第二話 不器用な好意と、拗れる誤解(1)
ライナルトに一度も顔を見せてもらえぬまま、セレナの新婚生活は二週間が過ぎた。ここまで時間が経てばさすがに理解する。夫は妻に会いたくないのだ、と。
(やっぱり白い結婚なのだわ)
とはいえ、夫のことを除けば快適に過ごせている。侍女のミリーは朝から晩までよく働いてくれるし、執事長のバートラムも、他の使用人たちも丁寧に接してくれる。料理もおいしくて文句一つないどころか、今朝も好物のレンズ豆のスープがさりげなく出されている。
「セレナ様、気に病んではいけませんよ。旦那様のことは、私も腹立たしいと思ってますから!」
考えに耽っているセレナを見て落ち込んでいると思ったのか、ミリーが励ましてくれる。しかも彼女の目には、ライナルトへの怒りの炎さえ見える。
屋敷に帰還してからというもの、ライナルトの存在はまるで掴めない影のようだった。執務室には毎日人の出入りがあり、そこに存在していることは実感できる。けれどいざ会おうとすると、どうしてかタイミングが悪くて叶わない。補佐官のフィリクスやバートラム経由で必要最低限の伝言は届くけれど、やはり直接言葉を交わすことはない。
(愛はなくとも友人のように仲良くできればいいと思っていたけれど…望みすぎたようね)
「あっ、まただ!」
ミリーの突然の大きな声に、セレナの意識が引き戻される。ミリーに視線を向ければ、彼女はきょろきょろとダイニングルームの窓の外を見渡していた。
「どうかしたの、ミリー?」
「またあの視線ですよ、セレナ様!妙に熱っぽくてねっとりとした視線です!」
「ええ?私は何も感じなかったけれど…」
ここ二週間ほど、ミリーは誰かの視線を感じるとひとしきり訴えていた。
「絶対気のせいじゃないです!誰かがセレナ様を見てるんですってば!」
ミリーいわく自分が一人でいるときに視線は感じず、エレナと一緒にいるときだけ感じるらしい。とはいえ、ここは名家の侯爵家だ。変な輩が入り込む余地などないはずである。
「ミリーがずっと違和感を感じているなら心配ね。あとであなたからバートラムに相談しておいてくれる?」
「分かりました!」
そのまま手早く朝食を終え、セレナはダイニングルームをあとにする。そんな彼女の朝食シーンを眺めていた変態――もといライナルトは、大きなため息を吐いた。
「どうしてセリィは朝からあんなに可愛いんだろうか、バートラム」
「どうして朝からこんなことをされているんでしょうかね、旦那様」
「どうしてって!セリィに話しかけるタイミングを伺うためだろう!?」
「そうおっしゃり続けて、もう二週間経ちましたが?」
そう。ミリーが感じていた妙に熱っぽくてねっとりとした視線とは、ライナルトの視線だった。
「く…っ。しかたないではないか!セリィが可愛すぎて、話しかけるタイミングを失うのだ!」
「ただ話しかける勇気が出ないだけでしょう」
「ぐぅ…!」
遠慮のない執事長の言葉を胸に刺さる。しかし彼の言う通り、いざセレナに話しかけようとすると尻込みしてしまう。代わりにセレナの日課やちょっとした癖、好きなものなどの愛妻情報ばかりが更新されていく一方だ。
「はっ、バートラム!このあとセリィは日課の読書をするつもりだ!例のアレは用意しておいてくれたか!?」
「はい、設置済みでございます」
「よし!よくやった!」
果たして『例のアレ』とは。
朝食を終えたセレナは本を持って、いつもと同じように裏庭のベンチに向かう。するとそこには、前日にはなかったクッションが置かれていた。
「クッション…?」
昨日まではなかったはずだ。一体誰がこんなところに置いたのだろう?
「誰かの忘れものでしょうか?」
「そうかもしれないわね。ミリー、汚してはいけないから、預かっておいて」
クッションはセレナの手からミリーへと渡った。大変残念ながらライナルトの『例のアレ』作戦は、こうして失敗に終わったのだった。
セレナにとって妙な出来事は、以降も続いた。
あるとき仕事を終えて自室に戻ると、セレナが好んで読んでいた作家の新刊が本棚に差し込まれていた。またあるときは庭での散歩の途中、道のど真ん中に好きな花の花束が置いてあった。そしてまたあるときは、探さなくてはいけないと思っていた資料がテーブルの上に置いてあったこともあった。
「ミリーが感じている視線と関係があるのかしら?」
これまたバートラム経由で差し入れられた好物のハーブティーを飲みながら、セレナはここ最近の不思議な出来事に首をかしげた。
「これはセレナ様の熱烈ファンがいるとしか考えられませんね…。でも仕事の資料が用意できるってことは、少なくとも下級の使用人ではないと思うんですよねえ」
「夫に愛されていない妻に熱烈なファンですって?バカなこと言わないの」
「あっ、もしかしたら!その旦那様が熱烈ファンかもしれませんよ?」
「ファンがいるということ以上にありえないわね。もしそうだったとして、どうしてライナルト様は私にお会いしてくださらないの?矛盾してるでしょう?」
「うーん、それはそうですが…。姿を見せられないくらい照れてるとか!」
「それはさすがに妄想が過ぎるわよ」
ミリー、大正解である。
その夜、セレナは今日の日記を綴っていた。
《今日も夫と会えなかった。顔も知らない私の夫。やさしい言葉も、冷たい態度も、どちらもない。無関心。この政略結婚は、夫に一体何をもたらしたのだろうか》
そしてセレナは思い出す。自分を気遣うように置かれた本や花束、資料を。
《ミリーの言う通り、もし誰かが私を見てくれているというのなら。あなたの気遣いのおかげで私は笑っていられると伝えたい。あなたの優しさに心が癒されていると伝えたい。
そしてもし、もし万が一、その誰かが夫だったとしたら――。
……ダメね。そんな期待をしたって裏切られるだけなのに…》
そう綴り終えて、セレナはそっと日記帳を閉じた。
その頃、その誰かことライナルトは、執務室で天を仰いでいた。




