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第四話 それでも隣にいてほしい(2)


***


 冬が始まる前、ライナルトはセレナを伴って領内の視察に出かけた。馬車で一日ほどのある小さな村だ。セレナが正式に領主夫人として人前に立つのは、これが初めてだった。


 村の広場に着くと村人たちが集まってきて、『奥様!』と歓声を上げた。セレナは少し驚きつつも、自然な笑顔で応じる。周囲には土の香りと草の匂い、そして焼きたてのパンの香ばしさが漂っていた。


「セリィはこうしてクラウセンの領民の前に立つのは初めてのはずなのに…まるで前からそこにいたみたいだ」


 ライナルトが低く呟く。その声にセレナは振り返り、少しだけ頬を染めた。


「貴族の娘ですもの。このくらいはできるわ」


「…うん、でもそういう意味じゃないんだ。君がここにいるのが当然みたいに、それくらい馴染んでいるように見えるんだ。君のやさしさが、みんなに伝わっているのかもしれないな」


 さらりと口にした彼の言葉に、セレナは返事に困って視線をそらした。


 視察は順調に進み、村人との面会、畑や水路の確認、冬に向けた備蓄の確認などをこなしたあと、セレナたちは近くの小高い丘に立ち寄った。そこからは村が一望できた。


「――わあ、」


 思わず声が漏れるセレナの手を、ライナルトがそっと取った。彼の手のひらは温かかった。


「ここは、俺の好きな場所なんだ」


 子どもも頃は退屈で、もっと広い場所を駆け回っている方が好きだった。それでも少しずつ大人になるにつれて、ここから見える光景がどれほど尊いものなのか、分かるようになった。


「ここの景色を、セリィと一緒に見たいと思っていたんだ」


 セレナが顔を上げると、ライナルトがすぐ近くにいた。真剣な瞳で、何かを言いたげにこちらを見つめている。


「……セリィ。俺は君が好きだ。隣にいるのが君でなければ、意味がないんだ」


 真っ直ぐなその言葉に、セレナの瞳が潤む。徐々に彼の顔が近づき、互いの呼吸が触れ合いそうになる。さらに近づこうとライナルトが一歩踏み出したとき、足元の小石につまづき身体のバランスを崩し、二人の額が軽くぶつかった。


「……っ、」


「ご、ごめん、セリィ!!」


「い、いえ…!」


 互いに顔を真っ赤にしながらも、笑いが零れた。さきほどまでの張りつめていた空気が消え、思わず肩の力が抜けたのだ。


 そして心地よい沈黙のあと、セレナの指先がそっとライナルトの指先を探す。


 指と指が触れ合い、からまり、自然に深く手をつないだ。


「――今度はつまづかないでくださいね」


「っ、善処します…っ」


 くすりと笑うセレナの顔に、ライナルトはまた惚れ直す。風が二人の間を通り抜けて、甘やかで穏やかな時間が流れた。


***


「そのにやけ顔をやめろ、ライナルト」


 仕事の書類を持ってクラウセン邸の執務室を訪れたフィリクスは、まだ旅の余韻に浸っている上司に、半ば呆れ顔で注意をした。その上司はというと机の上に肘をついて頬杖をつき、どこか夢見がちな目で上の方を見つめていた。


「……ああ、フィリクスか」


「その顔を見る限り、視察と称した小旅行は成功だったようだな」


「成功も何も…ああ、最高だった…」


「…仕事の視察とは思えない感想だな…」


「いや、視察もちゃんとしたぞ?全部、予定通り」


「それで?」


「それで、だ。うちのセリィが領民の前に立つ姿を見たんだ。凛としてて、綺麗だった…。宿泊の部屋は別々だったけど、朝、まだ寝ぼけまなこの彼女を見かけたんだ。すごく……愛おしかった」


 フィリクスは思わず大きなため息をついた。


「視察の話を聞いているんだが…それ、まさか報告書に書いてたりしないだろうな?」


「してない。書きたいけど書けなかったから、こうしてお前に話してるんだ」


「勘弁しろ。――ほら、軍務の資料を持ってきたぞ」


「昼下がりの市場では、領民からもらった焼き栗をうれしそうに頬張ってたんだ。リスみたいでとにかく可愛かったな…。口元に栗の欠片がついているのに全然気づいてなくて、拭ってあげたら、真っ赤な顔してさ。ああああ、尊い」


「………」


「あと、夜に宿で一緒にちょっとだけお酒を飲んだんだ。そしたらセリィがすぐに酔っちゃってさ。表情がコロコロ変わって可愛いのなんの。いつもより話すのがゆっくりになったりして、俺の理性が試されているのかと思った…」


「……奥さんが可愛かったのは分かったから、そろそろ仕事をしてくれないか?」


「違う。正確には『妻が可愛すぎて、俺は彼女の夫であることが信じられない』、だ」


「……お前のこと、資料で叩いてもいいか?」


「次はどこへ連れて行こうかな…。港町もいいし、古い街並みが綺麗なところも――」


「資料、ここに置いておくからな」


 これ以上ライナルトの話は聞いていられないというように、フィリクスは持ってきた資料をやや乱暴に机の上に置いた。そしてさっさと退室しようとする。


「でも、本当に楽しそうだったな、セリィ。あんなに屈託なく笑ってたの、初めて見たかもしれない」


「――なら、これからも笑わせてやるといい、お前の隣でな」


「ああ、そうだな」


 そのときだけは惚気でも照れでもなく真剣なまなざしで応えたライナルトに、フィリクスは見えないように笑って部屋を出て行ったのだった。


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