18.鳥は羽ばたき、花は綻ぶ
ジュリオードは素晴らしい提案をしたかのように得意げに胸を張ったが、あいにくフィオナにはひとつも理解できなかった。
「祝賀会でお会いした女性と、結婚なさるのではないのですか?」
「もちろん、僕はナタリエと結婚するさ。今日はそのために指輪を見に来たのに……クソ、あの店主、僕の注文を拒否するなんて……。いや、話が逸れたな。けど、それとこれは別だろう? 貴族の男は妻とは別に、何人もの魅力のある女性と交流を深めるものだ。なに、少しくらいなら小遣いも渡せる。悪くない話だろう?」
祝勝会のときは、ジュリオードが一方的に話す言葉を、ただ聞き流していた。
どれほど酷い言葉を聞いても、フィオナの麻痺した心は動かなかったから。
しかし今、彼の垂れ流すすべての言葉は、フィオナに対する侮辱なのだとはっきりわかる。目の前の男は、フィオナを自分と対等の人間と見做したことなど、一度もないのだ。
下卑た視線がフィオナの身体を蛇のように這い回るのを感じ、強い吐き気を覚える。
思わずジュリオードから目を逸らすと、先程まで見ていたショーケースのルースストーンが目に入った。
その誠実な色味が逆立った心を慰め、フィオナは落ち着きを取り戻す。
亡霊と呼ばれていた過去、真摯な表情で「侮辱を簡単に受け入れるな」とフィオナを叱りつけた男性。彼ならば、フィオナの尊厳を傷つける者を許さないだろう。たとえそれが、フィオナ自身であっても。
大きく息を吸い込んでから、纏わりつく穢れを押し流すように息を吐き出す。
(いつもあなたの言葉が、眼差しが、わたしの支えになる)
宝石を見つめるフィオナの表情に、ふわりとやわらかな微笑みが浮かんだ。
視線を戻すと、なぜかジュリオードは大きく目を見開き、顔を赤く染めていた。
だらしない顔を晒す男に、フィオナは眉を顰め冷ややかな視線を投げかける。
「………不快です」
「う、ん?」
上の空で聞いた言葉が頭に入らなかったようで、ジュリオードは呆けた顔のまま生返事を返した。
「気持ち悪い、と申し上げました」
しかし殊更にはっきりと言ったフィオナの言葉をやっと呑み込み、顔色を変える。
「なっ、なんだって?」
「感謝いたします、ジュリオード様。あの婚約破棄は、生きる気力を持たなかったわたしに訪れた、大きな転機そのものでした。あなたが手を放してくださったからこそ、わたしは………拙いながらも、自分の意思で一歩を踏み出す機会を得たのです」
フィオナは笑みを浮かべたままカーテシーをする。
何かのために生きたことはなかったフィオナは、長い孤独の末に、たったひとつを見つけ出した。
かつての彼の言葉こそ、まるで予言のようだ。
―――時が来れば、君自身が大切にしたい、失いたくないと感じる相手がきっと現れる。そしてその相手は、君を心から愛するだろう―――
彼の隣に立ちたい。
生きることを諦めた亡霊などではなく。
眩しく誇り高い彼に、恥じない自分でありたい。
「お別れを申し上げます、ジュリオード様。もう二度と、お目にかからずに済むことを願っております」
「…んなっ……よくも……っ!」
屈辱に顔色を変え、逆上したジュリオードはフィオナに掴みかかろうと手を伸ばした。
その瞬間、見えない何かに弾かれジュリオードの手が跳ね上がる。
「痛っ……⁈ なんだ⁈」
何が起こったかわからず目を丸くしたジュリオードは、痺れた自分の手とフィオナを見比べた。
フィオナは何も言わず、動かず、同じ場所にただ立っているだけだ。
しかし毅然と顔を上げ、灰色の瞳にこれまでにない冷たい色を滲ませる。
元婚約者とはいえフィオナの持つ力など知り得ないジュリオードだったが、それでもフィオナに拒まれたのだということだけは明確に理解した。
「このッ……!」
再び乱暴に伸ばされたジュリオードの手は、しかし今度こそ空を切った。
突然身体が浮き上がったように感じたフィオナは目を丸くしたが、気づいたときには馴染んだ腕の中に収まり、押し除けられ床に転がったジュリオードを高い位置から見下ろしていた。
ジュリオードの青い目が驚愕に見開かれる。
「リ、リオネル・ランバート………⁈」
ジュリオードは、突然現れた『救国の英雄』に理解が追いつかず、ぽかんと口を開けた。直接の面識がなくとも、リオネルの容貌は知っていたようだ。
リオネルはフィオナをしっかりと腕に抱き、怒気を含んだ眼差しをジュリオードに向ける。
「その顔……ジュリオード・ネイデル、か? 今更何の権利があって、私の大切な女性に触れようとした?」
ジュリオードはリオネルの重い威圧に身を震わせ、上擦った声を上げた。
「た、た………たいせ、つ、な………??」
「そうだ。私の命よりも大切な女性だ。………まさかとは思うが、彼女に不埒な真似を働こうとしたわけではないだろうな?」
「いえっ、まさかそんなっ」
ジュリオードは真っ青になり否定したが、どこからか、事態を煽るような第三の声が混じり込む。
《愛人にしてやってもいい、などとほざいておったぞ? 小遣いがどうこう、とかな》
「……………………は?」
「エッッ⁈」
リオネルの顔色が変わった。
フィオナにも予想外の告げ口だったが、形相が変わったリオネルを見て、アルタリエの声など聞こえなかったはずのジュリオードが恐怖で小さく飛び上がる。
「貴様……………死にたいようだな?」
帯剣していないにもかかわらず、剣を抜き放ったような殺気が場に漲った。
「や、そっ………ひっ、ひいいぃッッ」
怒りを迸らせたリオネルにジュリオードは命の危機を感じたらしい。
甲高い悲鳴を上げ、足腰立たないまま全力の匍匐前進で出口に向かって突進し、派手にドアベルをかき鳴らして敗走していった。
意外な逃げ足の速さに呆れ顔だったが、リオネルはそれ以上ジュリオードを追うことはしなかった。
「まあ、ここで本当に切り捨てるわけにもいかないからな。だが、このまま逃げ切れると思うなよ」
出口を見ながら暗い笑みを浮かべたリオネルだったが、振り返りフィオナに向けた表情は主人に叱られた大型犬のように頼りないものだった。
「君には謝らなければならないことばかりだ。あんなクズと鉢合わさせるとは……君を送り出す前に、店の中を確認するべきだった。俺の失態だ」
「いいえ。ただの偶然で、ただの事故です。リオネル様は、わたしを甘やかしすぎですよ」
「しかし」
「それに……良い機会だったのです。わたしの方からも、きちんとお別れを言うことができましたから。ジュリオード様はお気に召さないようでしたけど」
これまでになく晴れやかな声でフィオナが話すのを見て、リオネルは不思議そうな顔をした。
「フィオ……な?」
「まあ!」
リオネルがなにか言いかけたとき、リオネルの高い鼻の頭に、淡い金色に光る蝶がひらりと止まった。
百戦錬磨の英雄もたちまち身動きが取れなくなり、弱りきった目線でフィオナに助けを求める。
「まあ………ふふっ」
その表情が愛しくて、フィオナが思わず小さな笑い声を上げると、リオネルは驚愕に大きく目を見開いた。
リオネルの身動ぎに驚いたのか金の蝶はふわりと舞い上がり、誘うようにふたりの前でひらひらと踊る。そして鱗粉のような光を振り撒きながら離れていき、すぐ近くにあるショーケースに舞い降りた。
(あそこは、さっきわたしが見ていた………)
リオネルはフィオナの顔をじっと見つめたままだったが、フィオナが蝶の行方を気にかけていることに気づくと、そちらへ足を向けた。金の蝶の前に立ち、共にショーケースを覗き込む。
陳列棚には、オリーブグリーンのルースストーンが輝いている。
よく見知った色を見つけてリオネルは戸惑い、なにかを問うようにフィオナを見つめた。
宝石と同じ、温かな色彩の瞳で。
その瞬間、フィオナは答えを得たような気がした。
告げるべき言葉は、ずっと前から心の真ん中にあったのだと。
「わたしを、ヴィシュタへ連れて行ってくださいませんか。あなたの、妻として」
想いと、覚悟のすべてが伝わるように、真っ直ぐにリオネルの目を見つめる。
リオネルはフィオナを見つめたまま、瞬きすら忘れたように動かない。
これまで彼が与えてくれた温もりのすべてを心に満たして、フィオナは微笑む。
「愛しています、リオネル様」
リオネルは咲き零れる満開の花を抱くように、優しく、そして強く、フィオナを抱きしめた。
お読みいただきありがとうございます。
次話で最終回となります。
どうか最後までお付き合いください。




