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不在の夫が、密かに私をセリィと呼んでいた件  作者: 秋乃 よなが


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第一話 初夜にいない夫(1)


 小鳥のさえずりすら遠慮するかのように静まり返った応接間。地方出身の伯爵家三女セレナ・グレイアムは、窓の外をぼんやりと見つめていた。


(なんてあっけないのかしら)


 今日、セレナは王命によって定められた結婚相手の元へと嫁ぐ。姉も、その上の姉もまた、自分と同じように政略結婚だった。けれど、セレナ以上には温かく迎えられたはずだ。


 扉をノックする音が静寂を破る。セレナの許可を得て入室してきたのは、行政官の老紳士だった。彼は静かに頭を下げると、テーブルの上に一枚の書類を置いた。


「この度はおめでとうございます。こちらにご署名をお願いします」


 行政官の言葉に、セレナは無言で頷いた。薄く化粧された顔は凛としていたが、ペンを握る彼女の指先はほんの少し震えていた。


(――これで私は正式に結婚したのね)


 その実感は、あまりにも薄かった。何しろ相手の顔すら知らないのだ。事前の顔合わせも結婚式もない、ただ書類に署名するだけの結婚。


「クラウセン侯爵ご当主…ライナルト様とは、この場ではお目にかかれないのですね?」


 やるせない気持ちで思わず漏らした問いに、行政官は一瞬だけ言葉に詰まった。それを誤魔化すように咳払いをし、彼は答える。


「閣下は現在、軍務にて南方辺境地へ赴かれております。ご帰還の予定は未定とのことですが、必ずや――」


「そう、わかりました」


 セレナはそれ以上何も言わず、毅然と席を立った。


 今日からここが、私の『夫の家』。しかし肝心の夫はおらず、広すぎる屋敷はどこか空虚だった。


***


「……セレナ様、よろしければ今夜はずっとお傍にいましょうか…?」


 寝室のドレッサーの前で髪を梳かしてくれる侍女のミリー。彼女はセレナの実家、グレイアム伯爵家から連れてきた侍女で、幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた大切な家族だった。


「ありがとう、ミリー。でも一人で大丈夫よ。ただ、顔も声も知らない相手と、紙切れ一枚で結婚したことが奇妙なだけ。そんなこと、普通ならありえないでしょう?」


「噂ばかりは耳にするんですけどね…。剣の腕も立って、知将としても知られていて、陛下の覚えもめでたくて…」


「ええ。名家で優秀な軍人。おまけに『求婚者に困らない』って噂のおまけつき。どうしてそんな方が、地方貴族出身の私なんかと…」


「それはセレナ様がお美しいからに決まってます!」


 ミリーの『そんなのは明白だ』と言わんばかりの態度に、セレナはふっと笑いながらも納得はしていなかった。


 帰還の予定が未定ということは、今夜は初夜であるにも関わらず、夫となった人物は現れないことが確定である。いくら王命による政略結婚とはいえ、こんな理不尽なことがあるだろうか?


 夫にも会えず、結婚式もせず、初夜も終えられず。どれほど不出来な妻なのかと、社交界の笑われ者になるに違いない。


「ミリー、もういいわ」


「セレナ様…。…かしこまりました」


 ミリーが寝室を出ていったあと、ため息を一つ零してベッドの上に寝転がる。そうしてベッドサイドの引き出しを開ければ、手帳が一冊入っていた。


「………」


 手帳を手に取り、慣れた手付きでページを開く。昨日の日付が書かれたページには、夫となる人物への期待が込められていた。


 ――《ライナルト様は一体どんな方かしら》。《夫婦としてお互いを尊重し合えるといいな》。


 それは、セレナの心の内を書き綴ってきた日記帳だった。


「…バカみたいね。昨日の私に言ってあげたいわ。期待するだけ無駄よって」


 彼女は手帳に添えられたペンを手に取り、今日の日付を書き込んだ。そして心の内を綴る。


 《結婚初日なのに夫は姿を現さなかった。どうやら仕事の都合で遠征に出ているようだ。帰還の予定も分からないということで、私たちの結婚は紙切れ一枚で済んでしまった。


 今日から私はクラウセン侯爵夫人。でも何も感慨も湧かない。だって夫の顔を知らないから。結婚した実感が湧かないから》


 黙々とセレナは書き綴る。誰にも言えない心の声を。


 《そもそも遠征に出るというならば、結婚日を早めるか遅らせるかすればよかったのに。まさか遠征が昨日今日決まったわけでもあるまいし、知将などと呼ばれながらも、実は夫はポンコツなんじゃないかしら?


 夫を思うだけで、だんだん腹が立ってきた。こんな扱い、ひどすぎるわ。白い結婚が目的だっていうならそれでもいい。私は私でやってやる。――でも、》


(本当は、知らない間に嫌われてしまったのかもしれない…)


 強気で日記を綴っているかと思いきや、実は弱気な感情でいっぱいだったらしい。セレナはもやもやした気持ちを抱えたまま、眠れぬ初夜を過ごしたのだった。


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