第三話 気づいてしまった妻と、逃げたい夫(1)
午後の陽射しが柔らかく庭を照らす頃、セレナはそっと屋敷の裏庭へ足を運んでいた。大輪のダリアが咲く小道の先にとても日当たりのよいベンチがあるのを、お気に入りの場所として少し前に見つけたばかりだった。
ライナルトからもらったひざ掛けを手にベンチへと向かう。曲がり角を抜けた瞬間、不意にぶつかった何かにセレナは思わずよろめいた。
「きゃ…!」
「っ、奥様!」
慌てた声とともに、伸びてきた手が彼女の身体を支えた。セレナが見上げるとそこにいたのは見覚えのない若い使用人――いや、そう『見える』青年だった。
クラウセン邸では見慣れた使用人服を着た、俯きがちで控えめな声の青年。けれどその瞳だけは、妙にセレナの印象に残った。惹き込まれるような深い色。どこか、あの手紙に書かれた文字の雰囲気に似ている気がした。
「大変失礼いたしました。大丈夫ですか?」
「…ええ。助けてくれてありがとう」
短い言葉だけを交わして、青年は深々と頭を下げ、すぐにその場を立ち去った。セレナはその背中を見送りながら首を傾げる。
(今の人…見たことがないような…?)
侯爵夫人の仕事として、使用人の管理もある。あのような青年は見かけたことがないような気もするが、なんせ侯爵邸は広いのだ。顔に覚えのない使用人がいたって不思議ではない。
それでも妙な胸のざわつきは消えず、その日セレナは読書には集中できなかった。
その翌日からだった。その青年が、庭先や廊下の陰、書庫の本棚の向こうなど、あちこちで顔を見せるようになる。偶然にしてはあまりにも回数が多く、セレナはすぐに不信感を抱いた。
(まさか…私を監視している?)
以前にミリーが感じていた視線は、最近感じなくなったらしい。今度はそれからほどなくして現れたこの青年から、視線を感じるような気がする。現に彼の態度はどこかぎこちなく、不自然に礼儀正しいのだ。まるでセレナの様子を伺っているようでもあり、逃げるようでもあった。
「ねえ、ミリー。最近よく見かけるあの青年の名前は分かるかしら?」
「青年?…ああ、いつもちらっとだけ顔を合わせるあの使用人のことですね」
「そう。背が高くて、俯きがちで話す彼」
「それが変なんですよね。使用人の食堂や休憩所で、あの人を見かけたことがないんですよ」
確かにその青年は『使用人』としてそこにいるのに、使用人が本来いるであろう場所にいないという。
(一体誰なの…?)
セレナは心の中でますます疑いを深めていく。けれどその一方で、謎の青年がふと見せる微笑みや仕草が、なぜか心に残り続けていた。
***
その夜。クラウセン邸の執務室では、当の『使用人』が机に突っ伏していた。
「……ダメだ。もう絶対怪しいって思われてる…」
ライナルトはぐったりと肩を落とし、変装用のカツラを放り出した。使用人の姿に扮してセレナに接近したものの、会話は思うようにできず、何一つ素性を明かせないまま数日が経ってしまった。
「――旦那様、嬉々として『距離が縮まった』とおっしゃっておりませんでしたか?」
「うっ」
バートラムの鋭い指摘にライナルトは言葉を詰まらせる。
「どうせいつかはバレるんだから、もう出ていけばいいだろう?今なら顔を合わせても悪い印象にはならないだろ」
「……ダメだ。まだ心の準備ができていない…」
「はい?結婚式からどのくらい経ったと思ってるんだ?」
フィリクスは大きなため息をついて天を仰いだ。
「以前から思っておりましたが、既に夫婦となられたのに心の準備とはなんでございましょうか」
「うっ、」
「それに奥様は賢い方です。旦那様の不自然な言動には違和感を持たれていると思います」
「ううっ。で、でもセリィと話せてるんだ!それだけで大きな一歩だろう!?」
落ち込みながらも浮かれるライナルトを前に、二人の従者はついに肩を落とした。
「……本当にどうしようもないな、こいつは」
「同感でございます」
クラウセン邸の重厚な扉の奥。恋する侯爵の道のりは、まだまだ前途多難のようである。




