ふつうを壊す子
昼の保健室は、静かだった。
井口宗一は、微熱と少しの倦怠感を理由に、授業を抜けてベッドに潜り込んでいた。白いカーテン越しに、もう一つの寝息が聞こえる。隣のベッドにも誰かがいるのだろう。
しばらくして、カーテンの向こうから声がした。
「……井口、だよね?」
知らない声ではなかった。たしか、クラスの赤津。明るくて、誰とでも仲が良い男子だ。
「うん。赤津?」
「うん。おれ、ちょっと腹痛くて。……なんかさ、保健室って、話しやすくない?」
宗一は、曖昧に笑って頷いた。カーテン越しに言葉を交わすだけなのに、変に気まずさがなかった。
話題は取り留めなかった。好きな飲み物の話、先生の口癖、最近の雨の多さ。
宗一は久々に“ふつうに話せた”気がして、気が緩んだ。
ふと、カーテン越しに、こんなことを言ってしまった。
「赤津ってさ、……男子でも、誰かをちゃんと“好き”になれるんだろうなって思ってた」
一瞬、沈黙。
「……どういう意味?」
「いや、なんか、ふつうに人に優しいから……。そういうとこ、いいなって」
「……そっか」
その後、何を話したか、宗一はよく覚えていない。ただ、赤津の声が少し硬くなっていたことと、カーテンがするりと引かれた音が印象に残った。
翌日。
教室の空気が、妙だった。
朝の会話に宗一が加わろうとしても、誰も顔を上げない。小さな輪に声をかけると、微妙に話題が変わる。
いつも通りに声をかけても、笑いが続かない。
「なんか……井口って、ちょっと距離感おかしくない?」
後ろの席の女子が、わざとらしく聞こえる声でそう言った。
宗一は、その日、無言で教室を出た。
昇降口の鏡に映る自分の顔が、なぜかうっすらと他人のように見えた。
放課後。
誰かが、先生と話しているのを見かけた。
「井口くん、最近ちょっと疲れてるみたいで……」
柔らかく、でも確実に“排除”のための布石が打たれている。
宗一は理解した。
あの保健室の会話が、“普通ではない何か”として扱われているのだと。
その日を境に、彼は孤立した。
休み時間、机の位置が微妙にずらされていることに気づいた。
先生の視線が、やけに丁寧すぎる。
誰も、彼の名前を呼ばない。
そのすべてに、「ふつうじゃないから」が染み込んでいた。
赤津遥は、教室で何人かの友人と談笑していた。
「井口、休みがちだな」
「……ああいうの、ちょっと怖いよな」
赤津は、小さく笑った。
「……でも、ちゃんと分かったでしょ。“ふつうを壊す子”って、どう扱えばいいか。……みんな、分かってるよね」
それを聞いて、周囲もふっと笑った。
誰もが笑っていたが、誰一人として、心から笑ってはいなかった。
ただ、その空気が“ふつう”を維持するための、必要な儀式なのだと知っていた。
そうして、教室の席は埋まっている。
一席だけ、確かに空いているはずなのに──誰の目にも、それが見えないふりをしていた。




