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9.ひとつの劇の終幕

 三年に及んだ戦争で大勝利を収めたことを祝して、王宮ではかつてない規模で宴が催された。

 多くの貴族が集い、王の名の下に杯を掲げて、皆栄光と未来に酔いしれている。


 そんな晴れやかな会場の片隅で、ささやかな観劇が始まっていた。


「フィオナ・スタニエ。君を我が妻に迎えることはできない。残念だけど、婚約を破棄させてもらうよ」


 成金男爵家の嫡男ジュリオードは、家の都合で押し付けられたほとんど面識のない婚約者をぴしりと指差し、少しも残念ではなさそうに告げた。


「その濃い化粧と、見るに堪えない下品なドレス………。そんな装いで平然としている君を見て、巷で流れている噂は真実だと確信したよ。白髪の淫靡な女が、夜な夜な街角に立って男たちの袖を引いているとね。それが自分の婚約者の所業だなんて信じたくはなかったけど、滲み出る淫らさは隠しようもないな。いくら伯爵家の出身だからって、誰彼構わず身体を許すようなふしだらな女はごめんだ。正式な手続きについては追って知らせる。行こう、ナタリア」


 ジュリオードは心底蔑んだ表情で言いたいことだけ言い捨てると、もうフィオナを振り返ることなく、連れ添う令嬢の腰を抱いて意気揚々と歩き去った。


 ちょっとした劇の終幕に、どこからか拍手ではなく忍びやかな笑い声が上がる。

 悲劇のヒロインが泣き崩れるのを望むようにチラチラと好奇の目が向けられたが、人形のように無表情で何の反応も示さないないフィオナを見ると、場に白けた雰囲気が漂う。

 興味を失った人々は次第に散り散りになっていき、フィオナだけがその場に残された。



 二年前、本人たちの意思とは無関係にフィオナとジュリオードの婚約が決められたものの、顔合わせの日以降音沙汰はなく、会うのは今日で二度目だった。


 今日は、半年後の婚姻を控え、公の場で初めて二人そろっての顔出しとなるはずだったが、ジュリオードはエスコートのために迎えに来た時に不快そうにフィオナをちらりと見たきり、あとは一度も目を合わせることなく会場入りした。


 そしてひと通り式典が終わるとすぐにフィオナから離れていき、見知らぬ令嬢と寄り添いながら戻ってきてこの顛末だ。


 フィオナの身支度をしたのは、叔父の命を受けたメイドたちだ。フィオナ自身はされるままに任せ、鏡も見ていない。自分が今どんな格好をしているのか気に留めていなかったが、ジュリオードがあのように言うからには、場に相応しいものではないのだろう。


 それでも、街角に立っているという女性とフィオナの実像がまったく一致しないことに、彼は気づかないのだろうかと首を傾げる。


 フィオナの身体は、痩せ細って枯れ木のようなのに。

 どれほどはしたないドレスを着ても、淫靡と呼べるほどの色香など出るはずもない。

 おそらく噂の正体は、白髪のウィッグをつけた娼婦か、あるいは、娯楽の一環として作り出された怪談話といったところだろう。


 口元を手で押さえたフィオナは、ふう、と力なく息をつく。そして手袋(グローブ)に移った紅の色を無感動に見つめた。


(……黒ずんだ血みたいな色ね………)


 身支度の仕上げに紅を塗ったメイドの薄笑いが、ぼんやりと脳裏に浮かぶ。

 化粧になど関心はないが、彼女が力任せに締め上げたコルセットのせいで、上手く息が吸えない。


 呼吸をするたび胸に重く鈍い痛みが走り、時間が経つにつれて息苦しさが酷くなってきている。床の模様がゆらゆらと歪んで見えて、力が入らず足がもつれた。


(どこか、人のいないところへ行かないと………)


 出口を探そうと身体の向きを変えたところで、強い力で肩を掴まれ無理やり引き戻された。

 ふらつき倒れそうになるのをどうにか堪えて顔を上げると、すぐ後ろに立っていたのは、怒りで顔を真っ赤に染めた叔父だった。


「どういうことだ、フィオナ! この期に及んで婚約破棄だと⁈ 娼婦の真似事をしている女はいらんと先方に言われたぞ。少しばかり整った顔しているからといって……チッ、余計なところが母親に似たようだな? 男爵家から資金援助の約束を取り付けていたというのに、すべてが水の泡だ!」


 普段はフィオナなど見えないもののように扱う叔父が、珍しくフィオナを視界に入れていた。ありもしない出来事をたちまち真実と決めつけて、ワナワナと身体を震わせ唾を飛ばしながら怒鳴っている。


(叔父様がわたしを正面から見たのは、何年ぶりだろう………)


「聞いてるのかっ!」


 ぼうっとした頭でフィオナが言葉を右から左へ聞き流していることに気づいた叔父は、怒りにまかせ渾身の力でフィオナの頬を張った。

 バシッという打擲音が響き、身体の軽いフィオナは吹き飛んでホールの床に打ちつけられた。

 物々しい騒動に、先ほどの婚約破棄の時よりもはるかに多い衆目が集まる。


「疫病神め! 兄の子であるかも疑わしいお前を、育ててやった恩も忘れおって。我がスタニエ伯爵家にお前は不要だ。勘当だ! どこへなりと消え失せろっ!」


 殴られた衝撃でひどい耳鳴りがし、怒鳴り散らす声も切れ切れにしか聞こえなかったが、床を踏み鳴らす振動で叔父が立ち去っていくのがわかった。

 好奇や憐れみの視線が向けられ、落ち着きのない騒めきが周囲を取り巻いたが、フィオナに近づこうとするものは誰もいない。


(……………)


 耳鳴りが収まってからゆっくりと立ち上がり、フィオナは乱れた髪やドレスを少しだけ直して顔を上げた。

 そして鉛のように重い身体を引きずり歩き出す。

 ここではない、どこかへ向かって。




 最初からあの家に居場所などなかった。

 大切だったのは、アルタリエと過ごした時間だけだ。

 名前からスタニエの文字が削られたところで、なんの感慨もない。


 フィオナは口の悪い『同居人』の力強い翼を、心に思い描く。


(………アル………。今こそあなたの力があれば、遠くへ飛んでいけたのかしら。どこまでも高く飛んで、空に溶けて消えることが、できたのかな………)


 息が詰まって激しく咳き込むと、手袋にさっきとは違った鮮明な赤色が滲んだ。

 殴られて切れた口内の傷から流れたもののはずだが、さっきから身体中が痺れ、血の味も痛みも感じない。


 ここ数ヵ月は体調が思わしくなく、誰も訪れない部屋で一日中床に伏せっていることも多かった。

 身体を起こしているのもやっとだったが、それでも今日ここへ来ることは、フィオナにとって大きな意味があったのだ。


 

 ふらつく足でどうにか歩き続け、やっとの思いで祝賀会の会場から抜け出す。

 青い芝で整えられた美しい庭園へ辿り着き、霞む目にも鮮やかな満天の星空を見上げる。

 フィオナの口元に、やわらかな笑みが浮かんだ。


(見たかったものは、見られたわ)


 婚約者との顔見せも、身に覚えのない中傷と突然の婚約破棄も、生家からの追放も。

 フィオナにはどうでもいいことだった。



(戦場から生きて帰って来た騎士様の姿を、この目で見ることができた………)



 祝賀会の式典の中心に、懐かしい姿はあった。


 女神の恩寵を得て奇跡を起こし、戦勝に絶大な貢献をした英雄と讃えられる緋色の髪の騎士。

 式典用の騎士服は彼の長身を一層引き立て、眩しいほど精悍で美しい。

 功績の大きさから王自らの手で勲章を授けられ、人々の称賛と崇敬を一身に浴びていた。


 あのひとは運命づけられた死に打ち勝ち、これからも光の中で生きていく。

 その助けをほんの少しできたと思うだけで、フィオナは自分の命が意味のあるものだったと、初めて信じることができた。


(きっと………わたしの命は、このためにあったの)


 騎士の身体に宿らせたアルタリエは、『運命の日』に、確かに役目を果たしフィオナのところへ還って来た。しかしひどく消耗し、姿を現すことも話すこともできず、今はフィオナの魂の中でいつ目覚めるとも知れない深い眠りについている。


(………………アル……ありがとう………。ごめんね、無理をさせて……………。次にあなたの主になる人は、良い人だといいな)


 フィオナは胸に手を置いて、アルタリエに語りかけた。

 応える声はなかったが、わずかに胸の奥が震えたような気がする。


 できるならもう一度、あの高台の聖域へ行きたかった。

 フィオナとアルタリエ、そして精霊たちだけの、静かな世界。

 そして…………。



 意識が混濁し、自分の足が地についているのかもわからない。

 傾いでいく身体をどうすることもできず、やがてすべてがどうでもよくなった。



 ずっと空っぽだった。どうしようもないほどに。


 空っぽを埋めてくれたのは、あのひと。

 あのひとがいきていてくれるのなら。



(……も、いい、の………)



 崩れ落ちるフィオナが固い地面に叩きつけられる直前、冷え切った身体が炎に包まれたような気がした。 

 暗転する前、残像のようにわずかに見えたのは篝火のような緋色。


 しかしすぐに、すべて闇色に溶けて何もわからなくなった。


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