4.温かく、甘く、ほろ苦い
長い間、聖域のベンチはフィオナだけの指定席だった。
それはこの先も変わることはないと思っていたが、今日は様子が違っていた。
カチリと姿勢が固まったフィオナの隣に、緋色の髪の大柄な男性が長い足を高々と組み、くつろいだ様子で座っている。
恐る恐る隣を伺うと、目線を向けられたことに気づいた騎士は、親しい相手へ向けるようにニコリと笑ってみせた。
一応気を遣っているのか、できる限り離れて腰掛けているようだが、そうは言っても小さなベンチなので、ふたりの間に距離はあまりない。
(どうしてこんなことに………)
またもや前触れなく現れ、挨拶もそこそこに隣に座りこんでしまった騎士をどうすることもできず、フィオナは表情の薄い顔には出ずとも内心とても狼狽えていた。
今日の彼は騎士服ではなく、装飾のないシンプルなグレーのコートに赤みの強い茶色のトラウザーズという姿だ。
騎士服のときには、強者が放つ抜き身の剣のような鋭い覇気が際立っていたが、私服の彼はガラリと印象が変わる。
目を引く赤い髪は職務中よりもラフでくつろいでいるように見え、ひと睨みで悪漢が退散しそうな力強い目にも愛嬌が滲む。
どこか芝居がかった表情でオリーブグリーンの目を訝しげに細めると、フィオナの頭の上へ向けて精悍な顔をぐいっと寄せた。
アルタリエを見ているのだと気づいたが、距離が近すぎて反射的に少しのけぞってしまう。
「君の鳥、あいかわらず親の仇かのように睨んでくるな。何か俺に恨みでもあるのか?」
「あの………今日も捕り物、というわけではないのですよね?」
「ああ、見ての通り今日は非番だ。この鳥、見た目はコロコロして愛嬌があるのに、面構えはまったく可愛げがないな。それに、この前より少し太って………おっと、気のせいだったようだ」
太った、という言葉のところでアルタリエが差し出された彼の手を突こうとしたらしい。
騎士は素早く手を引っ込めた。
「ごめんなさい騎士様。アル、だめよ? 威嚇しては」
「アル?」
「この子の名前です。わたしの………同居人、です」
フィオナは一瞬、自分とアルタリエの関係を示す言葉選びに困り、なんとか一番近い表現を思いついた。
ちらりと頭の上へ目線を向けてみたが、アルタリエは外出中にはいつもフィオナの頭の上を定位置にしており、どんな表情をしているかフィオナからはよくわからない。
視線を戻すと、騎士は、今度は興味深そうにフィオナの肩のあたりを注視していた。
「へえ。じゃあ、両肩に止まっている青い鳥と赤い鳥も同居人なのか?」
「まあ………」
フィオナは本当に驚いて、普段あまり感情を乗せることのない灰色の瞳をぱちりと瞬かせた。
確かに今、フィオナの両肩には色鮮やかな二羽の鳥が止まっている。しかしアルタリエがただの鳥ではないように、その鳥たちもまた、普通の鳥ではなかった。
御伽噺には、子供たちの空想の世界を彩る様々な存在が描かれる。
女神や悪魔、精霊、妖精、魔物。
神秘は幼い好奇心をくすぐり、素晴らしい冒険を期待させるが、多くの場合、それらは大人になれば忘れてしまう夢物語に過ぎない。
しかし物心のついた頃からアルタリエと共に過ごしているフィオナにとって、神秘は常に身近な存在だった。
『精霊』は、永い時間をかけて自然界の力が凝り、結晶化するように生まれるのだという。フィオナがよく見かけるのは鳥の姿をした精霊だ。
ただ鳥に似た姿とは言っても、透きとおっていたり、色が宝石のように鮮やかだったり、尾羽から常にぱちぱちと光が放たれていたりして、やはり色々なところが普通の鳥とは違う。
精霊かただの鳥か見分けるのは難しくないが、それは『見えていれば』の話だ。
それなのに。
(アルだけじゃなく精霊まで………この騎士様、本当に見えるんだわ。今までわたし以外に見える人に会ったことはないのに………。でも、見えるのに精霊だとわかっているわけではいないみたい?)
精霊たちが囁き交わしている言葉も、聞き取れてはいないようだ。
精霊を確かに視ることができているのに、なぜかそれらをただの鳥としか思っていない彼は、鋭いのか鈍いのかよくわからない。
不思議な人だ。
「この子たちは今日初めて会ったばかりです。怖いことがあって、少し遠くから逃げてきたみたい」
フィオナが自分の肩に手を添えてそちらに軽く頬を寄せると、精霊たちも嬉しそうにフィオナに身体をすり寄せる。
精霊たちは、人間たちのようにフィオナを忌避しなかった。フィオナを見つけると気が向けば空から降りてきて、何を見てきたのか、今この世界でどんなことが起こっているのか、美しい声で囁いてくれる。
そんなときは、冷えきった感情が少しだけ緩むような気がした。
騎士は愉快そうに口の端を持ち上げる。
「鳥の思考が読めるのか? ……ははっ、さすがにそれはないか。しかし君は、ずいぶん鳥たちに好かれているんだな」
「好かれる………?」
フィオナは言われた言葉が上手く呑み込めず、耳に入った言葉をそのまま繰り返した。
騎士を見返し、彼が強い好奇心に輝いた瞳でフィオナを真っ直ぐに見ていることに気づくと、その光の強さを避けるように下を向いた。
「………そうじゃありません。ただ、この子たちは優しいから、赦してくれるだけ………」
「赦す? 何をだ?」
「………」
フィオナは答える代わりに小さく息を吐き、首を振った。説明したところで、何の意味もない。
人々にとってフィオナは、実体を持った亡霊だ。
いても、いないのと同じ。
掌に乗せた淡雪のように儚く消えても、消えたことにすら気づかれない。
アルタリエと精霊たちだけが、フィオナという存在を咎めず、『ここにいる』ことを認めてくれる―――そこまで考えて、フィオナはふと顔を上げた。
(そういえば騎士様、わたしの隣に座って、目を合わせて話をしてる………。どうして? なんのために?)
騎士の様子を伺うと、笑みを消しフィオナを見ていた。明朗な彼らしくなく何かを躊躇するように数度視線を彷徨わせたが、少しだけ声を落として口を開いた。
「ところで、気になっていたんだが………失礼な発言かもしれないが許して欲しい。君は、寒くはないのか?」
フィオナは一瞬ぽかんとした表情をしたあと、自分の着ているドレスを見下ろした。
何年も前に与えられたくすんだ色の古着のドレスを、手直ししながら着続けているものだ。
すでに丈が短くなってしまっているが、それでもどうにか着られているのはフィオナの背があまり伸びていないからに過ぎない。
生地も薄手で、季節に合ってはいないことも十分わかっている。
それを気にしたことはなかったのに、なぜだか急に後ろめたいことのように感じてフィオナは両手で自分の二の腕を抱きしめるように掴んだ。
「………ごめんなさい、見苦しくて」
「………」
騎士はフィオナの言葉にはっと息を呑み、嫌悪するように強く眉を顰めた。
(ああ、不快な気持ちにさせてしまった)
フィオナはいたたまれない気持ちになり、今日はもうここを去ろうとベンチから立ち上がりかけた。
しかし騎士は身に着けているコートを手早く脱ぐと、素早くフィオナに羽織らせ、再びベンチに押し戻した。
騎士の体温が残った肌触りの良い大きなコートが、小柄なフィオナの全身を覆い隠すように包み込む。
「まだ、帰らないでくれ」
「……えっ………?」
「もう少し時間はあるか?」
「え? いえ、あの………」
驚きのあまり言葉の継げないフィオナに「少し待っていてくれ」と言い置いて、返事も待たずに立ち上がり走り去ってしまった。コートにくるまれたまま、わけもわからず大きな背中を見送る。
そもそも、彼はなぜ今日ここへ現れたのだろう。
最初は酔って迷い込んで。
次は騎士としての職務だった。
しかし今日、彼はここへ来た理由をまだ言っていない。
(もしかして、アルのことが気になるのかな? 睨みつける鳥なんて、確かにおかしいものね)
「ねえアル。どうして騎士様を睨むの?」
《………フン。気に入らないからに決まっている》
アルタリエは不機嫌な声で端的に答え、それ以上説明しなかった。
ただ、気に入らないと言いながらも騎士から離れろとは言わず、フィオナの肩に乗った二羽の精霊も特に彼を警戒する様子を見せない。
彼に害意がないことを汲み取っているのだ。
しかし今まで他人と関わったことのないフィオナは、騎士に対しどう振る舞うのが正しいのか判断がつかない。
ほどなくして騎士は戻ってきた。
手に持った湯気の立つ容器をフィオナに差し出す。
「これ………?」
「間抜けな酔っ払いからのささやかな礼だ。まだ熱いから気をつけろ」
介抱したことを肯定してはいないのに、確信があるのか、騎士はそのことについてそれ以上議論するつもりはないらしい。
容器を半ば強引に手の中へ押し込まれると冷えた掌に熱がじわりと伝わり、初めての経験に驚いて身体が跳ねる。
湯気に乗って魅惑的な甘い香りが立ち上り、鼻腔をくすぐった。
フィオナは手の中にあるものを呆然と見つめ続ける。
固まったままのフィオナを不審に思ったのか、騎士が顔を覗き込んだ。
「どうした? もしかして、ココアは苦手だったか?」
「わかりません。………飲んだことが、ないので………」
「………そうか。じゃあ、この機会に試してみてくれ」
騎士は一瞬だけ言葉を詰まらせたが、おだやかな笑みを浮かべ、先程より少しやわらかい声でフィオナを促した。
「飲むと身体が温まる。冷めないうちに飲むといい」
フィオナは頷いて、躊躇いながらもココアを口に含んだ。
香りと甘さが口の中に広がり、喉を通った熱がゆっくりと落ちていくのがわかる。
確かめるように目を閉じ、腹のあたり手をあてた。
「……あたたかい………」
フィオナは小さな声で呟いた。
熱が身体の内を巡り、冷えから固く強張っていた全身が解けていくようだ。
やわらかな余韻を味わったあと、フィオナは隣で覗き込んでいる騎士の顔を見上げた。
ココアを飲むのを忘れたままフィオナを見守る、オリーブグリーンの瞳と目が合う。
あの初雪の日、彼が微睡の中で見知らぬ誰かへ向けていた眼差しが、今この瞬間はフィオナに向けられているような錯覚を覚える。
胸の奥で、聞き慣れない小さな音が鳴った。
「………ありがとうございます、騎士様」
吐息とともに零れたフィオナの言葉に、騎士は一瞬目を見開いたあと、「……いや……俺は何も」と歯切れ悪く言い、自分のココアに視線を落とした。
帰り際に着て帰れとコートを押し付けられそうになったが、丁重に断った。
別れを告げ、広場から歩いて立ち去り、人目につかない場所で翼を広げる。
《餌付けで、まんまと絆されたか》
「アルは意地悪しか言えない意地悪鳥ね」
騎士のいる場では口を開かなかったアルタリエが、鬱憤を晴らすように憎まれ口を叩く。
誠実な人なのだろう。受けた恩を返すためにわざわざ聖域を訪れたのだ。
だからこれで、彼が聖域を訪れる理由はなくなった。
おそらくもう、会うことは叶わない。
熱いココアと温かなコート。
そして、労りに満ちた優しい眼差し。
すべて、生涯フィオナの手に届くはずのなかったものだ。
胸の奥に灯った小さな炎を冷たい風から守るように、自分の身体を抱きしめる。
彼にとってそれが、ささやかな義理や一瞬の憐れみからのものであったのだとしても、フィオナにとっては紛れもなく、生まれて初めて他者から与えられた『温もり』だったのだ。