金太郎─後編:最後の友達─
「な……なぜ……?」
金太郎は立ち尽くしていました。喉の奥で何かが詰まり、肺に空気が入ってきません。
目の前の"友だち"たちは、もう彼の知る姿ではありませんでした。口の端からは粘着質な涎が垂れ、ぜいぜいと荒い息を吐いています。
充血した眼球は、人の形をした何かを見据えていました。そこにはあの日の笑顔も、あたたかな記憶も、欠片すら残っていませんでした。
空気は針のように張り詰めていて、木々すら息を殺していました。殺意が森全体を重く押し潰していたのです。
そんな中で、猿だけが妙に冷静でした。かつてはお調子者だった猿。
けれど、その声にはもう笑いの響きが微塵も残っていませんでした。
「なぜだと?
お前たち人間が、なぜ俺たちの住処を根こそぎ奪い取った!
山の木という木を薙ぎ倒し、川に毒を流し込んだ……食うものも、飲む水すらも消し去った!
飢えに苦しむ仲間は次々と死に、残った家族は互いの肉を喰らい合う! それでも、人間どもは手を止めない!」
その声は次第に憎悪を帯びていき、やがて地の底から這い上がるような咆哮へと変わっていきました。
「かかれ! この人間の肉を引き千切れ! 骨まで砕いて髄を啜れ!!」
雄叫びとともに、動物たちは一斉に金太郎へと躍りかかってきました。
イノシシは牙を剥き出しにして突進し、鹿は尖った角で腹を貫こうとします。
狸は太腿に食らいつき、イタチは鋭い爪で首筋を掻き裂こうとしてきました。
金太郎はひらり、ひらりと身をかわしました。剣は鞘に収めたまま、声を張り上げます。
「待ってくれ! 俺が……俺がなんとかするから! お前たちを救ってみせる!」
その声は、絶望にも似た悲しみに震えていました。
しかしそのとき、狸が金太郎の顔面めがけて飛びかかってきました。
金太郎は咄嗟に――本能的に――刀を抜き払っていたのです。
刃は腹部を斜めに裂き、腸がずるずると垂れ下がりました。前足と後ろ足がばたばたと宙を掻き、温かい血が地面に飛び散りました。
倒れた狸の体は痙攣していました。口からは血泡が吹き出し、見るに堪えない姿になっていました。
金太郎の手はガクガクと震えていました。
……その狸を、わざと金太郎の前に投げ出したのは、猿でした。
「見ろよ、これが人間の本性だ。結局、自分の命が惜しくなれば、何でもするんだろ!」
「違う……これは違う……こんなはずじゃ……!」
血の気が引いていく顔。がたがたと震える顎。止まらない動悸。
けれどもう、流れを止めることはできませんでした。
怒りに狂った獣たちが、さらに激しく襲いかかってきました。
金太郎の心の奥で、何かが音を立てて粉々に砕け散ったのです。
視界は、暗闇に沈んでいきました。
金太郎は、ただひたすら剣を振るいました。涙も、絶叫も、もう何も出てきませんでした。
気がついたとき、足元は血の海になっていました。
鉄の匂いが鼻腔を突き、転がる肉塊、飛び散った内臓、潰れて白濁した眼球。血に染まった毛皮の切れ端。
そこは、かつて"友達"と呼んだ命たちの肉片で埋め尽くされていたのです。
そして――茂みの奥から、ずるりと一匹の鬼が姿を現しました。それは、熊でした。
「グル……キン……タロウ…… 俺は……鬼に……なりたく……ない……」
熊は必死に理性を保とうとしていました。
けれど、額からは鋭い角がにょきにょきと伸び始めていました。
口の端からは牙が突き出し、爪は異様に長く伸びていました。
ですが金太郎の瞳には、もう人間の光が宿っていませんでした。
魂の抜け殻となった目で、ぐちゃぐちゃの血と臓物に足を取られながら、熊に向かって歩いていきました。
「……キン……タロウ……たすけて……くれ……」
ドスッ。鈍い音が響きました。
そして、熊の首がごろりと地面に転がりました。
首の断面からは血がぴゅうぴゅうと噴き出し、胴体がしばらくぴくぴくと痙攣していました。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ーーーーッ!!!」
金太郎の絶叫は、森の奥へと吸い込まれ、風に乗って消えていきました。
彼は理解していました。これは正義でも何でもなかったのです。ただの――大量虐殺でした。
刀を振るうたび、自分の中の何かが死んでいきました。
あたたかさ。やさしさ。笑い声。歌声。すべてが、おびただしい血とともに流れ去っていったのです。
「所詮、てめぇも人間だってことだよな……」
猿が吐き捨てたその声が、耳の奥で延々と反響し続けていました。
討伐を終えて戻った金太郎を、人々は熱狂的に迎えました。
「英雄だ!」
「鬼どもを皆殺しにした勇者!」
「我らが救世主!」
賞賛。名誉。地位。財宝。あらゆるものが、金太郎の足元に山積みにされました。
けれど彼は、もう“言葉”というものを理解できない身体になっていたのです。
その夜、豪華な屋敷の片隅で、金太郎はぽつりと独り言を呟いていました。
「泣くな、俺……俺が殺したのは、"鬼"だ。友達なんかじゃない……違う……違うんだ……そうだ、そうに決まってる……!」
壁に叩きつけた拳からは血が滲んでいました。返事をする者は誰もいませんでした。森の声も、もう二度と届かないままでした。
そして――翌朝。
御上の屋敷は、死の静寂に包まれていました。
野良猫が忍び込み、床に散らばる肉の塊を貪り食べていました。
そこに漂っていたのは、鼻が曲がるほどの腐臭だけでした。
もう、金太郎の姿はどこにもありません。彼がどこへ消えたのか、誰も知りませんでした。
「あははは、よーし! 今度こそ負けないぞ、行くぞーっ!」
足柄山の人里離れた奥地で、ひとりの老人が、何もない空間で相撲を取っていました。
「相変わらず、猿くんは楽しいなぁ。くまちゃん、また一緒に魚を取りに行こうね……うさぎちゃんの歌声も聞きたいよ……」
彼は心から楽しそうに、そこにいるはずのない“友達”たちと生きていました。
血まみれの手で、空気を抱きしめながら。
めでたし めでたし。