その顔、見覚えありますか
中学校の卒業アルバムが届いたのは、春の終わりのことだった。
少し遅れて桜が咲いたような暖かい午後、うちのポストに無造作に突っ込まれていたその分厚い本は、白いビニール袋に包まれていて、表紙には校章と「卒業記念」の金文字が光っていた。
なつかしい、と思った。
正直、卒業式の日の記憶はあまり残っていない。
ぼんやりとした空気の中で返事をして、賞状を受け取って、名前を呼ばれて、誰かと写真を撮ったような気がする。
でも、それも本当に自分だったかどうか、曖昧だった。
久しぶりに見るクラスメイトたちの顔。
笑っていたり、ふざけていたり、ピースしていたり。
そのなかに、俺、三浦凪翔はいた。
でも――
「……これ、俺の顔?」
ページをめくる手が止まった。
自分の写真が、なんとなく違って見えたのだ。
いや、顔そのものは凪翔のものだ。
だけど、こんな表情を凪翔はしていなかったはずだ。
口元が妙に吊り上がっていて、
目はカメラを見ているようで、どこか遠くを見ているような、ピントが合っていない感じがする。
気のせいだ、と思ってページを閉じかけて、でも引っかかった。
そこでスマホを取り出して、卒業式の日に撮った自撮りを確認してみた。
画面に映った凪翔の顔は、アルバムのそれと少し違っていた。
凪翔の記憶の中の表情とも違っていた。
それでも最初は、「印刷の加減かな」と思った。
写真は、光や影でいくらでも変わって見えるものだ。
そう思いこもうとした。
卒業アルバムのことは、学生生活をやっているうちに凪翔の頭の外にいっていた。
しかし、同じ中学の同級生が投稿したInstagramのストーリーを見て、凪翔はさらに混乱した。
「卒アル届いたー!みんな変わってなくて安心した」
その画像には、凪翔の顔がはっきり写っていた。
例の、吊り上がった口角と、焦点の合わない目のあの写真。
「なんか俺、変な顔じゃね?」とDMを送ってみた。
冗談っぽく、軽く、気を紛らわすように。
でも返ってきた返信は、想定外だった。
「え?いつもあんな顔じゃん?」
ぞくりと背筋が冷えた。
――いや、違う。
俺は、あんな顔じゃなかった。
何かがおかしい。
違和感は日ごとに強くなっていった。
他の人のアルバムでも、凪翔の顔はあの“変な顔”になっていて、
どれを見ても、同じ角度、同じ表情、同じ曖昧な視線で笑っていた。
母に見せた。
「これ、俺の顔、変じゃない?」と。
母は少し眉をひそめて、「高校で疲れてるのかもね」と言った。
でもその目は、どこかで「この顔、初めて見た」って思ってるようだった。
それなのに、口に出したのはそれじゃなかった。
だんだんと、日常の中でも違和感が増してきた。
友達が俺の名前を呼ぶとき、ほんの一瞬だけ間がある。
先生が俺を見たとき、眉がわずかに動く。
俺が三浦凪翔であることは変わりがないはずだ。
なのに、何かが微妙にズレていく。
俺が、三浦凪翔であったことに時々自信がなくなる。
顔が違うだけなのに。
気になって、また卒アルを開いた。
今度は、クラスページじゃなくて、個人写真のページ。
そこには、全身を写した個人写真が並んでいる。
三浦凪翔のページを見た瞬間、呼吸が止まった。
そこに写っていたのは、完全に知らない顔の男だった。
髪型も違う、身長も高い、笑い方も歪んでいる。
でも、名前の欄にははっきりと、俺の名前、三浦凪翔と書いてある。
居ても立っても居られなくなった。
学校が終わってすぐに、わざわざ卒業した中学校に行った。
恩師にそこそこ適当な挨拶をして、図書室に収蔵されている卒業アルバムを見に行った。
結果は同じだった。
俺の名前、三浦凪翔と歪な顔が、すでに結びついていた。
叫びだしそうになった。
もうそれからはどうやって帰ってきたのか、分からない。
家に帰って、鏡を見た。
見慣れたはずの自分の顔が、少しだけ違って見えた。
目尻が下がっているような、歯の見え方が違うような……
自分の顔に自信が持てなくなる。
スマホのカメラで自撮りをして、確認する。
でも、カメラの中の自分も、少しずつ卒業アルバムの顔に似てきていた。
寝て起きるたびに、顔が変わっているような気がする。
そしてある夜、俺は卒業アルバムをベッドの上に放り投げた。
ドサッという音とともに、アルバムは開き、あのページがこちらを向いていた。
そこには、ぐにゃりと歪んだ笑みを浮かべた“俺”がいた。
「ふざけんなよ……」
ボールペンを手に取り、ページを力任せになぞった。
目を、鼻を、口を、何度も何度も。
「こんなの、俺じゃない!」と叫びながら、三浦凪翔の写真が見えなくなるまで、黒く塗りつぶした。
ぐしゃぐしゃの線の下で、顔が消えていった。
そのとき、スマホに通知が届いた。
「#卒アル #思い出」
開いたSNSの写真には、クラスメイトと一緒に写る俺の顔――
そこも、ぐしゃぐしゃに塗りつぶされていた。
まるで誰かが上から直接、線を重ねたように。
別の投稿。
別の写真。
凪翔の顔だけ、全部。
学生証、図書カード、SNS、何もかも。
鏡を見た。
……そこにも、ぐしゃぐしゃの顔が映っていた。
目も、鼻も、口もない。
顔のかたちだけが、輪郭として残っていた。
呼吸はできていた。
声も出せた。
涙も出た。
でも、それは「顔」ではなかった。
「……これが、俺の顔か」
誰にも覚えられなくてもいい。
誰かに“変わった”と言われることもない。
ぐしゃぐしゃのまま、俺は、生きていく。




