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猛き英雄騎士の敬愛は、頭に鳥を乗せた亡霊聖女に捧げられる  作者: 守野ヨル


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16.ある王子の悲恋

「貴女のような勇気が三十年前の私にあれば、どれほど良かったでしょうか」


 ソファの背もたれに身体を預けて目元を覆い、司教は独り言のような囁きを漏らした。わずかに肩を震わせている様子は、泣いているようにも、笑っているようにも見える。


「自分にとって真実大切なものだけを迷いなく選び取ることができていたら、私は今ここにいなかったのかもしれない」


 顔を上げた司教の目に涙はなかったが、表情には苦悩が色濃く宿っていた。冷めた紅茶で口を湿らせ、物憂げに長く息を吐き出す。


「お二方。お耳汚しでしょうが………私の身の上話を少し聞いていただけますか」


 フィオナとリオネルは一瞬顔を見合わせ、司教に向かい同じ仕草で頷いた。




「私は、早くに王位継承権を放棄しました。側室腹で後ろ盾が弱く、早々に王位争いから逃げたのだというのが大方の世論だったと思います。………確かに私は、王たる資質を備えていなかった。王位への執着も、国を率いる覚悟もない。しかし臣籍に下ったあと教会に身を置いた理由は、別にあります」


 司教は立ち上がり、窓辺へ歩いて行った。

 中庭に面した窓からは、豊かに繁った緑の樹々と白や青を基調とした清楚な趣の花、そして棟を繋ぐ長い外回廊が見える。


「かつて私には、想いを寄せる女性がいました。恋人と呼ぶには……あまりにも淡い関係だった。社交の場で顔を合わせても、密かに視線を交わし、微笑みあうだけ。私を見た彼女の頬が愛らしく染まるのを見るだけで、若い私は有頂天だった。彼女は……男爵家の私生児で、継承権を持つ王子の妃として望むには、後ろ盾が弱すぎたのです」


 迂闊に想いを告げて、王子の想い人として権力闘争の中へ引きずり込むわけにはいかない。

 だから継承権を放棄し臣籍に下って初めて想いを告げることができると、司教ーーーかつての第一王子ベルナールは考えていたのだ。


「軋轢を生まない機会を慎重に選んで父王に申し上げようなどと……悠長に構えていました。しかし、彼女の男爵家における立場は弱く、ひどい扱いを受けていたことを、私は知らなかった。暴力を受けてできた傷から重い感染症に罹り、床に伏してわずか数日で、彼女は呆気なくこの世を去りました。………無能な私は、国はおろか、想う女性ひとりを守ることさえできなかった。だから、私は教会へ入ったのです。能力のない私自身を政事(まつりごと)から遠ざけ、一生をかけて、彼女の魂に償うために」


 痛みを宥めるように、司教は胸元に手を置いた。

 美しい庭を見ているはずの目には、おそらく昔日の面影が映っているのだろう。


「外聞や派閥の柵など考えず、彼女に真っ直ぐ手を伸ばしていたら、彼女は今も生きていたかもしれない。この三十年、後悔が薄れることはありませんでした」


 振り返った司教は、疲れ果てた老人のように見えた。

 祭服の胸元で、手が固く握りしめられている。


「聖女フィオナ。口止め料を、いただきたい」

「口止め料? ………脅迫ですか」


 ベルナール司教の口から、あまりにも聖職者らしくない不穏な言葉が発せられた。

 リオネルが眉を上げ、獰猛な気配を漂わせる。


「………そうです。これは、脅迫です。聖女が再びこの世に降臨していると周知されれば、力のあるなしに関わらずフィオナ嬢は大きな欲望の渦に晒されることになる。だから私は、聖女の存在を生涯、決して誰にも口外しないと約束します。その代わり………」


 ベルナール司教はおもむろに祭服の襟に手を差し入れ、銀色の鎖を引き出す。

 テーブルにカチリと音を立てて置かれたのは、首からかけられるよう長めの銀鎖に通された、女性ものの指輪だった。

 嵌め込まれた控えめな大きさの月長石が、静かに陽光を跳ね返している。


「彼女の遺品です。当時、手を尽くして入手しました。彼女の持ち物はとても少なくて………これは、彼女が実の母親から譲り受けた唯一の装飾品だったそうです。彼女は社交の場で、必ずこれを身につけていた」


 言いながら愛おしむように指輪を撫でる。

 記憶の中では今もなお鮮明に、指輪の女性が微笑んでいるのだろう。


「聖女フィオナ、伏して願います! 指輪に、女神の祝福を。彼女の魂に安息をお与えください!」

「……司教様………」


 床に手をつき顔を伏せて懇願する司教は、フィオナよりずっと背が高いはずなのにとても小さく見えた。

 フィオナは司教に歩み寄り、側に膝をつく。


「期待を裏切るようですが、わたしに亡くなった方を救う力なんて……」

「構いません。所詮は、罪悪感から逃れるための自己満足だとわかっています。しかしそれでも……。私は、聖女の顕現を知ったあの日から、この瞬間だけを望んで来ました。形だけでいい。ただ一言でいい! 救いなく亡くなった彼女に救済を………っ!」


 血を吐くような悲痛な懇願にフィオナが眉を下げると、それまで奇妙なほど沈黙を保っていた頭上の鳥が、ぽつりと呟いた。


《手を貸してやるといい》


 アルタリエの声はいつもと変わらないようで、どこかやわらかくも感じる。


《お前にも、見えているのだろう》


 促された言葉で、フィオナは顔を上げて部屋を見渡した。

 

 この部屋には、たくさんの精霊がいる。

 執務机に。本棚の上に。ソファの背もたれに。


 そして、俯き震える司教の肩にも。

 深い悲しみに寄り添うように、向日葵色の鳥の姿をした精霊が止まっている。


 脅迫などと偽悪的な言葉を使っても、彼が本気でないことはわかっていた。

 精霊は、悪意を持つ者の側には近づきたがらない。フィオナが彼の願いを無視してこの場を去っても、怒りに任せてフィオナの身を危うくするような真似はしないはずだ。


 その女性の死後、ベルナール司教は教会へ身を置き、献身的に多くの人々を救ってきたのだろう。


 しかし彼が本当に救いたかった『たったひとり』は、どれほど足掻こうともう還っては来ない。

 


(どれほどの苦しみだろう)



 膝立ちのまま、フィオナはテーブルに置かれた指輪を手に取り、窓から射す陽に翳す。

 気づいた司教が、はっと顔を上げた。


(ここに、持ち主の魂が残っているわけじゃない)


 三十年前に亡くなった女性の魂が死後どこへ向かったのかなど、フィオナにはわからない。そして彼女が本当に『ベルナール王子』と共に生きる未来を望んでいたのかさえ、確かめる術はないのだ。


 しかし、指輪には確かに淀んだ気配が感じられる。


 持ち主だった女性の無念か、あるいは三十年の間これを身に着け続けていたベルナール司教の執念か。

 

 フィオナは片手に銀鎖ごと指輪を乗せ、もう片方の手を指輪に翳した。


(わたしは他人だから、あなたの苦しみを分かち合うことはできない。でも、あなたとベルナール司教を苦しめたものは、もうここにはないわ。だから、どこへ行こうとあなたの自由よ)


「翼が、あなたを導きますように」


 意識せず口から漏れたのは、聖典に記されているありふれた祈りの言葉。


 フィオナの手の中から、やわらかな白い光がふわりと立ち昇った。

 驚愕に目を見開く司教の目の前で、小さな『奇跡』は確かに現れ、踊り、静かに収束する。


 それは、ほんの瞬きする間の出来事。


 指輪からは翳りが消え、可憐な月長石は曇りなく清澄な光を湛えていた。


「あ…あぁ………エミリエ………」


 ベルナール司教はフィオナが差し出した指輪を手受け取り、頽れる。


 指輪を胸に抱きしめ、蹲り身体を震わせ、長い長い時間、声もなく泣き続けた。




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