踏みしめることができない踵
靴を履いたとき、右の踵だけが、少しだけ浮いていた。
靴底がすり減ったのかと思ったが、そうではない。足の裏が、地面に触れていない。ほんの少し。空気を一枚、挟んでいる感覚。
だらだらとありふれていたことを喋っていた友人たちとも別れ、一人になった。
ふと、交差点で、歩道橋が逆の側についていることに気づいた。
「こんなだったっけ?」
祐也は自分に問いかけるが、答えは返ってこない。毎日のように通っているはずの道。それなのに、信号の色が濁って見えた。
人の話し声も、コンビニの店内放送みたいに、どこか録音された声のようだった。
抑揚が不自然で、会話の間が少しだけチューニングがズレている気がする。
家に帰ると、母が炊いた米の匂いが少し違った。いつもより、甘い。
風呂に入ると、湯船の中で自分の足が、妙に長く感じた。膝の位置がいつもより上にあるような気がした。けれど、成長期だから、と言い聞かせた。
そう、成長期。
昨日より声が低いのも、よくあることのはずだった。
おじいちゃん先生の橋本先生の現代文。
昼食のあとの五時間目は、少し眠くなって、教科書を開いたまま、うとうとと意識が沈んでいった。
夢を見ていた。教室の机が並ぶなか、自分と同じ制服の誰かがこちらをじっと見ている。
顔がぼやけていた。その人は、祐也の机の横に立ち、何かを囁いていた。けれど声は聞こえなかった。
パッと目を覚ますと、教室はしんと静かで、おじいちゃん先生の声だけがいつもより間延びして遠くで響いていた。
祐也は身を起こして伸びをしようとしたとき、自分のズボンのチャックが開いていることに気づいた。
慌てて机の下に手を伸ばし、そっと閉める。
──下着が見えていた。
誰かが見たかもしれない。でもそれよりも、自分が“何を履いていたか”思い出せなかった。
確かにチャックから見えていたはずだ。
ただのパンツ。トランクス、ブリーフ、ボクサーパンツ。パンツにそんな種類なんてない。
色だって、多分、白とか黒とか灰色とか。
朝、着替えたときの感触が、ない。どんな柄だったかも、締めつけの感覚も、頭の中から消えている。
その空白が、どんな夢よりも怖かった。
学校からの帰り道、またひとりぼっちになった。
ふたたび踵が浮いた。
昭和レトロと名乗っている寂れた商店街の窓に映った自分の姿は、昨日より薄かった。肩幅が少し狭くなり、手足が線のように細く見える。服がぶかぶかだ。
誰かに見られている気がした。
振り返ったけれど、誰に見られているのか、祐也には分からなかった。
疲れているかもしれない。
祐也はソシャゲの周回もSNSをだらだらすることもなく、寝入ってしまった。
知らない制服の誰かと手を繋いでいた。顔は霞んで見えなかったが、祐也はその人の手の温度を覚えていた。
目が覚めたとき、シーツは乾いていて、汗もかいていなかった。だが、その妙に生々しい温もりだけは、はっきりと手に残っていた。
また自分が一人になる時間がやってきた。
人影もまばらな商店街の中で、自分と同じ制服を着た“もう一人の自分”を見つけてしまった。
少し先を歩いていた。背中だけが見える。呼びかけようとしたとき、足元がもつれた。
踵が地面に触れない。
立ち止まると、背後から誰かが囁いた。
「……戻ってきちゃったんだ」
振り返ると、そこは見覚えしかない商店街だった。けれど、すべてが左右反転していた。眼鏡屋の看板、地元の中学校の美術部が描いた絵、人の歩く向き。
祐也はそっと右足を出した。やはり、地面が少し遠い。
それでも、自分と同じ制服の背中を追って、歩き出した。
翌朝、目を覚ますと、制服が少しきつくなっていた。
シャツのボタンを閉めるとき、胸板に引っかかった。
違和感がある。昨日までの自分と、何かが違う。
鏡を見ると、髪の分け目が逆だった。
けれども、祐也は、もうそれを正そうとしなかった。
踏みしめることができない踵のまま、祐也は今日も歩き出す。