15. 罪に埋もれた伝承
少し暴力等過激な表現を含んでいます。
苦手な方はご注意ください。
よろしくお願いします。
「お呼びだてして申し訳ありません。ご足労いただきありがとうございます」
ベルナール司教が柔和に微笑む。
洗練された振る舞いには隠しようのない生まれの良さが滲むが、形式ばった堅苦しさはなく、自然で心地良い。親しい友人を招いた喜びに浸るようなおだやかな笑みを見れば、身分を問わず彼に心を開く者が多いという話も頷ける。
「いえ。大切な話があると伺ったので。それで、ご用件は何でしょう」
対してリオネルは姿勢を正し、どこかピリッとした空気を纏っていた。
精鋭の騎士らしい緊張感と言えなくもないが、やや違和感を覚える。
(リオネル様、もしかして司教様を警戒してる………?)
「ええ。……まずは、あらためて感謝を。リオネル卿、貴方がいなければ、私は今こうして生きてはいなかったでしょう。本当にありがとうございました」
「それは違います。今思えば、私の行動はかなり無謀だったと言わざるを得ません。助かったのは私の力などではなく……ただ、幸運に恵まれたのでしょう」
「………ええ、まさに。大翼の女神のお導きに違いありません」
司教は胸に手を当て少々芝居がかったような礼を見せたあと、フィオナに目を移す。
「フィオナ嬢は、リオネル卿の戦場でのご活躍をお聞きになられましたか」
「人伝に、少しだけ。あまり多くは存じません」
侯爵邸の使用人がこぞって主家の令息の活躍を褒めそやすのは自然と耳に入ったが、リオネルが自ら戦時中の話をすることはなかった。
唯一聞いたのは、『奇跡』に関わることだけだ。
「そうでしたか。確かに戦場の話は、深窓のご令嬢には刺激が強いかもしれませんね。しかしリオネル卿は表立った戦闘だけでなく、第一騎士団の副団長として後方にも細かに目を配り、現場の兵たちは皆、それは厚い信頼を寄せていたのですよ」
「そうなのですね………」
それはリオネルらしい振る舞いの様に思える。
彼は豪胆なだけでなく、細やかな心を持つ人だから。
「彼のような得難い人物の元に女神の奇跡が訪れたことは、あの場にいた誰もが驚き、しかし納得せずにはいられませんでした」
ベルナール司教は、ほうっと溜息をつき目を閉じた。最も近くで奇跡を目の当たりにした深い感動に浸るように。
フィオナは複雑な気持ちで手元に目線を落す。
あの『奇跡』は、女神の意思などではない。
とても個人的で、切実な願いの末になされたことだ。
予知夢の中でフィオナは、リオネルと共に砦から落下するベルナール司教の姿も見ている。それでもフィオナが救おうとしたのはあくまでもリオネルであり、司教が助かったのはリオネルが取った行動による結果という側面が大きい。
自身の身勝手さに、フィオナは少しだけ罪悪感を覚える。
「ところで………フィオナ嬢」
司教の咳ばらいが聞こえ、フィオナは顔を上げた。
「貴女は、非常に珍しい髪色をしておられますね。他に類のない、美しい色です。それについて何かご存知ですか?」
「髪の色……ですか?」
突然、思いがけない話になり、目を瞬く。
美しいなどという聞きなれない言葉にひどく困惑し隣を窺うと、リオネルは厳しい表情で司教を見据えていた。
「ええ。その由来について、何かお聞きになっていることはありませんか?」
「両親の色を受け継いでいない、ということを仰っているのでしょうか。わたしが……私生児かもしれないという噂を」
「いえいえ! そういった意味ではないのです。誤解を与えてしまったのならお詫びします」
司教はあわてて手を振りながらフィオナの言葉を遮り、表情から笑みを消した。
こくりと息を呑む音がし、眼鏡の奥の瞳から強い眼差しが向けられる。
「リオネル卿が私の恩人であることは間違いありません。しかし彼だけではなく、フィオナ嬢、貴女も………いえ、貴女こそが、私の命の恩人なのではありませんか?」
「……それは、どういう………」
フィオナが言葉を繋ぐ間もなく司祭は素早くソファから降り、その場に膝をついた。
手を祈りの形に組み、尊いものを前にした真摯さで首を垂れる。
「ああ………聖女よ。尊き祝福の再来よ。女神の慈悲に、深く感謝いたします」
リオネルとフィオナは驚き、同時に勢いよく立ち上がった。
「司教殿、おやめください! そのようなことをなさってはいけません! それに『聖女』とは、いったい………」
司教は頭を下げたままなかなか姿勢を戻そうとしなかった。
ふたりに強く促され、ようやくソファへ戻る。
リオネルとフィオナもあらためて座りなおしたが、もはや隠す気もなく、この事態に対するはっきりとした警戒の気配がリオネルから漏れていた。
「ベルナール司教殿。これが、貴殿のおっしゃる『大切な話』なのですか」
「………さて、何から話したものか………」
ベルナール司教が目を閉じ、眉をしかめる。切りだす言葉を慎重に選んでいるようだった。
ふたつ、みっつ呼吸し、ゆっくりと目を開くと、再びフィオナに視線を向ける。
「フィオナ嬢は、私が元王族であることはご存知ですか」
フィオナはリオネルに聞いた話を思い返しながらこくりと頷いた。
「今からお伝えすることは……教会の内部ですら知る者がいない、遠い昔に失われた伝承です。私がこれを知っているのは、王族のみ出入りが許される禁書庫にある一冊の本と、奇跡的に出会ったからです。禁書庫には膨大な量の本がありますから、あえてあの本を手に取ったものは、ここ数代でも私くらいのものかもしれません。ですから今からお話しすることは、現王や教皇ですら知らないのだということを、覚えておいてください」
ベルナール司教が歌うように語り始めたのは、すでにこの世界から失われた物語だった。
ーーーそれは、遠い遠い昔の話。
大翼の女神の気配が色濃く残されていた時代、世界には魔力が満ちていた。
人間たちは魔力を思いのままに操り、文明は目覚ましい発展を遂げていった。
女神が世界を祝福する証として、女神の代理人たる聖女がいた。
陽光を反射し虹色に輝く白い髪と、少しだけ青や菫色を滲ませた灰色の瞳が、聖なる力を持つ乙女の目印だ。
しかし、世界の覇権を求めて度重なる戦乱が起き、ひとつだった国が多数の小国に分かれたとき、女神の威光を独占するため、聖女を我が物にしようと考えるものが現れた。
何人もの聖女が世俗の醜い争いに巻き込まれて、不幸のうちに落命した。
聖女の稀なる力や麗しい美貌は、欲に塗れた者たちの恰好の餌食だった。
ある聖女が王宮の奥深く、逃げられないよう足の腱を切って囚われ、子を成すための道具として酷い扱いを受けたあげく絶望のうちに自ら命を絶ったとき、ついに女神の逆鱗に触れた。
聖女は生まれなくなり、大気に満ちていた魔力は薄れていき、ついに世界から魔法が失われた。
文明は瞬く間に衰退し、いつしか聖女の存在も、歴史から故意に消し去られたように忘れられていった。
遠い未来に、聖女が再びこの世に現れることがあるとしたら、それは女神の赦しを得る最後の機会であるかもしれないーーー
「戦場で死を覚悟したとき、リオネル卿の背に奇跡の翼を見ました。周囲の兵たちは、正体のわからない光と私たちが命を失わなかったという事実だけを見て女神の奇跡と呼んだようですが、私はそれが真実、大翼の女神による恩寵、聖女の力の現れだと気づいたのです」
ベルナール司教は一瞬リオネルへ目を向けた。
「ランバート卿は男性です。おそらく聖女の条件に当てはまらない。だから、リオネル卿の近くに聖女がいるのだと思いました。リオネル卿を失いたくないと願う女性親族、あるいは婚約者や……恋人。そして最近ランバート侯爵邸に滞在している客人が風変わりな白い髪の持ち主らしいと聞いて、確信しました」
探るような強い視線を受けて、フィオナは気圧され息を呑む。
「聖女フィオナ、貴女は大きな力を宿しているはずです。それこそ、世界の地図を描き変えることができるほどの。貴女が教会の頂点に立てば、より多くの人々を幸福に導くことができます。もし……」
司教がすべてを言い終わる前に、リオネルが動いた。
半身前に出て、司教とフィオナの間を遮るように腕を伸ばす。
「それ以上はご容赦を。彼女はこれまで血の繋がった者たちにさえ守られず、悪意に晒されて来ました。この上、彼女を道具のように利用しようとする者がいるのなら、私も考えなければなりません」
リオネルの赤い髪が逆立って見える。
戦場を圧するほどの覇気が放たれ、その威に身体が痺れるようだ。
怒りを正面から受けたベルナール司教の顔から、一瞬で血の気が失われる。
「リオネル様………」
フィオナを守ろうとしていることが、痛いほど伝わってくる。
彼の腕にそっと手を置くと、威圧が少しだけ緩んだ。
オリーブグリーンの瞳が気遣わしげにフィオナを覗き込んだが、フィオナは大丈夫だと伝えるためにひとつ頷き、司教に向き直る。
「司教様。わたしはただの人間です。確かに少しだけおかしな力を持っていましたが、司教様もご覧になったあの『奇跡』で、すべて使い果たしてしまいました」
フィオナの声は大きくはなかったが、静かな部屋ではっきりと響いた。
「そして………戦勝祝賀会の日に、わたしは王宮で死にかけました。長年の栄養失調と、あの場で受けた暴力によって。けれど、勝利を祝うあの華やかな会場で、消えかけたわたしの命を惜しむ人は誰もいませんでした。………リオネル様だけです。掬い上げてくださったのは」
話しているうちに、思わずリオネルを掴む手に力が入ると、彼の反対の手がフィオナの手を上から優しく包んだ。
その温かさに力を得て顔を上げ、言葉を紡ぐ。
「それでもわたしは、あの方たちの幸福を望まなければいけませんか」
女神の祝福が広く万民に届くことを願う。
その考えは善良で、公平で、正しい。
しかしその『正しさ』は、フィオナの手に余るものだ。
「彼らの不幸を望んだことはありません。でもわたしが幸せにしたいと願うのは、彼らではないのです。そう考える身勝手さが女神様の意思に背く行いであるなら、やはりわたしは聖女などではないのだと思います」
言い尽くして言葉を切ると、しばらくの間、誰も口を開かなかった。
ややあって、ふ、と息を漏らす音が聞こえ、ベルナール司教が苦しげな笑い顔を見せた。




