第十九話
なんだか暑苦しい。
耳にも毛虫がちらついたような不快感。
それは騒音によるもの。
体の周りを覆う熱気や汗もうっとうしい。
気づけば瞼は下に降りていて、自分は今眠っているということに気づく。
また体に巻き付く大蛇のような感触、それは深く私に安心感を感じさせ
拘束という意味合いよりも抱擁、つまり守られているというような
意味合いにして脳内物質が放出される。
その安心感はして一体ぬくもりがあることから枕ではないこともわかるし
この耳に伝わる雑音も家ではありえないということがわかる。
いったい私はどこで寝ているのか、それを確かめるため
重い瞼を開いてみると見ればそれは祭りの会場内であり、
耳元に吐息が聞こえたと思えばそこには私の好きな人がいた。
ねびきを書いている彼は私をまるで子供のようにして守るお母さん猫ように
私の隣で腰を下ろしていた。
ああ、なんて愛しいこと。
すぐにでも抱きしめて獲物を捕獲せんとする蛇のようにその愛躯に
絡みつきたい気持ちにかられたがそれでは彼を起こしてしまうだろうし
それでは気の毒なので私はきゅっと下唇をかむまでにして
その衝動を心のうちにとどめた。
しかし肌を触れるくらいならと私はそのもろい精神を発露する。
ざらざらの肌。
また決して整っていない鼻筋。
一重瞼に、たぼったい意気地のないような眉毛。
ニキビは幸いにしてできてはいないようであった。
髪はざくざく、まるで性質の悪い家の庭にぶっきらぼうに生命力高く
生える雑草のよう。
一見にして惚れるところがないはずなのに、どうしてどうして私は今
こんなにも締めつかれそうな思いをこの人に向けんとしているのか。
指先のなぞっていくは最後の終着点、唇に触れる。
とてもかさかさだった。
けれども私はこれがために酷い情熱というものを覚えさせられたのだ。
キッスによってのものなの?この恋慕は。
それじゃあまるで私がふしだらな女のようじゃない。
いやだわ、そんなの・・・
けど明らかに意識が変わった瞬間といえばあそこしかないのは確かなのだし・・・
でも、でも・・・
確かにゲームセンターでからかってる時は楽しかったのもあるし
それは自分がモテるからという事実を得ていたからでもあるけど
やっぱりなぜか一緒にいることで安心感があったわ、最初にあったときから。
つい慢性的な悪い癖がでちゃって、酔いしれたところを見られたのはまずかったけれど
そのあとの彼の対応というのも全くにして無下にはせず
かまってくれたことからやっぱりそういうところにも惹かれているのかしら。
でもナンパの際にもあのキッスがなければはたしてどうなっていたか・・・
守ってくれるという感じはしない、けど一緒にいるとなんだか心地いい。
ただそれだけのことなのに、どうしてここまで心が苦しいのかしら。
なんであの時、私はこの人とキッスをしようなんて思っちゃったのかしら。
ああ、もう憂鬱。
この人は意外とねちっこい性分だから絶対にしてこのことを煽ってくるに違いないわ
いえ、そうに決まってる。
そういうところは本当に嫌いよ。
けど、そのキスとかハグしてくる時はそんないやらしさを感じない
むしろ誠実さが伝わってくる。
そのギャップがたまらなくいいのかしら。
ああ、もう一度試してみたいという衝動に再びかられる。
やっぱり私はビッチなのかしら。
自分自身をごまかすかのようにして髪をポリポリとかいてみると
なんと指先に毛虫が一匹!
たまらないとばかりに私は椅子から跳ね起きた。
彼は起こさないようにして私は体のありとあらゆるところをくまなく手で振り払った。
思わず発狂してしまいそうだったが彼の眠りを妨げるということに比べれば
虫なんぞ屁でもなかったのでそこはこらえた。
結局その毛虫一匹しか私の表皮付近に付着していなかったようだったけど
いったいどうしてこんな毛虫なんかが付着したのかは
全く持って理解ができなかった。
小さな羽虫ならまだ理解はできる。
けどこんな木が一本もないこのあたりで突然毛虫が現れて私のもとに転がり込むなんて
不自然だわ。
彼の身も一応確認しておかなくては。
彼の体を伝って私のもとに来たのかもしれないのだから。
けども少なくとも外見では毛虫一つついていない様子だった。
ならば私はそんなにも汚く、そして虫が寄り付きやすいような体質なんだろうか。
確かにO型ではあるけども、毛虫が寄り付くなんて聞いたことがない。
せめてそんなのは蚊程度であって。
なんだか体もぽかぽかするし、頭もくらくらする。
この祭りの高揚感にあおられてすることなすこと理性なくしておのずからそんな
森の中に飛び込んでいたのだろうか。
キッスをする時だってあまり意識が鮮明でないときにやったことだし、自然と
森の中に入って暴れまわったりもしていたかもしれない。
しかし一回ねてしまったせいか、前後の記憶はとてもあいまいだわ。
口から吐く息がとてもお父さんの口臭と似てるし、もう最悪。
体もほてっていることだし、かき氷でも買ってこようかしら。
でも寝ている彼をそのままにしておくのもなんだか気が引けるわね。
とりあえず彼の腕をもう一度私の体に巻き付かせて気持ちを落ち着かせる。
こういう場合なんだ蚊心も落ち着いて冷静な判断もできそうな気がしてくる。
彼は私のエンジン。
なんてね。
彼の頭を撫でてみる。
ごわごわとして近所の玄さんが飼ってた柴犬みたいな触り心地。
でもそれは決して不快感はなくてむしろ撫でてとても落ち着く。
彼は私のペット?
愛玩動物にしては少し大きすぎるかもしれないし、コミュニケーション能力も高すぎるかも
しれないわ。だからきっとそれも違う。
今や私の心の中は田中誠一、それのみ、一色にして埋め尽くされている。
けれどその理由は祭りの高揚感によるものなのか、処女の性欲の鬱憤の受け皿をみたすため
なのか、はたまた昔よく世話をしていたペットロスの穴埋めによるものなのか
私、小林夏美はわからない。
もう人生を十六年も生きてるのにちっともわからない。
けどこの気持ちには変わりはない。
彼を一生私のもとから手放したくないという。
話していて楽しいというのは確かだわ。
とにかく男を束縛してみたかったのかしら、一人っ子で寂しがりやなだけなのかもしれない。
彼の腕からぬくもりが感じられる。
それははたしてとうとう私の心の奥にまでしみこんできて、
私の中で必死にこらえていたそれがとうとうほどかれるまでにしてしまう。
彼のせいについしちゃったけれど、すなわちもう抱き着かないということは
私の行動選択肢から除外されてしまったというわけで。
だけども自制心というものは土壇場にでも発揮はするようで
ぎゅっとはいかずともしゅるっとその私の中の心の空白を彼の存在によって満たす。
はたしてそれは密着状態。
暑苦しいなんてことはない。
むしろ心地よいぬるま湯さながらの適温。
きっと天国の泉があったらこんなぬくもりをいうのだろうと確信をもって言えた。
夏の外気温じゃ私の心の冷たさはカバーできない。
世間の外気温にさらされた私の心はただの温かさじゃほどかれない。
効能効果のある音声じゃないといけない。
それもただの薬湯じゃない、とびっきりの入浴剤で。
ああ、彼も私と同じなんだ。
ジトっとした湿り具合が肌を通して伝わってくる。
心臓の鼓動はまるで祭りを主人に知らせず一人心臓のみが楽しんでるかのような
弾み具合。
もわっと匂うその汗は、私の尾行をくすぐりまた下腹あたりをキュンキュンさせてくれる。
彼の発するものはすべてにおいて私を癒してくれた。
永遠にこの時が続けばいいのにとただそれだけを思う。
祭りばやしの無機質な音がその時間を長引かせてくれるようだった。
しかしはたして彼の体も私と同じほどに熱いということに
ようやく気づくと、熱中症の恐れもあることから彼も何かしら冷たいものを摂取しない
といけないという使命感が心に訪れその時間に終わりが来ることを悟った。
そしてついにして何も考えずにその彼をおいてかき氷を買ってくるという
代案を出さずにいたのだ最中、
「なにしてんの、あんた」
という声が前方から突然したのでなにかと思えばそこには私の良きライバルでもあり
そして友人でもある前橋あかねが憎しみを持った目でこちらを見据えていた。
「ねえ、何そんな男とべたべたしてんのよ。気色の悪い」
続けてなんて心もないことを言ってくるので私は警告の色合いを持った声で
そんなぶしつけな彼女に忠告した。
「ねえ、私の彼を馬鹿にするようなことこれ以上言ったら承知しないから」
憎しみ半分冗談ながらの脅し半分でそう言ってみただけなのだが
予想以上の効き目が生じたようであり
「わ、わかったわよ」
と狼狽ぶりを声でも体でも発揮してくれた。
「そういえば連れの前田はどうしたのよ」
といつも引っ付き虫のようにして前橋の周りに付きまとう彼女の姿を見えないことに
疑問を呈すると
「ああ、みっちゃんなら帰ったわよ。なんでも門限があるらしくてね親に言いつけられたって」
「ふーん、真面目だなー」
「真面目って、もう八時なんだけど。あーやだやだ、カップル様方は時間の概念に
疎くて」
「はいはい、さいですね。で、あんたはそんな遅い時間に一人で何してんの」
「んー、いや刈米宗助っていうカモを探してんのよ。さすがにチョコバナナ一本も食べない
で祭りから去るのもなーって思ってね」
「ふーん、つまり暇人ってわけか」
「ん、んー・・・まあそうともいえるわ」
彼女はプライドが高いが故、それを認めたがらなかった。
歯切れが悪くそう答えたのちその刈米宗助とやらを探しに彼女は私のもとを去ろうとした
ので私はその行く道を阻んだ。
そうだ、彼女に留守番をしてもらえばいいじゃないかと思いついたからだ。
「な、なによいきなり」
突然立ち上がり行く手を阻む私に対して動揺する前橋。
「はいこれ」
目にはものをいうというので千円札を彼女に差し出した。
「い、いや、はいこれじゃなくてこのお金は何よ」
そういいながらもその手は千円札をつかんでいた。
それを好機とばかりに私はぱっと手を離しついでにその千円札をつかむ手を彼女の無駄に
でかい胸に押し付けてやった。
「もらっときなさいって、でも代わりに私の彼と一緒に留守番してくれると嬉しい」
「私が?あんな陰キャと?」
「・・・ねえちょっと今なんて言ったの?」
なんか飛び切りに不快なワードが聞こえてきたと思ったので彼女に問うてみる。
「う、ううん、なんでもないわ!田中誠一君ね!わかったわ!彼と留守番してればいいんでしょ!?」
「うん、そうそう。それで十分チョコバナナ代は足りるでしょ?」
どうやらおかしな雑音は私の思い越しのようだった。
「うん、うん!足りるわ!」
「よかった、じゃあ待っててね。すぐ戻るから」
「はい、いってらっしゃい」
前橋あかねからその言葉を受け取り私はお口直しと
彼と自分の熱中症予防のためにかき氷を買いに出かけた。