赤ずきん【前半:森の囁く秘密】
むかしむかし、小さな村に、赤ずきんというあだ名で呼ばれる少女がいた。
その名の由来は、母の手で縫われた赤いずきん。
赤ずきんは母と二人暮らし。
毎日、掃除を欠かさず、手を洗い、言いつけを守る。まさに「いい子」。
村人たちも彼女を見れば微笑み、
「あんな娘がほしかった」
と口々に言った。
ある日、母が言った。
「おばあちゃんが熱を出して寝てるって。焼きたてのパンとスープを持っていってちょうだい」
「うん!」
赤ずきんは嬉しそうに頷き、かごを受け取った。
扉の前で、母の足が止まる。
声をひそめ、赤ずきんの耳元で囁いた。
「……いい? 森の中に住んでる“男”には気をつけなさい。誰にも心を許しちゃだめよ」
「どうして?」
「その人は、何人も人を殺して逃げてるって噂があるの。話しかけられても、近づいてもだめ。絶対に」
赤ずきんは、かすかにうなずいた。 そして、森へ……
鳥のさえずり。木々のざわめき。風の香り。 夏の森は穏やかに見えた。
だが、母の言葉が胸の中でじわじわと広がっていた。
しばらく歩いた先、道端にしゃがみ込む人影。 木の根元に、泥だらけのコート。 骨の浮き出た痩せた身体。
男は赤ずきんに気づき、かすれた声を絞り出す。
「……食べ物を……少しだけ、何か……」
ひび割れた唇。落ちくぼんだ目。 干からびたような姿。
ただ、瞳だけが鋭く光っていた。
まるで、何かを見張っているかのように。
赤ずきんの脳裏に、母の警告がこだまする。
それでも、苦しむ人を無視することはできなかった。
「……ちょっとだけなら……」
彼女はパンの端と果物を取り出し、恐る恐る差し出す。
男はそれを受け取り、感謝の言葉を述べながら食べた。
「ありがとう……本当に……」
だが、その視線は時折、森の奥へと向けられる。 何かを警戒しているようだった。
食べ終わると、男は立ち上がった。
「君はどこへ行くんだい?」
「おばあちゃんの家よ。森の向こうの……」
「ああ、あの辺りか……」
表情が曇る。
「……実は、お礼に君を案内したい場所があるんだ。少し遠回りになるけど、大丈夫かな?」
「遠回り?」
「ええ、その……」
男は言葉を濁す。
「君が通る予定の道は、今日はあまり……おすすめできないんだ。別の道の方が、安全で美しい場所を通れるよ」
赤ずきんは首をかしげた。
「どうして? いつもの道がダメなの?」
男は慌てたように手を振った。
「いや、ダメじゃない。ただ、その……木こりが作業をしてるって聞いたことがあるんだ。
大きな木を切り倒したりしてるから、危ないかもしれない」
だが、木を切る音など、どこからも聞こえない。
「僕が知ってる道なら、綺麗な花畑も通るし、君のおばあさんも喜ぶと思うよ。どうかな?」
その提案は親切そうだった。 けれど、妙に熱心で、断られることを恐れているように見えた。
赤ずきんは少し考え、うなずいた。
二人は並んで森の奥へと進んでいく。 男は道案内をしながら、周囲を見回していた。
「ちょっと待って」
「どうしたの?」
「……いや、何でもない。獣の足跡があるかと思ったんだけど、勘違いだった」
地面に、足跡など見当たらない。
歩きながら、男は不自然なほど明るく話しかけた。
「君は普段、一人で森を歩くのかい?」
「ええ、時々」
「……そうか。でも、最近は一人で歩かない方がいいかもしれないね」
「え?」
「あ、いや、その……熊が出るって話があるから」
だが、熊が出るという話は聞いたことがなかった。
「君の名前は?」
「赤ずきん」
「赤ずきん……いい名前だ。覚えておくよ」
男は、何かを考え込むようにその名を繰り返した。
たどり着いたのは、美しい花畑。 だが男は、落ち着かない様子。 森の奥を、頻繁に見つめていた。
「きれい……」
赤ずきんがつぶやくと、男は微笑んだ。
「君が喜んでくれて、よかった。でも……あまり長くはいられないかもしれない」
「え?」
「その、日が暮れる前に、君をおばあさんの家に送り届けたいから」
親切そうな言葉。 けれど、日はまだ高く、時間には余裕があった。
赤ずきんはしゃがみ込み、花を摘む。
「おばあちゃん、きっと喜ぶよね……」
男は静かにうなずいた。 だがその時、遠くから何かの音。
男の表情が強張る。
「……もう、こんな時間か」
「え?」
赤ずきんを見つめるその瞳。 焦り。緊張。何かを隠そうとする色。
「君は……本当にいい子だ。だから……」
男は立ち上がり、声を低くした。
「ここで待ってて。すぐ戻るから。お願いだ、絶対にここを動かないで」
「どこに行くの?」
「ちょっと……用事があるんだ。君はここにいた方がいい」
視線を逸らし、逃げるように男は駆け出した。 背中には、何かを背負った者の影。
赤ずきんは、その場に立ち尽くす。
だが、男の様子に芽生えた違和感が、不安を膨らませていく。
花をかごにしまい、赤ずきんは歩き出す。 祖母の家へ。
――その先に、何が待っているのかも知らぬまま。




