ただの顔の話
「なあ、聞いてくれ。昨日から、うちの家族……顔が違うんだ」
ナオがそう言ったのは、誰もいなくなった放課後の教室だった。
西日が差し込む教室の隅で、僕たちはいつものようにだらだら喋っていた。
“いつものように”──そのはずだった。
「顔が違うって……?」
「うん、なんか知らない人になってた。母さんも、父さんも、妹も。髪型も声も服も一緒なんだけど、顔だけ、まったく知らない人。……でも普通にごはん作ってくれたし、なんかもう、別に困ってないんだよな」
笑いながらそう言うナオを、僕はじっと見た。
笑いのツボも、好みの味も、どんな音楽を聴くかも──僕は全部知っている。
中学の頃から毎日一緒にいて、いつか離れるなんて考えたこともなかった。
だからこそ。
だからこそ──
その顔じゃないって、どこかで思った。
ナオの瞳の奥が、妙に濁っている気がした。
輪郭がほんの少しだけ、昨日と違って見えた。
でも、それを口にする勇気は出なかった。
その週の金曜、僕はナオの家に呼ばれた。
玄関先まで出てきた母親は、優しげな笑顔を浮かべていた。
それでも、やっぱり……知らない顔だった。
「いらっしゃい。ナオの部屋、あがって右よ」
言葉も声も、まったく違和感がなかった。
けれど顔が違う。
いや、きっと、声や仕草まで完璧だからこそ、その“違い”が際立っていた。
ナオの部屋のドアを開けると、彼は布団に寝転がってゲームをしていた。
こっちを見て、片手を挙げる。
「よっ。ジュースあるから、飲む?」
「……うん」
どこかで、僕の中の“違和感”が、ゆっくりと沈んでいくのを感じた。
「なあ、ナオ」
「ん?」
「本当に、それ……お前の家族なのか?」
ナオはゲームの手を止めて、少し首を傾げた。
「わかんないけど……でも、もういいかなって思ってる。
どうせ、前の顔も思い出せなくなってきたし」
その言葉が、妙にすんなりと入ってきた。
思い出せなくなってきた。
ナオの父親の顔。
妹の笑い方。
母親の眉の角度。
──僕は、思い出せなかった。
夜になり、帰り際、ナオが玄関まで見送ってくれた。
靴を履いているとき、ふと彼が言った。
「……もしかして、お前の家族も、もう変わってるかもな」
僕は笑って返した。
「だったら、俺もそろそろ、慣れないとな」
そのとき、ナオの顔を見た。
ほんの少しだけ、目の位置が違っていた。
でも、その違和感を咀嚼しているうちに、
どうでもよくなった。
家に帰ると、父と母と兄が、テレビを観ながら笑っていた。
その横顔が、昨日よりも知らない人に見えた。
でも──
僕は、リビングに入って、いつもの席に腰を下ろした。
「いただきます」
それは、ごく自然に口をついて出た。