
門番が近づいてくる。
——今しかない。
彼女は走った。
門を越え、背後で閉じる音を聞きながら、階段へと向かう。
一段ずつ、ゆっくりと。
まるで、その瞬間のために生まれてきたかのように。
階段の頂上に、巨大な扉が現れる。
彼女は、朽ちた身体の力を振り絞って押し開ける。
関節が軋む音が響く。
それでも、彼女は止まらない。
扉の隙間から、月の光が差し込む。
やがて、満月が彼女の目に映る。
そこは、墓地の中の霊廟だった。
月夜は、歪んだ——けれどどこか美しい笑顔を浮かべる。
喜びに満ちた彼女は、墓石の間を駆け回り、くるくると踊る。
そして、何本かの枯れ木と墓を越えた先で——気づく。
誰かがいる。
もしかすると、生者かもしれない。
月夜は、すぐに思い出す。
——自分は、地上にいてはいけない存在だ。
素早く、木の陰に身を隠す。
足音が近づいてくる。
どんどん、近くへ。
やがて、彼女はその姿を目にする。
少年だった。
迷っているようで、周囲を見渡しながら歩いている。
不安そうな顔。
けれど、足は止まらない。
遠くから、騒がしい声と笑い声が聞こえる。
少年は驚き、ひとりごとを呟く。
「…賭けの約束は、待ってるって話だったのに。」
月夜は、心を奪われる。
初めて見る“誰か”。
話したことのない“誰か”。
——近づきたい。
でも、どうすれば?
少年は、カラスの鳴き声以外の音に気づく。
それは、湿った土を踏むような足音。
彼は、音のする木の方を見た。
月夜は、慌てて髪を顔にかける。
そして——少年は、振り返ることなく走り去った。
その瞬間、月夜の心に芽生えたのは——
彼を、もっと知りたいという願いだった。