13. 舞い降りる奇跡
朝から小雨が降っていた。
細かな雨粒が、さあさあと庭園の樹々をたたく音がする。
ふるりと身を震わせたフィオナを見て、白い髪に櫛を通していたメイドが手を止めた。
「フィオナ様、どうされました? あら、ほんの少しお熱がありそうですね」
「え……? そうでしょうか?」
手を上げ自分の頬に触れると、ドレッサーの鏡の中の自分も同じ動きをする。
鏡に映った自分は少しだけ赤い顔をしていた。
具合の悪さはあまり感じないが、確かに微熱があるようだ。
頻度は随分減ってきたが、時折思い出したように熱が出てしまう。
もう長くはここにいられないのに、困ったことだ。
「今日はお髪は結わないでおきましょうか。朝食はあとで消化の良いものをご用意しますから、それまで少し横になってお休みください」
「……はい。いつもありがとうございます」
使用人に対していつまでも敬語が抜けないフィオナに苦笑しながら、気のいい年配のメイドは部屋を出て行った。
******
少し横になって休むだけのつもりが、いつの間にか眠ってしまっていた。
身体を起こしてみると、朝に感じた気怠さはなくなっていたが、ふわふわとした不思議な感覚が残っている。
(なにか、夢を見ていた気がするのだけど)
どんな夢だったのか思い出せない。
それでも、悪い夢ではなかった気がする。
どれくらい眠っていたのだろうかと窓の外に目をやると、雨はすでに上がり、薄灰色の雲間から陽が射していた。
濡れた緑が、ゆるやかな風に吹かれて雫を落とす。
そのとき、チカリ、と窓硝子に反射するように何かが光った。
(えっ?)
目の端で、白い輝きが梢を横切ったように見えた。
(いまの、は………)
あわてて寝台から抜け出し、はやる気持ちのまま素足で絨毯を踏む。掃き出し窓に駆け寄って押し開き、目にした光を追って木陰を覗き込もうと、ベランダから身を乗り出した。
「フィオナ!!」
腹に腕を回され、ぐっと引き戻される。掴んだ手摺りから手が離れて勢いよく後ろへ倒れ込んだが、どこにも痛みはなかった。
代わりに全身を包む熱を感じ、背後を振りあおぐ。
「リ………」
「なにをしてる! 三階だぞ! 落ちたらどうするつもりだ!」
眠っているところを起こさないよう静かに部屋を訪ねてきたリオネルが、厳しい表情でフィオナを抱き止めていた。
初めて彼から向けられた咎める言葉と鋭い眼差しに、思わず身体がすくむ。
「…ァ…ルが………」
「アル? ………いたのか?」
思いがけない言葉だったのか、リオネルが驚いた表情で太い眉を上げた。
フィオナは少し考えてから、ゆっくりと首を振る。
(違うわ。あれはアルじゃない。だってアルは、まだ………)
鼓動を確かめるように、胸元に手を置く。
落ち着いて考えればわかることだった。アルタリエは今も、フィオナの中で眠り続けているのだから。
(ねえ、アル。いつ戻って来るの? 口が悪くて、意地悪で、厳しくて、でも本当は優しい。わたしの大切な………友達)
考え込むフィオナを見ると、リオネルは力が抜けたように大きく溜め息を吐いた。
背後から回した腕にぎゅっと力を入れ、フィオナの肩に顔を伏せる。
炎を体現する髪が、細い首をくすぐった。
「……リオネル、様?」
「すまない、怒鳴ったりして……。もう少しだけ、このまま。………三度目はさすがに勘弁してくれ………」
(三度目?)
言葉の意味がわからなかったが、黙って身体を預けていると、触れた背中から早鐘のような鼓動が伝わってくる。
そんなつもりはなくても、彼にはフィオナがベランダから飛び降りようとしたように見えてしまったのかもしれない。
「ごめんなさい………」
小さく呟いたとき、木立の陰から見知らぬ白い鳥が羽音を立てて飛び立った。
顔を上げ、悠々と羽ばたく鳥を見送る。
遠く、さらに遠く、姿が空に溶けて見えなくなるまで。
風が樹々を渡る音と、お互いの息遣いだけが聞こえていた。
身体に回された腕は解かれないままだ。
ランバート邸でのおだやかな日々で、リオネルの体温を感じることにいつの間にか慣れてしまっている自分に気づき、途端に怖くなる。
(この温もりは、わたしが受け取るべきものじゃない。大丈夫、わかってるわ)
しばらくして落ち着きを取り戻したのか、リオネルはようやく顔を上げた。
低い声が、耳元でぽつりと呟く。
「あの同居人は今、君の側にいないんだな」
「………はい」
「………奪ったのは、俺だな?」
フィオナは、はっとしてリオネルを振り返る。
深い色の瞳が、吐息がかかるほど近くで真っ直ぐにフィオナを見つめていた。
「戦場で、『恩寵は一度きりだ。主の命懸けの献身を無駄にするな』という声を聞いた。主とは、君のことなんだろう?」
突然の核心に、フィオナはひゅっと息を呑む。
リオネルはフィオナに見えるように自分の右手の甲を示した。
「ここに、鳥の羽を象ったような痣があった」
今見ても、彼の手の甲に痣と呼べるようなものはない。
しかしそこにかつて痣があったことは、フィオナも知っていた。
なぜなら、それを残したのはフィオナ自身であったから。
「戦場で……司教殿が砦の上から投げ出されたとき、俺は咄嗟に彼の腕を掴み、諸共に落ちた。普通なら、ふたりとも死んでもおかしくない状況だったんだ。だがそのとき、辺りが真っ白に輝いて………光が消え去ったとき、司教殿と俺は無傷で地に足をつけていた。皆が言うには『女神の奇跡』なんだそうだ」
リオネルは悪戯っぽく笑って肩をすくめた。
(………胸、が)
口から、乱れた呼吸が溢れた。
内側から硬い殻を破ろうとするように、心臓が激しく打ち鳴らされている。
「あの光の中で起こったすべてを見ていたのは、俺と司教殿だけだ。………宙に投げ出された瞬間、俺の背に真っ白な翼が現れた。そして頭の中で声が聞こえた。知らない声だったが、なぜか……君がアルと呼んでいたあの不機嫌そうな鳥の姿が思い浮かんだ。ゆっくり地上に降り、地に足がつくと、翼は跡形もなく消え去った。……右手の、痣と共に」
(息が、できない)
全身から血の気が引き、フィオナの身体がカタカタと震えだす。
いや。
いやだ。
あなただけは。
(亡霊って、化け物って……呼ばないで………)
しかしリオネルは腕を回し、怯えるフィオナを宥めるように、優しく抱きしめた。
「戦争に向かう前、俺の身に危険が起こることを、きっと君は知っていた。そして今も、君の側にあの鳥は戻っていない。君自身を守るはずだった力を俺に分け与えたせいで………君はあんな風に、命をすり減らしたのだろう」
掬い上げたフィオナの手に顔を寄せ、緊張から冷たくなった指先にそっと口付ける。
「ああ………ダメだな。もう、無理だ」
リオネルは自嘲的な笑みを浮かべて盛大な溜め息をついたあと、フィオナに視線を戻した。
逃れることを許さない、強い眼差しが向けられる。
「君が好きだ」
揺るがない真実を込めた言葉が、フィオナを真っ直ぐに貫いた。
灰色の目が、これ以上なく大きく見開かれる。
「三年前のあのときからずっと、そして『奇跡』で命を救われてからは一層に。血生臭い戦場で、呼びかける名すらわからない君の姿を思い描いて、必ず生き残らなければと毎日死に物狂いだった」
フィオナの白い髪を大きな手が愛おしげに撫でた。
手入れされて艶のある髪が、リオネルの指の間をさらさらと滑る。
「結婚を望んだのは、一番には君に自由を与え、幸せにしたかったからだ。何者にも縛られず、虐げられず、満ち足りた生き方をして欲しいと思っていた。でも白状すれば、友人としてでもずっと側にいれば、いつかは俺を受け入れてくれるかもしれないという下心もあった。そういう小賢しい男なんだ、俺は」
悪戯がバレた子供のように、肩をすくめてククッと喉を鳴らす。
「リオネル様…」
「俺の気持ちを信じなくてもいい。だが、側にいさせてくれないか。そうして毎日を積み重ねていつか俺が死んだあとに、嘘じゃなかったと知ってくれればそれでいい。………もう二度と、見失うのはのはごめんだ。君は、俺の命そのものだから」
放心してただ話を聞くことしかできなかったフィオナの目から、涙が滑り落ちる。
ひとつ。またひとつ。
内にあった冷たい何かが透明な雫に姿を変えて、ゆっくりと溶け出していく。
「泣かせたかったわけじゃないんだ……。ああ、君の涙に弱いな、俺は……」
心底困った顔をして、フィオナの涙を無骨な指で拭う。
まるで、あの初雪の日のようだ。
愛情に満ちたオリーブグリーンの眼差しが、フィオナだけに注がれている。
求めても、いいのだろうか。
手を伸ばしても、許されるだろうか。
制御の効かない渇望がフィオナを強く揺さぶる。
「三年前……あなたに会うまで、わたしは確かに亡霊でした。誰の目にも映らず、言葉をかけられることもなく、ただ影のようにそこに在るだけで。でも、あなただけはわたしを見てくれた。わたしの声を聞いてくれた。ただそれだけでわたしは……初めて自分が生きていると知ることができた……」
リオネルが生きて帰ってきてくれただけで、これほどの幸せはないと思っていたのに……彼が甘やかすから、フィオナは欲張りになってしまった。
「…んで…」
フィオナの掠れた声に、リオネルが優しい笑みを浮かべ、先をうながすように首を傾げる。
「…死んでほしくなかった……」
涙の合間に切れ切れに言葉を繋ぐ。
「あ、あなたを……まもりたかったの……」
リオネルの目が大きく見開かれる。途端に強く引き寄せられ、リオネルの顔が見えなくなった。
他の誰もいらない。
このひとでなければ。
フィオナはリオネルにしがみつく手にぎゅっと力を込める。
「フィオナ」
艶を含んだ声が耳元で囁かれる。
少しだけ身体を離すが、ふたりの間には息が混じるほどの距離しかない。
彼がなにを望んでいるのかわかった気がして、フィオナの頬に熱が上り、鼓動が大きく跳ねた。
リオネルが顔を傾け、ゆっくりとフィオナに近づく。
しかしそのとき、フィオナは胸のあたりに耐え難いほどの熱を感じ、小さく声を上げた。
ふたりの間から溢れ出すように眩く輝く白い光が放たれる。
《おっと……邪魔するつもりはなかったんだが》
唖然とするふたりの頭上で、やや困惑した様子の白い鳥が羽ばたいている。
「ア、アル………⁈」
「なにっ⁈」
アルタリエは苦虫を噛み潰したような表情で、優雅に舞い降りた。
雨上がりの陽光を受け虹色を映す白い姿は神々しく、輝くばかりに美しい。
初めて見る姿だったが、フィオナには確かに彼だとわかる。考える間もなく手を伸ばし、大きくなった姿を強く抱きしめた。
あいかわらず体温のようなものは感じられず、雲のような、綿菓子のような、不思議な手触りだったが、それすらも懐かしい。
「……遅いわ。ずっと、待ってたのよ………!」
《なにを言う。我はずっとお前の中にいたではないか。お前の魂が弱り過ぎていて、顕現できなかっただけだ。我もまさかこんなタイミングで………うむ、覗きの汚名を被るのは本意ではない》
「もう………!」
リオネルは呆気に取られてフィオナとアルタリエを見比べていた。
フィオナの空っぽだった心が、途方もない喜びで満たされる。
涙腺が壊れてしまったかのように、あとからあとから涙が溢れて、自ら流した涙で溺れてしまいそうなほどだ。
最後には赤子の様に泣きつかれて眠ってしまい、夕方やっと目覚めたときには、高い熱が出ていた。
しかし伏せっているも間ずっとリオネルが枕元に付き添い、落ち着いた声で「心配いらない」「大丈夫だ」と囁き続けたので、フィオナの見る夢は穏やかで幸せに満ちたものばかりだった。




