第三話 気づいてしまった妻と、逃げたい夫(2)
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紙一枚の結婚から、二ヶ月が経とうとしていた。自分の執務室で仕事をしながら、セレナはそっと息をついた。
――考えれば考えるほど、やっぱり似ている…。
一体何度顔を合わせただろうか。偶然を装ったような出会いの中であの『使用人』の青年と交わす、ほんの短いやりとり。天気の話、花の話、街の話、どれも取るに足らない会話なのに、心のどこかがざわめく。ミリーにも、『あの人、セレナ様のことを気にかけているようですね?』と言われてしまった。
青年がふと笑うときに細くなる目元。話すときの抑揚。言葉の端々に滲む、どこか貴族然とした品格。そして、先ほど出会ったときの出来事が決定的だった。
(あの香り…。いつもライナルト様のお手紙から香るものと同じだった…)
別れるときに微かに感じた薄く香る紅茶と柑橘のような香り。貴族階級が好む香油の一種だ。手紙にほんのり香らせるときにも使うそれは、庶民には大変高価なものだ。
セレナは小さく息を吐き、決意するように椅子から立ち上がった。そして机の引き出しの中から便箋を取り出し、ペンを握った。
「――確認しなくちゃ。でないと前に進めないわ。このまま思わせぶりなやりとりを続けるのは、ただの逃避よ…」
セレナは迷いながらも、震える指で一行ずつ、丁寧に書き始めた。
彼女が内なる決意を秘めていた頃、ライナルトは盛大に頭を抱えていた。
「――どうしよう。まさか手紙を書いてすぐ、セリィと言葉を交わすなんて…」
「どうするおつもりですが、旦那様。奥様は賢いお方です。きっと気づかれてしまいましたよ」
「バレてない。まだ、バレてはない。きっと気のせいだと思って――」
「思うわけないでしょう。今までも不審だったのです。さすがにもうお気づきでしょう。こうなったら、もう潔く名乗られてはいかがですか?」
「む、無理だ…そんな急に…き、気持ちの整理が…っ」
「整理する時間は十分ありました。そろそろいい加減にしないと奥様に愛想をつかされてしまいますよ」
「ぐぅ…!それだけはダメだ…!」
未だ直接顔を合わせる決意のできない主人に、バートラムはやれやれと首を横に振った。そしてミリーから預かっていたセレナからの手紙をライナルトに渡した。
《ライナルト様へ
あなたがあの使用人に扮していること、もう気づいています
何か理由がおありなのかもしれません
けれど、私は夫婦でありながら、顔すら知らないままでいたくはありません
もしこのままお会いできないのであれば、私は離縁も視野に入れています
せめて一度くらい――夫婦として、きちんと向き合いたい
セレナ》
「……………え?」
手紙を読んだライナルトの顔から、血の気が引いた。
「……え?えええっ!?!?」
椅子を蹴るように立ち上がり、髪を両手でぐしゃぐしゃにかき乱す。
「な、なななぜ!?手紙のやりとりは順調だったはず!?え!?なぜ!?」
「ついに愛想をつかされてしまいましたね。自業自得というものです。離縁されたくなければちゃんと正装をして、正面から、きちんと向き合うことをお勧めいたします」
「バ、バートラム!急いで着替えの準備を!」
***
その夜。ライナルトの緊張は最高に達していた。濃紺の礼服に金糸の刺繍が光り、深紅のマントが肩にかかる。普段の情けない姿はそこになく、威厳と覚悟に満ちた表情かと思いきや、セレナの部屋の扉の前で深呼吸を何度も繰り返し、何やらぶつぶつと呟いていた。
「だ、大丈夫だ…す、好きだと伝えればいい。あ、あと…あとお茶だ。お茶がおいしかったかどうか…。そう、そうだ。これなら…」
そして、意を決してノックをした。
「――どうぞ」
「セレナ…っ、いや、セリィ…!」
入室許可を得るなり、勢いよく扉を開いたライナルト。中には、彼が来るのを待っていたセレナが静かに座っていた。
「ご機嫌よう、ライナルト様。ようやくお会いできましたね」
「え、あ…う、セリィ、その…」
沈黙。気まずい間。重たい空気。ライナルトはなけなしの勇気を振り絞って口を開く。
「……きゅ、君は…本当に…すごく、綺麗で……あの、えっと、あのお茶は、お口に合いましたか?」
噛んだ。最初の言葉から思い切り噛んだ。それは本人が一番よく分かっていた。言った瞬間に顔が真っ赤になり、目がおもしろいほどに泳いだ。
そんな彼の姿をセレナはしばらく無言で見つめたあと、ふっと息を漏らした。
「……ふふっ」
呆れたような、それでもどこか温かい微笑みだった。
「あなたって変な人ね。手紙でも『使用人』の姿でも、いろいろお話したじゃない。……でも、これであなたが私を嫌っていないことが分かったわ。よかった…」
その言葉に、ライナルトは驚いて顔を上げた。
「俺が君を嫌うことなんてない!絶対にありえない!!……俺は君と話したかったのに…でも、どう話しかければいいのか分からなかったんだ…」
彼の必死な表情を見て、セレナは頬が熱くなった。そしてそんな恥じらう彼女のあまりの可愛さに、ライナルトは真っ赤な顔で立ち尽くすしかなかった。
そうして、ようやくほんの少し。夫婦の距離が縮まったのだった。