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第五話 初めての夜、二人の未来


 視察から戻って来てからというもの、セレナとライナルトの距離が明らかに以前より縮まっていた。


 食事の席では自然に視線が重なり、ライナルトが屋敷にいるときはなるべく一緒にティータイムを取る。仕事の合間には気分転換に庭を歩き、夕食後には互いの一日を語り合う時間ができた。


「そういえば庭師が、春に向けて早めに花の種を仕入れたいと言っていたな。セリィは好きな花があるかい?」


「春といえば、フリージアかしら。可愛らしくて、良い香りがするの。あとはそうね、チューリップやアネモネも好きだわ」


「どれも色鮮やかな花だな。まるでセリィみたいだ」


「まあ」


 セレナはライナルトの言葉に、くすぐったそうに笑った。こんな風に自分の好みに心を寄せ、その気持ちを直に伝えてくれることがただうれしかった。


「セリィは庭で散歩や読書をするのが好きだろう?だから庭は君の好きな花でいっぱいにしたいんだ」


「私のこと、よく見てくれているのね。うれしいわ」


「そりゃあ君のことなら大体のことは分かるつもりだよ。だって……観察してたんだ、ずっと」


 少し照れたように笑うライナルトに、セレナは揶揄(からか)うように笑った。


「観察って、ちょっと怖いわね」


「……しまった。できれば『見守ってた』って言い直させてほしい」


「ふふ、許してあげる」


 二人の間に心地よい沈黙が下りる。窓の外で冬に向かって冷たい風が吹き抜ける音を聞きながら、二人は穏やかな時間に浸っていた。


「――セリィ、」


 その名をやさしく呼ばれて、セレナはライハルトの方を振り向いた。


「……ありがとう。俺と、夫婦でいてくれて」


「ライナルト…」


「この結婚は、正直、君にとって理不尽なものだったと思う。…顔も知らない男と結婚させられて、初夜すら一緒に過ごさず、長い間顔も合わさなくて…。それでも君は、立派にこの家を守ってくれた。――君の真面目さに甘え、何度も言い損ねてきたことがあるんだ」


 ライナルトは一呼吸おくと、静かに言った。


「今度こそ、ちゃんと言いたい。セリィ、君を愛している。心から、大切に思っている」


 その言葉に、セレナの瞳から涙が零れた。


「私も…あなたと過ごすこの毎日がすごく好き。まだ慣れないこともあるし、最初の頃を思い出して少し不安になるときもあるけど…でも、あなたと一緒だから私は頑張ろうって思えるの」


 二人の手が、自然と重なる。そしてライナルトは、緊張で乾いた喉を潤すように一度喉を鳴らした。


「セリィ。どうかもう一度俺と結婚してください。今度は義務じゃなく、気持ちで、君と夫婦になりたい」


 ライナルトが真っ直ぐ見つめながら、そっと請い願う。それにセレナは笑って頷いた。


「はい、よろこんで」


 手と手が強く結ばれ、互いの体温がそのまま心の温もりとなって伝わってくる。


 ――その日、二人は初めてともに夜を明かした。


「春になったら、庭先でお茶を飲もう。俺たちが選んだ花々に囲まれて楽しむんだ」


「素敵ね。じゃあ冬は、暖炉の前で一緒に読書をしましょう」


「それなら互いに本を一冊贈り合うのはどうだ?相手を思って選ぶのも楽しそうだ」


「いいわ。じゃあ私は、あなたにとびきりの詩の本を贈ってあげる」


「……セリィ。俺が詩の良し悪しが分からないのを知っているだろう?」


「ふふっ、でも私のために好きになる努力をすると言ってくれたわ」


「…参ったな。俺の奥さんはなんて可愛くて、なんて記憶力がいいんだ」


 未来の話をするのが、こんなにも愛おしいだなんて。二人はそのまま眠りに落ちる直前、心の中でそっと思った。


 ――この人が、隣にいてくれてよかった。


***


 季節は春の気配を感じる頃となり、屋敷の柔らかな陽光が包んでいた。草木が芽吹き始め、花壇にはフリージアの芽が頭を出していた。


 クラウセン邸は今、驚くほど穏やかな空気に満ちていた。昼下がり、執務室の扉が控えめに開き、そこから顔を覗かせたのは書類の束を抱えた侯爵夫人――セレナだ。


「おつかれさま、ライナルト。午後の予定だけど、少し変更があるわ」


 机で書類にサインをしていたライナルトは、少し間を置いてから顔を上げた。


「ありがとう、セレナ。君が手伝ってくれるようになってから、全てが順調だよ」


 不器用なところは変わらない。それでも以前とは比べものにならないほど真っ直ぐに、想いの込められた言葉を放つようになっていた。セレナもまた、それを当たり前のように受け止め、微笑んでみせる。


「だったらこのままずっと『順調』でいましょうね」


「もちろんだ」


 そう返しながらライナルトはそっと手を伸ばし、セレナの指先を握った。その動きに、今では誰も驚かない。使用人たちでさえ、この光景を『やっと夫婦らしくなった』と微笑ましく見守っているほどだ。


 その頃、屋敷奥の使用人の休憩室では、二人の忠実な側近が控えめな声で話していた。


「ようやくこの屋敷も落ち着きましたね」


 感慨深げにそう呟いたのは、バートラムだった。紅茶を一口飲み、ほうっと息をつく。


「最初があれでしたからねえ。結婚初日に旦那様が不在とか…本当ふざけるなと思いましたよ」


 同じく紅茶を口にしながら、ミリーも頷いた。言葉が乱暴なのは当初のことを考えれば致し方ない。


「でもまあ…時間がかかっても本物になったんで、良しとしますか」


 ミリーが微笑んで思い浮かべたのは、自然に寄り添いながら何気ない会話を交わしている主人たち。当たり前のように手をつなぎ、顔を寄せ合い笑い合っている光景。


「これで私たちもようやく本来の務めに専念できますな。……これからは、閣下ご自身の言葉で、愛を育てていかれることでしょう」


「えっ。セレナ様と旦那様の仲の良さを見守るのも私の仕事だと思ってますよ?」


「――確かに」


 バートラムのその言葉が静かに穏やかな空気の中へ染み込んでいく。柔らかな陽射しのもと、クラウセン邸には今日もまた、やさしい時間が流れていた。


 ――そして二人は、心から夫婦となったのだった。


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