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11. 鳥籠が失われたあとに

 細い手足をじたばたと動かしフィオナはなけなしの抵抗を試みたが、その程度でリオネルの鍛えられた身体はびくとしない。


「ほら、しっかり捕まっていろ。暴れても落としはしないが、不安定な体勢だと君が疲れるだろう」


 フィオナを片腕で抱え上げ満面の笑顔で屋敷を練り歩くリオネルを見かけた使用人たちは、唖然として持っているものを落したり、いけないものを見たようにサッと目を逸らしたり、顔を赤く染めて悲鳴を上げたりしている。


 反応は様々だが、普段の彼がこんなことをしそうにない人物であることはよくわかった。


「自分で歩きますから。あの、降ろしてください………」


 服越しでも触れた場所から確かに伝わる体温に、困惑や、羞恥や、申し訳なさや、とにかく訳のわからない感情にもみくちゃにされて、どうしたらいいかわからない。

 しかしリオネルはもっともらしい表情を作り、重々しく首を振った。


「だめだ。君は足の筋力が萎えて、まだほとんど歩けないだろう。庭が見たいのなら俺を使えばいい。歩く練習は徐々にするとして、少しは外の空気を吸うことも必要だからな。遠慮せず俺の首に捕まれ」


 リオネルはフィオナを軽々と抱えたまま、広大な屋敷の鮮やかな色目の絨毯の上を軽快に歩いていく。


 普段に比べて目線がぐんと高く、見える景色も、景色が通り過ぎる速さもまったく違う。無理に彼と並んで歩こうとしても、あっという間に引き離されてしまうだろう。


(これが、彼の目に映る世界………)


「それにしても君は軽すぎるな。こうしていてもまるで重さを感じない。もっと食事に肉の量を増やそう。いや、それよりもデザートの品数を増やすべきか………?」


 歩きながら、いかにフィオナを太らせるかの方法論を悩ましげに呟いているのが聞こえ、フィオナはこれ以上食べられないと震えあがり激しく首を振る。

 そうしている間に玄関ホールに辿り着いたリオネルが重厚な扉を押し開くと、長く忘れていた屋外の陽光と爽やかな風が、フィオナの頬を優しく撫でた。




 ******




 あの日倒れたあとのことは、朧げにしか思い出せない。


 冷え切った汚泥に飲まれたような、ひどい息苦しさだった。

 目を開けても何も見えない真の暗闇に包まれ、指先ひとつ動かせない。

 纏わりつく泥濘は次第に重くなり、身体はますます深く沈み込んでいく。


 どこからか、抗うな、という声がした。

 また別の方向から、このまま身を委ねて沈んでしまおう、と誘う声が聞こえる。


 嘲笑を含んだその声が、正しいように思えた。そして………思い残すこともないような気がした。


 ならばもう、誰の手も届かないところで静かに眠っても、許されるはずだ。



 しかし意識が無に呑まれようとしたとき、フィオナの手に熱いものが触れた。

 凍えて動かない手に灯った途方もない熱が、絡みつく汚泥を退け、取り返しのつかない深さへ沈もうとしたフィオナを強い力で引き上げていく。


 死ぬな、と誰かが叫んでいる。

 また俺を置いていくつもりか、と怒鳴る声は苦しげで、切実だった。


 誰の声か思い出せなかったが、とても懐かしく、温かく、涙が出るほど慕わしい。


(……なかないで………あなたを、かなしませたかったわけじゃないの………)


 気づけば、身を囲んでいた泥濘が跡形もなく消えている。

 そして今度こそフィオナは正しい声に従い、光射す方へ向けて顔を上げた。




 ******




「降ろすぞ」


 リオネルは庭園のベンチにフィオナをそっと降ろして座らせた。

 ようやく解放され、フィオナは騒がしい鼓動をどうにか宥めて大きく安堵の息を漏らす。

 風に洗われる白い髪を手で押さえながら、美しく整えられた侯爵邸の庭園を見渡した。


(気持ちいい………)


 初夏らしい陽気だが腰かけた場所は木陰に入っており、久しぶりに屋外に出たフィオナには過ごしやすい。健やかな緑の香りが清々しく、少し離れた一角で澄んだ水音を立てている噴水は目にも涼やかだ。


 戦勝記念祝賀会の夜からすでに一か月が過ぎていた。

 生家を追放され、行き場所を失ったはずのフィオナは今、思いがけない成り行きから名門と名高いランバート侯爵家に身を寄せている。


 生死を彷徨い、目覚めてからも衰弱しきった身体を起こせるようになるまでにさらに半月の時間が必要だったが、ランバート邸での日々は信じられないほど穏やかで満ち足りたものだった。


 他人と関わることに、ましてや世話をされることなど経験がないフィオナは、食事や着替えの度に介助が入ることに困惑するばかりだったが、ランバート家の使用人たちはスタニエ家の酷薄な者たちとは違い、皆フィオナに丁寧に接した。


 人の心の機微に疎いフィオナに彼らの本音まではわからないが、それでもあからさまな悪意や嫌悪のようなものを感じたことはない。

 それはやはり、リオネルの意向がしっかりと使用人たちにも伝わっているからこそなのだろう。


「ちょうど庭師が近くにいるな。少し待っていてくれるか?」

「はい」


 リオネルの言葉にフィオナは小さく頷く。

 フィオナの仕草を確認するとリオネルは頷き返し、生垣を手入れしている庭師の方へ歩み寄っていった。


(リオネル様は心配性なのね。目の届く場所なのに)


 まだ万全とは言えないが、少しずつ身体は回復してきている。


 フィオナは貴族家を勘当され、今は平民の身分だ。

 厚遇はあくまでランバート家の温情による一時的なもので、そう遠くない日に侯爵邸を出ていくことになる。


 身分も住む家も失い、ひとりで身を立てる術もない。

 しかし不思議と心は静かだった。


(わたしはきっと………自由、になった)


 ずっとフィオナを支配し続けていた虚しさが、いつの間にか綺麗に消えていた。

 たとえ侯爵邸(ここ)を出た瞬間に路頭に迷い、飢えや渇きに倒れ今度こそ息絶えたとしても、もう自分の命を無意味だったとは思わない。


 庭師と話し込む大きな背に目を止める。

 こんな風に思うことができるようになったのは、リオネルの存在があったからだ。


 彼の側は、不思議なほど心が安らぐ。

 深いオリーブグリーンの瞳に映り込む自分の姿を見るたびに、自分は亡霊などではなく、確かにここにいるのだと信じることができた。


 ただ、あまりに距離が近いと、自分でも制御できないほど落ち着かなくなってしまうのは困った問題だ。頬に感じる熱を冷ますように、ぱたぱたと手で扇ぐ。


(できるなら………ここを出ていく時は、ちゃんと自分の言葉でお礼が言いたい)


 緩やかに流れる雲を見上げていると、いつの間にか戻ってきたリオネルがフィオナの視界に割り込むように身をかがめ、手にしていた花束を差し出した。


「そんなに上を見上げていると、首が疲れるだろう。まさか空に飛んでいこうとでもしているんじゃないだろうな?」


 揶揄う口調だが、向けられる眼差しが思いの外強い。フィオナは少し戸惑いながらたっぷりとした嵩の花束を受け取る。


「庭師が持たせてくれた。この花はこれからが時期らしいから、まだ君の部屋にもないだろう。持ち帰って飾るといい」


 手の中にある花は、ようやく蕾が綻び始めたところだった。


 花の名はわからないが、薔薇とは比べ物にならないほど一輪が大きく、数本を束ねただけでフィオナの片手に余るほどの嵩がある。しっとりとした白い絹を幾重にも重ねたように華やかで瑞々しい。

 

 しかし香りは控えめで、花というよりはむしろ薬草のようなすっきりとした匂いがした。


「ありがとう……ございます」


 白い花束にそっと頬を寄せると、なめらかな花弁の肌触りが心地良く、自然と少し口角が上がる。


 フィオナの珍しい表情を目にしたリオネルが一瞬固まったが、再び落ち着いた笑みを浮かべるとベンチの側にしゃがみ込み、フィオナと目線を合わせた。


「この花は育てるのに水を多く必要とするらしい。切り花にしてしまったので、早めに花瓶に入れてやる必要がある。そろそろ部屋へ戻ろう」

「………はい」


 フィオナは頷くと、抱き上げるために差し出されたリオネルの腕を素直に受け入れ、身を委ねた。


 贈られた花を抱きしめリオネルに身体を預けていると、ふたりの間で温められた花から、先程までとは違う芳香が立ち上った。

 わずかに甘さを含んだ香りに深い安らぎを覚えると同時に、強く胸が締め付けられ、苦痛に耐えるように目を閉じる。


 その痛みはフィオナが初めてリオネルと出会った日に感じたものとよく似ていた。



 道中無言だったリオネルが、不意にフィオナに呼びかける。


「なあ」


 顔を上げると、知らぬ間にフィオナの滞在している部屋のすぐ近くまで来ていた。

 目の前にあるリオネルの顔を見返し、フィオナは再びピクリと身体を震わせた。


 彼の顔には、よからぬ悪戯を思いついた悪童のような笑みが浮かんでいる。

 リオネルは警戒になど気づかぬフリで、フィオナの抱えた花束に伸ばし、手の甲で軽く撫でた。


「この花……さっき庭師に聞いたんだが、『予期せぬ知らせ』という花言葉もあるそうだ。だから俺が今から言うことは、もしかすると君にとって思いがけない事なのかもしれないな」


 花から手を離し、リオネルは両腕でフィオナを抱え直す。


「フィオナ」


 オリーブグリーンの瞳が楽しげに光る。

 これ以上聞くべきではない気がするのに、フィオナの手は花を抱えていて耳を塞ぐこともできない。

 そして低く心地良い声が、信じられない言葉を紡いだ。



「俺と結婚する気はないか?」






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