第一話 初夜にいない夫(2)
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翌朝、セレナは自分の家となった新しい屋敷を見て回るため、執事長のバートラムとともに歩いていた。
「…閣下の執務室には、なるべく近づかないようになさってください。軍務に関わる機密事項も多いので」
彼の声は穏やかだったが、どこか線を引いたような冷静さがあった。
「閣下のお気に入りの書斎や庭もご案内いたしますが、いかがいたしましょうか?」
「そうね、庭をお願い。――あなた、ライナルト様との付き合いは長いのよね?一体どういう方なのかしら?」
バートラムは目を伏せ、小さく頷いた。
「はい、先代の侯爵様より仕えております。閣下は不器用なお方ではございますが…誠実にして、家族をとても大切にされる方です。どうかご安心ください」
――『家族を大切』に?
その言葉に、セレナの心は違和感でいっぱいになった。使用人たちはセレナを『侯爵夫人』として敬ってくれているが、『妻』として扱ってくれるはずの夫はいない。夫が家族を大切にする人だというのなら、こんな扱いを受けている私は『家族』ではないのだろうか?
屋敷を見て回る間も、もやもやとした気持ちがセレナを覆う。それから自室に戻ると、テーブルの上にレモンの焼き菓子とハーブティーが置かれていた。
「あら、ミリー。私の好きなものを用意してくれたのね。うれしいわ」
「あ、セレナ様、おかえりなさいませ。その焼き菓子とお茶は、バートラム様に頼まれた侍女が持ってきたんですよ」
「バートラムが…?」
セレナのもやもやした気持ちが少しでも癒えるようと願うように、タイミングよく用意された彼女の好物。偶然なのか意図的なのか判然としないまま、セレナはティータイムを取った。
夫が不在なことを、白い結婚であることを嘆いても仕方がない。所詮は政略結婚。愛がないのは百も承知だったはずだ。
日記帳に綴った通り、翌日からセレナはセレナでできることを始めた。侯爵夫人としての義務を果たそうと、領地のこと、クラウセン家が行っている慈善活動や文化活動のことをバートラムから学び始めた。
たとえお飾りの侯爵夫人だったとしても、その義務を放棄したくない。セレナは自分を奮い立たせるように仕事にのめり込んだ。
そして数日経った頃、朝目覚めたセレナにもたらされたのは、深夜の内に夫が帰還したという報告だった。
「これでようやく旦那様に会えますね!」
うきうきとした表情で、ミリーはセレナの身支度を整えていく。
「え、ええ…そうね…」
本当にどうしようもない理由で今まで会えなかったのかもしれないし、実は知らない間に嫌われてしまったのかもしれない。夫と会うことに結婚前夜以上に緊張をしていて、セレナの顔は少々青くなっていた。
「セレナ様…大丈夫ですか?」
そんなセレナの様子に、ミリーは心配げに顔を覗き込む。
「大丈夫。ようやくお会いできるんだもの。しっかりご挨拶しなくちゃ」
ミリーを伴って、バートラムの案内で夫の執務室へと向かう。部屋が近づくにつれ、セレナの鼓動も激しくなった。そして部屋の前まで来たとき、見知らぬ男性が一人、扉の前に立っていることに気づいた。
「これは…フィリクス様、」
バートラムはフィリクスと呼んだ男性の登場で何かを察したのか、一歩後ろに下がってミリーと並ぶ。男性はそのままセレナの方へと歩み寄り、一礼した。
「お初にお目にかかります、夫人。私はフィリクス・シェイドと申します。クラウセン閣下の補佐官を務めております」
「まあ、初めまして。私はセレナ・グレ――クラウセンです」
『お会いできて光栄です』とフィリクスが微笑む。しかし次の瞬間には眉をひそめ、非常に言いにくそうな表情で口を開いた。
「その…クラウセン夫人。大変恐縮ながら、閣下に至急の軍務が舞い込みまして…」
――ただ今お会いすることが叶いません。フィリクスのその一言に、セレナは頭を殴られたような衝撃を受けた。
背後ではミリーが息を吞む気配がする。セレナはここで動揺してはいけないと自分に言い聞かせ、できる限り自然に見えるよう笑顔を作った。
「…そうですか。お仕事なら仕方ありませんね。また出直します。――行きましょう、ミリー」
この時間に伺うと約束を取り付けたにも関わらず、それを反故にされた。仕事ならやむを得ないと思う一方、わざと会わないように仕向けられたのではないかと疑念が湧く。
来たときよりも足早に去っていくセレナの背を、フィリクスとバートラムは黙って見送っていた。そして。
「――旦那様、なんということを…。これでまた印象が悪くなりましたぞ」
「言うな、バートラム。私もあいつには呆れるばかりだよ」
二人が視線を向けた先――執務室の奥では、頭を抱えた男性の姿があった。
「ライナルト。言われた通り、夫人にはお戻りいただいたよ」
ため息交じりの報告を聞いた頭を抱えた男性――ライナルトは、勢いよくその顔を上げた。
なるほど、彼は身目麗しい。『求婚者に困らない』という噂も、あながち嘘ではなさそうだ。しかしそんな彼の身体は、小さく震えていた。
「なんということだ…」
「………」
「妻が、彼女が、――『セリィ』が扉一枚隔てた向こうにいたなんて!聞こえてきた声までなんて可憐なんだ!すぐそこにセリィがいたかと思うと、体が震えてくる…!」
「気配を感じただけで喜びに打ち震えるなんて怖すぎるよ、ライナルト」
名門侯爵家の当主ライナルト・クラウセン。フィリクスの冷たい視線もなんのその。彼はセレナにベタ惚れだった。妻を愛しすぎてどう接したらいいか分からない、ただの不器用野郎だった。
「セリィのウェディングドレス姿なんて見たら目が潰れてしまう…!思わず抱きしめて、あの華奢な体を潰してしまうかもしれない…!初夜なんてもっての外だ!俺のみっともない姿にセリィが愛想をつかすに決まっている…!!」
「もう愛想はつかされている気もするけどね。万が一でも夫人を傷つけてはいけないと急遽遠征に出たはいいけど、私は逆にそれが夫人を傷つけていると思うんだが」
「一度も会ったことのない男と初夜を過ごすよりマシだろう!?」
「それ、本気で言ってる?むしろ蔑ろにされたと思うよ」
「そんなバカな…!!」
ライナルトがセレナについて考えることは、どうしてこう逆効果なことばかりなのか。仕事はできるのに色恋事にはめっぽう弱い男、それがライナルト・クラウセンだった。




